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2011年6月25日 (土)

マクミラン版 プロコフィエフ ロメオとジュリエット マトヴィエンコ&小野組 新国立劇場(バレエ部門) 初日(6/25) ①

【あの日、聴くはずだったロメジュリ】

未だ原発問題だって、収束したとは言い難い状況ではあるが、日常生活の惰性のなかで、徐々に震災の記憶も遠ざかっていくものを感じる今日この頃である。日本人のこころのなから、むこう何十年の間、決して消えるはずはないはずの強い記憶が、それから遠ざかりたいという潜在的な願望に砕かれようとして、私のもっているはずの良心と鋭く対立している。しかし、人間とは実に弱いもので、私の知性はいつも強い記憶の味方をするのに、対照的に、こころのほうは願望のほうに、ともすれば流されていくようだ。

だが、いつも音楽とともにある私にとっては、幸い、知性とこころをつなぐインターフェイスとして、音楽は節々で効果的な役割を果たしてくれる。プロコフィエフのバレエ音楽『ロメオとジュリエット』は、私がこよなく愛する作品のひとつである。3月11日、予定どおりなら、私はこの作品を日本フィルの演奏会で聴くはずになっていた。アレクサンドル・ラザレフのチョイスによる組曲版からの抜粋、とても楽しみにしていたのに、私があと数時間もすれば出かけようとする矢先、あの震災が起こった。そして、あれから3ヶ月半。私は、それと同じ演目を聴くことになった。今度は、バレエの舞台である。

現在の英国ロイヤル・バレエ団の基礎を築いた振付家のひとりであるケネス・マクミランの代表作である『ロメジュリ』は、新国では2001年に初演、2004年に再演して、これで3回目の上演となるようだが、間に7年もの歳月を置いてしまったので、踊り手の感覚では実質上、レパートリーのつくりなおしにちかいように思われるのではなかろうか。この日のヒロイン、小野絢子などについていえば、当時はまだ、新国立劇場の研修所(彼女は研修所の3期生)にさえ入っていなかった。

【この作品を愛する理由】

さて、具体的な感想に移る前に、私がこの作品をなんで好きなのかということを、先に書いておいたほうが幸便だろう。その理由は、2つある。まず、プロットが非常にわかりやすく、平易であるのに、とても深い世界観を内包しているということだ。原作のシェークスピア自体がそうなのであるが、さらに音楽をつけたプロコフィエフによって、イロニーがところどころ強化され、付け加えられていることにも注目したい。この作品は単に青春純愛悲劇としても考え得るし、若い二人の恋愛を壊してしまう家や社会、親子の問題として考えることもできる。そればかりではない。この作品にはもちろん、宗教的な問題や、社会風刺といったものが随所に仕込まれ、ここでもシェークスピアは持ち前の毒づきの鋭さを発揮しているのだ。

そして、プロコフィエフはこうしたシェークスピアのもつ風刺性を、もちろん、彼の住んでいる当時のソヴィエト・ロシアの状況や、「現代」の戦争と重ね合わせて見ているわけである。

2つめの理由は上のこととも大いに関係するのだが、甘みのある美しい旋律の効いた音楽と、それとは対照的に、シニカルなものをたっぷりと含んだ音楽の混合による効果が、きわめて大きいことだ。このことについて、私は同じ作曲家の『シンデレラ』についても述べたことがあるが、例えば、タイム・リミットを迎えたシンデレラが慌てて城を去っていく場面で流れる音楽は、その場面を描くのに必要な要素をはるかに超えて巨大である。音楽は時計のティクタク音を基にしてつくられているが、それに追い立てられるシンデレラを襲う音楽は、まるで空襲を受けて焼け野原になりつつある街中を、人々が彷徨う様子を描くかのような重々しさを含んでいる。

この『ロメオとジュリエット』にも同じような要素がある。いちばんわかりやすいのは、マキューシオの弔い合戦で、ロメオがティボールトを殺害してしまう場面、および、それにつづくティボールトの死を描く場面であろう。音楽を聴くかぎり、ここで描かれているのは「ロメオ対ティボールト」といった個人性を飛び越えた、より大きな争いについてである。そして、ティボールトの死はひとり、彼の死を飛び越えた壮大なスケールに満ちているようにみえる。

このようなことから、私はプロコフィエフの作品のあらゆるレヴェルを同時に愛することで、この作品に対する熱い愛情を育てたわけであるが、それはとりもなおさず、この作品がそうした要素を併せもっている・・・単に「持っている」だけではなく、それが作品の本質を為すような部分に、それぞれ上手に埋め込まれているということの面白さがあることを示しているのであろう。

【フレキシブルなマクミラン版】

さて、DVDなどのメディアを含め、はじめて観たマクミラン版であるが、私には物足りない部分もなくはなかった。特に、序盤において、マクミランは音楽と必ずしも合わない振付をしている部分が見受けられ、そのような部分では、若干の退屈さを感じる。それ以外にも、やはり序盤で、ロシアの舞踊の動きを入れている部分があまりにも説明的であり、折角、そうしたものを巧みに隠して表現している、プロコフィエフの想いとはずれているように思われる部分があった。

また、この作品ではライトモティーフ的にロメオやジュリエットのテーマが準備され、それらが組み合わされて表現されることは周知のとおりである。もちろん、これはワーグナーのアイディアを受け継いだものであろう。ところがマクミランは、このモティーフのないところでも、舞踊的な盛り上げのためか、各登場人物の見せ場をつくりすぎているのだ。そのため、折角のモティーフのありがたみが薄くなってしまい、音楽と舞踊の関係性が若干、乱れているように思われるのである。

しかし、私は次のようなことも感じた。もちろん、私はマクミランについて、さほど知っていることはないと前置きしておく。だが、この作品をみる限りでは、マクミランは最初から完全に振付を固めてしまって、それを日本的な「~道」のように受け継いでいくというタイプの振付家ではなかったように思うのだ。もちろん、例えば、キャピュレット家を象徴する「騎士たちの踊り」は、そこから自由になりたいジュリエットの動きさえ緊縛してしまうように、定まった(あるいは、定めるべき)型が要所に配置され、これが音楽のライトモティーフのように、力強い効果を発揮するのも見逃せない。とはいえ、多くの場面ではむしろ型よりも、踊り手の「個性」・・・そういうのが軽薄ならば、「コミット」がより大事である場面が多いように思われたのである。

アシュトンが愉快ながらも型どおりのロッシーニ・タイプだとすれば、マクミランは、一定の型さえ守ればあとは自由にしてもいいショパン・タイプの振付家だったのではなかろうか?

その意味で、今回の新国のプロダクションはとてもエキサイティングなプロダクションになっている。この日のアフター・トークにおいて、上演の6時間前に到着したビントレー芸術監督が、自分のカンパニーのためのリップ・サーヴィスでもあろうが、1000回以上もみた舞台であっても感ずるものがあったというのは、あながち口先の話ばかりではないように思う。そう思っても不思議ではないぐらい、確かに感ずるところの多い舞台だった。そして、それこそがサー・マクミランが45年以上も前にかけた魔法の本質だったのではなかろうか。そう考えると、いまさらのことながら、やっぱりマクミランの振付は掛け替えのないものなのである。

7年間も店ざらしになったせいで、かえってプロダクションの新鮮さが増したということもあるのだろう。そして、この間に獲得した小野のような、フレッシュで才能あるダンサーや、群舞の成長、さらにオーケストラを含めた資源がうまく噛み合って、とてもいい舞台になっている。

【マトヴィエンコの巧拙】

初日となる6月25日の公演は、ロメオにゲストのデニス・マトヴィエンコ(マリインスキー劇場)、ジュリエットに小野絢子という主役組だった。今回のプロダクションでは、新国の所属ダンサーのほか、英国/バーミンガム・ロイヤル・バレエとロシア/マリインスキー劇場から3つのルーツを引いた踊り手が参加するわけだが、マトヴィエンコはボリショイ所属のころから新国に出演してきた馴染みのダンサーである。

だが、馴染みだからといって、完全に溶け込んでいるというわけでもないのは当たり前のことだ。やはり、八幡顕光(マキューシオ)、芳賀望(ベンヴォリオ)などと組んでパ・ド・トロワなどを踊る場合は(キャピュレット邸宅前の場)、センターのマトヴィエンコのノーブルな動きに比べて、脇の2人の甘さが際立ってしまって具合が悪かった。八幡あたりは自分がセンターで踊れば面白そうだが、マトヴィエンコと踊ると、あまりにも個性がちがいすぎて、自然、センターに合わせる形をとるとスケールが小さくなってしまうようでつまらない。

ただ、例えばパーリスの貝川鐵夫が第3幕で見せるリフトなどは、いつもよりはずっと大胆で、堅固さも申し分なかった。世界レヴェルの踊り手を間近に見て、ともに踊ることで、やはり学び取るものは少なくないのであろう。

【このプロダクションにおける日本人の良さ】

先のパ・ド・トロワについても言えることだが、このマクミランの振付はやはり、西洋人がやったほうが栄えそうな部分は多い。近年は日本のダンサーも大型化し、スタイルもよく、スケールの大きな演技をできるようにはなっているが(そして、海外でプリンシパルなどとして踊る人も少なくないが)、やはり、内面からにじみ出るようなノーブルさや、力強さといったものは、まだまだ劣る面も多いように思われる(特に男性ダンサー)。その点で、例の「騎士の踊り」が意外にスケール大きく、見せ場になっていることは、HPに掲載の初演時の映像と見比べても、確実に劇場の基礎力が高まっていることを教えてくれる。

さて、そのなかで私たち日本人によるプロダクション(マトヴィエンコは別として)で、特に優れている部分はどこなのであろうか。もちろん、それはあったのであり、既に示したようなビントレーの台詞からもそれは窺えるはずだ。私はその秘密を完璧に言い当ててみせるというほど、踊りを見馴れているわけでもないが、ひとつ挙げるとすれば、やはり、それは役柄に対する向き合い方の真剣さというところに認められるように思うのだ。特に、小野絢子の集中力の高さというのは、いつ、どんな役をみても、こころ惹かれるところがある。

【孤独なジュリエットのモノローグ】

この日の舞台で、私が白眉と思えた部分が2つある。ひとつは、この作品の象徴的な場面であるバルコニーの場だが、もうひとつは、自らの父親に政略結婚を押しつけられ、追い詰められたジュリエットがロレンス神父に助けを求め、ついに、服薬して眠りにつくまでのシーンである。ここでは、後者について触れるのが適切であろう。

これらの場面ではもちろん、ジュリエットはいろいろな人たちと踊っている。自分の両親をはじめとして、許婚のパーリス(破滅的なパ・ド・ドゥ)、乳母、神父などである。それにしても、これらの場面が、私には、ジュリエットによるモノローグ(ヴァリエーション)のように思えたのだ。もちろん、これは周りの踊り手の表現力がイマイチで目立たないというわけではなく(例えば、先に述べた貝川のリフトなど、印象的なものもあるにはあった)、本質的にそうなるはずの部分だということである。この部分こそ、ジュリエットの成長を示すところにほかならないからである。

マクミラン版において、ジュリエットは序盤、少女性(幼稚度)が高く、ぬいぐるみを抱えて踊ったり、乳母に随分と甘えた態度をとっている。恋愛に対してはかなりの初心であり、パーリスの求愛にも恥ずかしがって、まともに応えない。そんなジュリエットが人生で初めて決断したことが、ロメオとの関係だったわけである。ジュリエットは彼との関係のなかにおいてのみ、自分のもつ幼稚性を脱することができた。そして、追放になったロメオと別れ、父親に政略結婚を迫られて以後、その激しい孤独のなかで、ジュリエットは初めて、ロメオ以外に対して、自分で決断したことに責任をもつ。

パーリスとのパ・ド・ドゥで、彼との関係を拒むために、もっとも美しいバレエの動きをジュリエットがみせる破滅的なダンスこそ、マクミラン版のもつ見どころのひとつであるが、その正体とはもちろん、ジュリエットの孤独である。小野が向き合ったのは、この孤独だ。誰にも相談できず、唯一、頼りにした神父が教えてくれたのは、もう、祈るしかないような奇跡の秘薬の作用なのである。実際、この神父の試みは多分、間違っていたのだ。それがシェークスピア的というよりは、プロコフィエフ的な風刺につながっている。ジュリエットは神を信じるようにして、ロレンス神父の秘薬を信じるしかなかったが、信仰が孤独であるように、ジュリエットはそれをついに呑むと決めるまで、本当に孤独であった。

あの10分程度の時間で、小野が見せた集中力は、完全にジュリエットの孤独と相通じるものだったと思う。もはや彼女は、すべてを自分の背中に背負わねばならない。助けてくれるのは、ただ音楽ぐらいのものだが、その音楽も例えば、バルコニーの場や、ロメオとティボールトの決闘のときのように、甘いものではない。ここでは、ちょうどノルディック・スキーのジャンプの選手が自分の力で風を掴むようにして、ジュリエットの踊り手がその音楽を自分の味方に引き入れるようにせねばならないのである。だが、小野は完璧に、それをやってのけた。

ポワントでぐっと背を伸ばし、パーリスと対等であるかのように振る舞ってみたり、優雅なアティテュードをパーリスの支えに逆らうようにして見せたり、そういうわかりやすい場面はもちろん、ベッドに半座りになって物思いに沈むような、そんな静的な場面でさえ、小野は魂を感じさせる。むしろ、後者のような静的な場面のほうが、私の印象にはつよく残っている。

【ひとつひとつ丁寧に】

今回のプロダクションで素晴らしいのは、一体にそんな場面である。ひとつひとつの場面を丁寧に、コツコツと仕上げていくことがどれだけ大切なことなのか、ビントレーにも感じるところがあったにちがいない。

【大井剛史の指揮にも注目】

その意味で、大井剛史率いるオーケストラが、今回はとても素晴らしい仕事をしてくれるので注目である。私はやはり、バレエの舞台でも音楽につよい感興を求める姿勢は変わらない。その私が、音楽的にも素晴らしい出来だと太鼓判を押そうと思うのだ(もちろん、何の権威もない)。大井はかつて、新国バレエ部門の『カルメン』(石井潤版/再演)で、代演に成功しただけではなく、音楽的な改訂にも力を尽くして高く評価された人である。私もその舞台が印象的だったが、ただの一度では確信がなかった。しかし、私がつよく愛情を抱く作品の演奏で、いよいよその素晴らしさを確認するに至ったのである。

大井の仕事は単にまとまりがよいとか、響きが整っているというだけではなく、その響きを噛みしめ、内側から響いてくるようなものとして、客席に届けられる点が傑出している。その良さが、先に述べたような舞台の真剣勝負と絡み合い、今回の舞台を押し上げることにつながっている。初日の東京フィルはいくつか目立つ傷もあり、イントロダクションでは冷や冷やしたものだが、場面が重なるごとに響きがぐっと洗練していった。大井はバレエのこともよく知っていて、例えば、「マンドリン・ダンス」の場面ではアッチェルランドもルバートをほとんどかけず、そのなかで、響きがよく持ち堪えるように工夫している。

第3幕冒頭の「ロメオとジュリエット」なんて、途中でメンバーが変わったのではないかと思えるほど(第1幕ではほぼ同じ素材を使った『大公の命令』の場面がある)、響きも肉厚で、大胆な突っ込みがみられた。そのほか、第1幕最後のグラン・パ・ド・ドゥを盛り上げた厚みのある響き。「ティボールトの死」の場面では、序盤を抑え気味にしながらも、切れ味勝負にし、後半をぐっと持ち上げる(しかし、とても上品に)ことで、先に書いたような二重のイロニーを克明に、力強く描いている。大井がここで、東京フィルから丹念に引き出した強い響きは、のちに、悲劇の最高潮(ジュリエットの葬送)の場面でより効果的に用いられるが、その前に、リリックな「百合をもった少女たちの踊り」の粘りづよいパフォーマンスも効いていたことを忘れてほしくない。

大井の解釈はなにか奇を衒ったようなものはひとつもないのだが、既に述べたように印象があとを引く。例えば、バルコニーの場で受け止めた音楽のイメージが、25分の休憩を経たあとでも、「さあ、これから第2幕が始まる!」という瞬間に、嘘のようにハッキリと戻ってくるのである。盛り上げには煽情的な部分がなく、そのくせ、とても胸を衝かれる響きがあるようだ。自然に、プロコフィエフの書いた音楽が・・・そのこころが、観客へと届けられる。その分、マクミランの演出に納得のいかないところも出てくるわけである。

彼はオペラ劇場でも、しっかり通用するタマだろうと思う。私はかつて、ロッテルダム・フィルの公演で、ゲルギエフのバレエ版全曲演奏を聴いたことがあるが、あれと比べても全然、遜色がなかった。経験を増やしていけば、もっともっとすごい指揮者になるかもしれない。彼は新国バレエでは常連になりつつあり、今後、年末の『ナッツ・クラッカー』や、新シーズンのバレエ・ガラでも指揮者に起用されているので注目だ。

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