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2011年6月26日 (日)

マクミラン版 プロコフィエフ ロメオとジュリエット マトヴィエンコ&小野組 新国立劇場(バレエ部門) 初日(6/25) ②

【プロコフィエフの世界観】

2つ目の記事では、プロコフィエフの思い描いた世界観とともに、もうすこし細部を抉ってみることにしたい。

ときに「プロコフィエフの思い描いた世界観」については前の記事にも書いたが、歴史的なことも踏まえて、もういちどまとめておく。プロコフィエフがこの作品を書いたのは、1935年から翌年にかけてである。このころ、既にプロコフィエフはロシアに戻っていたが、祖国ではスターリンが権力を握り、大粛清が始まっていた。ロシアは2度にわたる革命と内戦の結果、レーニンからスターリンに引き継がれた強権的な中央集権体制を敷いていた。1932年から翌年にかけてはロシアで大飢饉が起き、そのことはマクミラン版の『ロメジュリ』で登場する貧民や娼婦の姿にも反映されている(ただし、マクミランはこの方向には深入りせず、省略して描いているにすぎない)。

プロコフィエフは1891年生まれで、戦争の世紀に人生を送った。第1次大戦期にはまだ学生であったが、第2次大戦期は既に晩年に差し掛かっている。革命と戦争に翻弄される人生のなかで、プロコフィエフは最大の傑作、歌劇『戦争と平和』に象徴されるような劇的で、ロマンティックな、そして同時に「風刺的なリアリズム」に染まっていく。

シェークスピア原作の『ロメジュリ』はプロコフィエフにとっては、実のところ、『戦争と平和』のテーマとさほど隔たったところにあるわけではないのかもしれない。その作品ほどダイナミックなテーマではないものの、むしろ、都市抗争時代のヴェローナという小さな舞台の物語だからこそ、その悲劇は凝縮されている面もある。この街を動かすモンタギュー家とキャピュレット家の争いは、戦争や革命という現実を見つめつづけてきた作曲者にとって、あまりにもリアルだったにちがいない。

彼は両家のうら若い男女が恋に落ち、運命に翻弄されながら生き、死んでいくというシンプルなプロットに、非常につよい共感を抱いた。若い二人はプロコフィエフたち、ロシアの人民が自分たちにはどうしようもできないほど重いものを背負って、いがみ合わねばならなかったソヴィエト・ロシアの現実にピッタリだった。彼らは、ロレンス神父に助けを求める。その神父は一見、とても慈悲ぶかいようでもあるが、結局は十分に責任を果たすことができず、2人を死に追いやってしまうのだから皮肉である(マクミラン版では、神父の役割も省略されている)。

宗教は、ロシアの人民を一度として救ったことはないだろう。その点にも、プロコフィエフはちゃんとイロニーを仕込んでいる。例えば、ジュリエットの目覚めはもちろん、キリストの復活と重ねあわされているのだろう。しかし、その目覚めこそ、彼女がロメオの死を知るという最大の悲劇を導くのである。彼女は神父を信じたが、その信仰心は半ばだけが報われて(つまり、服薬して眠りについても目覚めること)、肝心の部分(ロメオとの再会と愛の成就)では、まったく報われない。

これらのイロニーを交えながら、プロコフィエフはソヴィエト・ロシアや世界、それらを包む時代への強いイロニーを込めて、この古くさい素材をバレエにしたのである。この作品で、プロコフィエフは一体、なにを望んだのだろうか。それはきっと平和であろうし、神の下での愛の成就だ。それらは、物語のなかでいずれも裏切られる。絶対権力者、大公(duke)は一見、その庇護者であるかのように見えるが、彼のつくりだしたような平和では、結局、なにひとつ意味をもたないというイロニーは明快である。先に書いたように、神父もまた、信じる者たちを守れないのである。いずれにしても、プロコフィエフは自分の望むものが決して、簡単には実現しないものであることをよく知っているのだろう。

しかし、彼は絶望者ではない。それは例えば、バルコニーの場でわかるだろう。あんな美しい音楽の・・・愛の力を組み立てることができる人に、絶望などあるわけがないからだ。

【作品と向き合うマクミランの姿勢】

次に、これに対するマクミランの姿勢もさらっておきたいと思う。上に書いたようなテーマに対して、マクミランはもちろん、舞踊に相応しくするための大胆な省略を試みている。踊りで表現できること・・・それによって力強く表現できることは、作品のもっているすべてではあり得ない。マクミランはあくまで、ロメオとジュリエットの恋愛劇、そして、成長劇に焦点を絞り、それ以外の要素は切り捨てないにしても、なるべく省略的に(コンパクトに)描いて、観客の想像力を刺激するに止めている。そして、アシュトンほどリラックスしたものではないにせよ、ユーモアも付け足して、作品を仕上げた。省略した部分には、既に述べたように、神父や宗教に対するイロニーや、大飢饉という歴史的事実を踏まえた貧民の発生という要素がある。

省略的とはいえ、第1幕の最初の場で両家のシンパが争いあう剣舞のシーンは戦争そのものであり、大公の出現したあと、これらの死体が舞台中央に集められて、両家が和解するあたりはとても重いものを感じるはずだ。

マクミランはこのように、死んだ者への敬意を決して忘れることができないようだ。ハリウッド映画のように、途中で何人死んでも、最後がハッピーならば、死者のことはもうどうでもよくなって、歓喜のフィナーレになってしまうという世界ではない。その分、下手な役者が目立とうとして、斬られてから粘りに粘って目立とうとするコメディアンのコントのように、例えば、刺されてから斃れるまでの動きが不自然に多く、そう簡単に死なないのは一種のユーモアであったのだろう。これにつづき、マキューシオの死に対するロメオの反応、そして、ティボールトの死に対応する母親の狂乱などが、舞踊的な表現でしっかりと表現されているので、このユーモアがぎゅっと締まってみえる。唯一の例外は、パーリスのところであろうか。彼だけはなぜかそこにいて(原作の筋からきていることだが)、淡々と死ぬ。

この日のティボールトの母親は、コリフェの楠元郁子。ややウェットながらも、息子の死に狂乱する踊りの激しさは、少しく胸を打つ場面だ。この母親はのちに、娘の死にも立ち会うことになるが、今度はもう、冷淡に噛みしめるような表現に変わる。人間は多くの死をつづけて体験すると、馴れっこになってしまうというイロニーがあるのかもしれない。

【マトヴィエンコの優しさ】

さて、周りの贅肉を落として、ロメオとジュリエットの恋愛劇に焦点を絞ったマクミランであるが、3つの幕で象徴的なパ・ド・ドゥをつくって、2人の関係を煮詰めていくという手法をとる。第1幕(バルコニーの場)は情熱的で、純粋だ。第2幕(婚礼の場)は優しく、たおやか。第3幕(寝室での別れの場)は複雑で、入り乱れた感情がわっと吐き出される。しかし、それらのすべての要素は、実は、第1幕のグラン・パ・ド・ドゥで完全に言い尽くされている。

この場面はまず、ハルモニウム(オルガン)の宗教的で優しい響きに始まるが、これが効果的である。テーマがうまく組み入れられ、マトヴィエンコと小野の動きが次第に解放される。小野の動きは端正で、サイズは小さいが躍動感があって、ラインも美しい。マトヴィエンコとの身長差は激しいが、だが、それが良い方向に動く場面もあった。それは、あのキス・シーンだ。マトヴィエンコは身体を上手に折り、相手のサイズに合わせて接吻する。その優しい仕種は、この踊り手のすべてといっても過言ではないほどだ。身長差があるからこそ、マトヴィエンコの優しさが本当に際立っていたともいえるのかもしれない。

マトヴィエンコは、女性ダンサーを決して手籠めにしない。相手役の自由さを奪ってまで、美しい表現をつくることに彼は興味を抱いてはおらず、相手とのハーモニーを常に意識しているし、そこに自然な表現が来るように、さりげない配慮をつづけているのだ。だから、向こうをむかせて高く掲げた小野の身体を、クォーター分だけひねりながら降ろしてきたときに、ちょうど2人の顔が向かい合うという動きが、奇跡的にはまってくる。マトヴィエンコのリフトは、単に安定感がありフォルムが美しいという以上に、相手に対して実に優しい。

第1幕のどこだったか、舞踏会の場で、ジュリエットを腰の辺りで持ち上げ、中途半端な高さで回転させる動きがある。そのとき、ジュリエットはまるで体重がないかのように、ふうわりと宙に浮かぶことができる。あのシーンも、みどころのひとつだ。

マトヴィエンコが良い踊り手であるのは(世評からみても)言うまでもないことだが、このような優しさによって、彼の素晴らしさを語りたいと思う。だが、その彼がこころを鬼にして取り組むのが最後の場面だ。ロメオの哀しみを爆発させるために、マクミランが用意した、この振付家独特の複雑なリフト・シーケンスなどで、彼はジュリエットをまるで人形のように、弄ばなくてはならない。地面を引き摺ったりもする。そのシーンは見ていて辛いが、だからこそ、ロメオ役のダンサーの優しさが問われることになる。

しかし、優しさとは・・・私がこれを語るのが相応しいかどうかはわからないが、とにかく、優しさとは、なんでもかんでも相手の思うとおりにするということではない。優しいからこそ、辛く当たるということもある。想いがつよいからこそ、死んだしまった(ロメオは死んだと思った)ジュリエットに対するロメオの扱いは、いままでのように紳士的ではあり得ないということもあるのだ。マクミランはそういうロメオの「狂乱の場」を描いたが、その意図をはっきりと示しながらも、マトヴィエンコはギリギリのところで、とても柔らかいのである。それは腕っぷしだけではなく、身体全体・・・脳を含む、人間を構成するすべての組織による、徹底的な優しさである。これは単なる静止とともに、身体表現の究極のひとつである。

フェッテやピボットなどについての批判であろうが、ところどころ粗いとかいう感想も出ているものの、それはどちらかといえば些末な、アマチュア・スポーツ的な見方であるように思う。もちろん、そうした細部が印象を決定するのは確かであるが、これに関しては、「木を見て森を見ない」という弊を犯さないように気をつけたいものだ。

【まだ良くなる舞台】

ただ、街頭のシーンなどにおいて、全体の動きがやや粗いという意見には賛成である。群舞の美しさや、表現力の素晴らしさは新国のバレエ団がもつ特徴であり、その総合力の凄まじさは、『アラディン』や『ペンギン・カフェ』といった演目で確認できた。それと比べると、このプロダクションでは先に述べたような、マクミランの省略とどのように向き合い、ロメオとジュリエットへの凝縮にどのようにして対置させるかという問題が、未解決のように思われるのである。

例えば、ところどころで自由な踊りを見せる「3人の娼婦」は、湯川麻美子、西川貴子、丸尾貴子というメンバーであるが、この3人の良さが、あまりうまく出ていないのだ。むしろ、踊りの野暮ったい部分だけが目立ち、このような古さとどのように向き合うのかというのが、こうした振付を扱う場合のポイントとなる。

対照的にとてもいいのは、服薬により不如帰(自註:冥土に通う鳥)となったジュリエットを見舞う(発見する)友人たちが踊る「百合の花をもつ少女たち」の場面だ。さいとう美帆、高橋有里、西山裕子、寺島まゆみ、長田佳世、米沢唯とメンバーも集めたが、音楽的にもリリカルであるし、トリッキーな娼婦の踊りと比べて、メンバーの共感が直截に感じられるのがよい。こうしたクオリティに、省略された要素がきりっと締まって、追いついてくるようだとさらに印象的な舞台になるように思う。欠点ではなく、よりよくするための可能性として理解したい。

もちろん、これらの些末な点で、舞台が粗っぽく感じ取れるほど酷いというわけではない。ここに書いているあらゆる記事を見て下されば、私が細部を蔑ろにするようなレヴュアーではないとわかってくれるはずだが、その私からみて、全体的にはとても丁寧な舞台であることは変わらない。それでも、あと一歩、煮詰めていけば、主要キャストだけではなく、全体で「ブラヴィッシモ!」をとれるような舞台になる。その可能性を夢見ることから、敢えて不足の点を指摘してみた次第である。

【最後に】

この舞台は、25/26日の公演のあと、29日、来月1-3日の間でおこなわれる。今シーズンを締めくくるに相応しい公演となっており、つよく推薦したい。チャンスがあれば、私自身、もういちど観てみたいくらいだ。

なお、終演後、1F客席でビントレー芸術監督がアフター・トークをおこなった。本日の演目に関して、若干のコメントがついたあと、来季のオープニングを飾る演目『バゴダの王子』についてのアテンションと、来シーズンよりプリンシパル・ダンサーに昇格するメンバーの発表がおこなわれた。従来、山本隆之のみがプリンシパルであったところに、小野絢子、湯川麻美子、本島美和、川村真樹、マイレン・トレウバエフの5人が加わる。

待遇などをめぐって大人の事情もあったのだろうが、ビントレーも言うように、プリンシパルが1人しかいないカンパニーなど存在しない。ビントレーは観客の前で、多く踊ったダンサーがプリンシパルになるという原則を整え、人数を増強したということだ。また、『バゴダの王子』については和服の着用、プリンセス役が「さくら姫」と命名されるなどの発表がなされた。

今回は、無料誌『ダンツァ』の編集長が聞き役であったが、一通りのやりとりのあと、会場から集められた質問などには一切触れなかった(単に女史が段取りを忘れたのか、劇場側の準備ができていなかったのかはわからない)。私はなにか投稿したわけでもないが、観客とのコミュニケーションではすこし損をした感じがする。つまり、試みとしてはもっとオープンなものにできたはずなのに、結局は一方的な発表の場になってしまったからだ。新国は「仕分けされる」劇場であり、カンパニーは少しでも多くの観客の愛情を集めなくてはならないので、こういう機会もうまく活用していかなくてはならないのだと思う。

【演目】

 プロコフィエフ バレエ【ロメオとジュリエット】

  (ケネス・マクミラン版/新国:2001年プレミエ)

 管弦楽:東京フィル(cond:大井 剛史)

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