2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« マクミラン版 プロコフィエフ ロメオとジュリエット マトヴィエンコ&小野組 新国立劇場(バレエ部門) 初日(6/25) ② | トップページ | クルト・グントナー ハイドン 交響曲第91番 ほか 武蔵野音楽大学室内管弦楽団 演奏会 7/1 »

2011年6月28日 (火)

クァルテット・エクセルシオ チャイコフスキー 弦楽四重奏曲第3番 ほか 東京定期 6/26

【クァルテット・エクセルシオとは?】

いつも言いますが、クァルテット・エクセルシオ(以下、エク)は、日本で数少ない常設のクァルテットであり、NPOとして活動している世界的にも珍しい存在です。その活動は定期演奏会を中心とした継続的な演奏活動(最近は新潟でも継続的に演奏しています)に加え、現代音楽の演奏、そして、地域と連携したアウトリーチ活動(札幌や、富山県の入善など全国各地)という3本柱になっています。

もちろん、演奏の素晴らしさも折り紙つきであり、サントリーホールの室内楽アカデミーでもピアノの若林顕氏とともに、「コーチング・ファカルティ」に任命されて、若いアンサンブルを指導しています。エクも新日鐵文化財団から「フレッシュ・アーティスト」賞を授かったばかりですが、これはすこしばかり冗談めいた話で、プロとして、もう10年以上のキャリアを積んでいるわけです。

【日用品→スペシャリティ→未来への挑戦】

さて、定期演奏会は現在、東京と札幌でおこなっています。26日が東京で、28日が札幌ですが、私は東京文化会館(小ホール)を舞台とした東京定期を聴きました。今回のプログラムはチャイコフスキーの第3番が入ったのが目玉で、あとはシリーズもののモーツァルトの初期作品から第8番(K.168)、そして、ベートーベンの「セリオーソ」という構成になっています。演奏順はモーツァルト→ベートーベン→チャイコフスキーですが、これはエクにとっての日用品→スペシャリティ→未来への挑戦という筋書きになっているようにみえます。

【寝そべって百科事典を読むモーツァルト】

まず、モーツァルトからいきます。この作品は1773年8月に作曲され、ウィーン旅行の最中に書かれた「ウィーン四重奏曲」として知られているもののうちに入ります。モーツァルトはこのとき、まだ17歳でした。作品は古い形式に基づき、ハイドンからの影響も相当に指摘されます。エクは第一音からノーブルな響きを聴かせ、リラックスした雰囲気で作品のもつ繊細な美しさをのんびりと伝えてくれます。穏やかな雰囲気ではありながら、演奏はコンパクトにまとまっており、先日のプレスラーの表現を思わせるように、控えめななかにも、優美で気品ある表現がぎっしり詰まっている感じでした。

この楽章の演奏を聴いて、やはり他人に教える・・・純粋な若い人たちの表現と向き合うことで、エク自身も着実に成長しているのだとわかります。逆にいえば、それこそがサントリーホールの室内楽アカデミーの、つまりは、そのディレクターである堤さんの狙いなのかもわかりません。この(K.168)はモーツァルトの作品のなかでは小ぢんまりとした作品なのですが、そうした曲で、これほど面白い演奏をできるようになったというのが、エクの成長を端的に示しています。

特に、とても古い時代の様式を模した第2楽章(緩徐楽章)の演奏が面白く、こういうスタイルならば、クラシコ(古典四重奏団のこと)が得意そうなのですが、彼らのようにガット弦を張らなくても、エクは十分に温かみのある響きを彫り出していますし、清楚で、かつ、柔らかみのある響きになっていることが面白いと思いました。

でも、本当に面白いのは、そうした古い様式の作品のなかにも、モーツァルトらしい要素をしっかり溶け込ませていることです。具体的には言葉では説明しにくいので、次のような表現をとります。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

夏のウィーンは暑かった

仕事が・・・まだ誰にも頼まれない仕事が捗らないときには、

モーツァルトはベッドのうえで、

音楽の百科全書を開くのが習慣だった

彼の胴体ほどにも大きく

装丁は鄙びて、だいぶ脆くもなっていた

厚くて重い本のなかの、

軽くて、いまにも粉々になりそうなページを

モーツァルトは大事そうにめくっている

うつぶせでベッドに肘をつき、頬杖にして、

足をバタバタさせながら、

子どものように寝そべって!

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

つまり、単純に古い様式を古い様式として演奏するだけではなく、そこに、一種の寛いだものがあり、尊敬のなかでも、随分と身近な種類のそれが、響きのなかに溶け込んでいるように感じられたのです。

無窮動なフィナーレの最後の音が切れると、あっけない感じではありましたが、演奏会の最初にしては、とても引き締まったプログラムと感じられました。これで大きな感動を誘ったり、クァルテットの凄さを感じさせられるような曲ではないけれども、いつもカバンの目立たぬところにしまっておけば、なにかと便利なナンバーであるように思いました。こういう曲ができるならば、私の好きなアリアーガの作品にも取り組んでほしいところです。

【古典的なアプローチ】

メインは、チャイコフスキーの第3番です。チャイコフスキーは初期から中期のはじめにかけて、3曲の弦楽四重奏曲を書いており、それ以外は書いていません。この第3番はチャイコフスキーがとても高く評価していたヴァイオリニストの、フェルディナント・ラウプの死を悼んで書かれたものです。ラウプは同時代のヴュータンなどと並び称されたヴァイオリニストで、特に、室内楽のスペシャリストだったようです。北欧のイェーテボリで、スメタナとデュオを組んで演奏したという記録もあるそうです。

演奏自体は、まだまだ奥があるような感じを抱かせました。そもそも、この作品は弦楽四重奏曲のレパートリーでは、多分、特殊な位置づけを与えられる作品で、モーツァルトやベートーベンの延長線上にある語法だけでは不足となります。しかし、敢えてエクは、この作品を室内楽のメイン・ストリームのなかに位置付けて演奏する・・・という難しい姿勢をとっています。そのアテンプト(試み)は一長一短ですが、普通、この作品にイメージされるようなシンフォニーやバレエ、オペラなどとの共通点を単純に強調するのではなく、弦楽四重奏曲は弦楽四重奏曲として演奏したことで、そのフォルムの上品さは、ほかの録音などと比べても際立っていたように感じます。

一方、特に終楽章などが顕著ですが、響きに弾力性が足りず、作品の立体性が損なわれやすいのが欠点となるでしょう。その点をいかに克服するのかということは、エクにとって、今後の課題として残ったように思います。しかし、「定期」というのは、それでいいのだと思います。最初からなんでもかんでも、上等に演奏できればシクはないのですが、まずやってみて、それを端緒に道を切り開いていくというのも、中長期的な視点からみれば重要なことといえるはずです。

もちろん、なにも聴くものがないようなレヴェルで演奏されては堪りませんが、エクの今回の演奏では、少なくとも私が思っていたよりも、ずっと奥深い内面性があることに気づかせてくれましたし、古典的な様式の延長線上で知恵を絞れば、まだまだ可能性のある作品だということも堂々と示してくれました。特に、前者の内面性ということに関して、エクは非常に共感がつよかったように思います。

【F.ラウプとともに】

チャイコフスキーの書く追悼作品はこのクァルテットにしても、ピアノ・トリオにしても、とてもいいものだと思いますが、そういう部分に対するイメージは2011年を生きる、我々日本人の場合、あるイメージと結びついていくのは避け得ないことです。それと、もうひとつはショスタコーヴィチです。この作品のアンダンテによる葬送曲などは、後世のショスタコーヴィチにもかなり強い影響を与えているのではないかと思いますが、エクもまた、あくまでチャイコフスキーのスコアのうえではあるけれども、そのイメージをところどころ思い浮かべるところがあったのではないかと想像します。

このアンダンテの演奏だけならば、かなり満足できる出来であったと思います。特に印象的なのは、第1ヴァイオリンの弾いた旋律をヴィオラがそのまま追っかけてから、響きが変わっていく場面です。この曲はヴィオラの吉田さんが九州の音楽祭で聴いてから、演奏を熱望していたそうですが、そんなに長いわけではないのに、しかも、ヴァイオリンの後追いであるというのに、このヴィオラ・ソロはとても効果的に思えます。それはヴァイオリンよりも声が深い、ヴィオラならではの効果があるからだと思いますが、それは(亡くなった)ラウプの響きにつづいて自分たちが弦の響きを保っていく・・・それも、発展的に保っていくということについての、作曲者(たち)の密かな決意を示しているのかもしれません。

思い返してみれば、この作品ではラウプがいたはずの第1ヴァイオリンに比重の置かれた書法が強調されています。リード・ヴァイオリンの動きが常に中心に置かれ、それをサポートするように別の声部が働いている場合が圧倒的に多い。この意味で、第1ヴァイオリンの西野さんの役割が重要になりますし、基本的には、そのパートに強い個性をもつ団体が弾くべきだという風にもいえるでしょう。西野さんはリード・ヴァイオリンとして高い能力をもっており、その点でクァルテットの魅力的なトーテム・ポールとして役割を果たしてくれていますが、そこまで強い個性の持ち主であるとは言いきれません。

しかし、そうであっても、西野さんはラウプの役を実に真摯に演じていましたし、その面で、彼女のもつ一種の真面目さが際立った演奏ではあります。彼女が描く響きのなかに、名ヴァイオリニストの面影が浮かんでいました。

元に戻って、アンダンテ楽章の最後では、フェルマータではなく、タイでつながれた長い、弱音の響きが書かれています。それは弦楽器で保持するのが実に難しい・・・というよりも、ほぼ不可能な厳しいスコアです。エクは、その意味もしっかり理解していました。それは正に、ラウプと親しかった人々の堪えきれない魂の叫びにほかなりません。

ところで、この日のプログラムはどれも個性的で、内向的な緩徐楽章、そして、無窮動な最後の場面という特徴をもっています。上のアンダンテとは対照的なチャイコフスキーのフィナーレは、キリスト教徒にとってのもうひとつの死の意味を表現しているようです。それはつまり、この世での役割をおわって、神による浄化に一歩近づくということでしょう。既に言ったように、こうした世界観に基づく弾力性のなさこそが、今回のエクの演奏にとって大きく欠けていたものです。コーダの部分などは、特にそうでしょう。

しかし、その直前で、過去の素材がほんのわずかに姿を見せる場面の演奏はとても良かったと思います。そのようなポイントで、いかにしてラウプを描くことができるのかという課題については、既に書いたことも含めて、十分に見どころのある演奏だったと感じています。

そのこととは直接、関係がありませんが、この作品でもプレスラーからの影響が感じられる部分がありましたので、最後に書いておきます。それはスケルッツォの部分で、ベースの響きを落とし、ユーモアを示す音だけを強調していたことです。これはプレスラーがシューベルトのソナタ(D960)のスケルッツォで、三連符のみに強打を入れて、響きのなかに仕込まれたユーモアを端的に表現していたのとまったく同じ手法でした。

【音楽の省略について】

最後に、ベートーベンの弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」について触れます。この作品は先日、澤Qの演奏で聴いたばかりですが、それとはまったく別のタイプの演奏ながら、これまた深い感銘を受けました。エクの演奏は表現のポイントを絞りに絞って、もうこれ以上、削れないようにしたところから始まります。まるで「ピリオド派」(死語である!)のような言い方ですが、微妙にちがっています。「ピリオド派」の運動は、一時代に栄えた巨匠的な音楽家が任意に膨らましてきたイメージや、響きの悪しき伝統を剥がしてから、新たに、スコアに忠実なやり方で、個性的な表現を組み立てていこうとするものでした。

エクのやったのは、単にそうした誇張的な部分ばかりではなく、スコアそのものから読み取れるシンプルさの追求であり、構造そのものの簡素化による徹底した響きの選別というところに主眼があったからです。先日、パシフィカQのベートーベン演奏について触れましたが、それでさえ物足りないと思っている人たちがあるとしたら、エクの演奏はそれこそ、なにをやっているのかわからないというレヴェルになってしまうにちがいありません。

しかし、常々いっているように、ウィーン音楽とは基本的に、省略の美学であります。ベートーベンはドイツ人ですが、ウィーン人といっても何の不都合もないでしょう。もちろん、だからといって、彼の音楽は構造の美学からも、一歩も退くものではないはずです。2つの美学を対立のまま綜合し、止揚するといったらヘーゲル的な言い方になりますが、そういう質の離れ業が音楽の世界ではわりに簡単にできてしまいます。

いま、「簡単に」と言いましたが、それには発想の転換が必要なのです。多くの若い音楽家たちは(しばしば若くはない音楽家たちも)テクスチャーを精細に表現することに、その解像度の高さに力点を置いて練習しています。ベテラン指揮者のスクロヴァチェフスキも、スコアをレントゲンにかけるという表現をしていることはご存じの通りでしょう。しかし、この2つの姿勢は、実はイコールではないのです。スコアを見たままに表現すればいいのなら、なにもX線にかける必要はないわけですから。X線にかけると、見かけからは分からない要素が見えてくる。同じ八分音符であっても、その役割によって、微妙に揺らぐ役割があります。それを見抜くために、レントゲンにかけるわけです。

ウィーン音楽では、このようにして構造を間引きしながら、全体の構造を巧みに生かしていくという二重のイロニーが必要なのです。この「セリオーソ」においては、エクは完全に、こうしたイロニーを支配しています。楽曲自体が20分強のコンパクトな作品ですが、私にはもっと短いように感じられたものでした。それなのに、私の知っている範囲で、この楽曲がもっているすべての要素がソツなく生かされてもいたのです。このような体験から再び思い出されるのは、メナヘム・プレスラーのことです。

もちろん、自分の好きな音楽家を勝手な価値観で結びつけるのは良くないことです。しかし、プレスラーがその80有余年で培ってきた室内楽のエッセンスを体現するピアノを弾いているとするならば、その道を歩み出して、「まだ」10年あまりとはいっても、優れた「フレッシュ・アーティスト」である彼らがところどころ、その真髄に迫る表現を掴みとっていたのもあり得ない話ではなく、むしろ、当然のことと言えるでしょう。

【捉えがたいワルキューレの悪戯】

細かい話は大幅に割愛して、いちばん印象に残った部分を書くとするならば、それは第1楽章の冒頭です。まずユニゾンの主題演奏は、かなり決然とした形で入ります。パウゼをたっぷりとって狙いをつけ、美しい花に遊ぶ妖精を捉えようとしてチェロが飛びつくのですが、悠々と分裂した3つの声部が、まるで実体のないワルキューレのような感じになり、今度は罠にかかったチェロに襲い掛かる(ワルキューレは死者を選別する)という感じに聴こえたのです(注:これはいま考えた表現ではなく、リアルタイムでパッと思いついたことです)。

これこそが、先の「省略」に対する象徴的な出来事だったのではないでしょうか。澤Qのときにも書きましたが、「セリオーソ」とは「厳粛な」という意味で、その厳粛さは、形式の厳粛さのなかに認められます。しかし、澤Qはその厳粛な形式からはみ出した「ミステリオーソ」の部分に、表現を傾けていると書いたものです。必然性のなかに表れる、可能性の表現というわけですが、エクはこれとは別の意味で、厳粛さのなかに可能性を生み出しているのです。

それは澤Qの描いたような、固定的なものから逸脱していくときのベートーベンの凄味ではなくて、もっと穏やかな表現の遊びなのです。例えば、ジェンガという積木がありますが、あれをどう抜いていけばいいのかというような質の愉しみです。しかし、それをよく考えて抜いていった結果、彼らが選びだしたフォルムの洗練は、ジェンガがただの塊であったときよりも、いっそう堅固で構造的なのです。

突っ込んでいくチェロだけが男性(大友肇)で、ほかの3人が女性だということも、偶然ながら、面白い効果を呼び起こします。しかも、3人のワルキューレにはそれぞれ個性があり、今回、それをつぶさに見極めるところまではいかなかったのですが、これを聴くだけでも、何度でも楽しめるのではないでしょうか。もうひとつ面白いことに、同じようなアクションは以後、何度も繰り返されますが、上にみるような現象は最初の一回だけで確認できたことです。これもきっと、意図的なことなのです。

【まとめ】

全曲、すべてが完璧にいったという感じはしません。それでも、エクのコンサートはいつもエキサイティングで、爽やかな印象を残します。そして、これもいつも言うことなのですが、聴く度になにかの要素が向上していて、こんなに言葉を弄しても語ることが尽きないアンサンブルなのだということを強調しておきたいと思います。

次回は11月で、ドヴォルザークの14番と、ベートーベンの8番という重量級の公演が予定されています。

【プログラム】

1、モーツァルト 弦楽四重奏曲第8番 K.168

2、ベートーベン 弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」

3、チャイコフスキー 弦楽四重奏曲第3番

 於:東京文化会館(小ホール)

« マクミラン版 プロコフィエフ ロメオとジュリエット マトヴィエンコ&小野組 新国立劇場(バレエ部門) 初日(6/25) ② | トップページ | クルト・グントナー ハイドン 交響曲第91番 ほか 武蔵野音楽大学室内管弦楽団 演奏会 7/1 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/52069002

この記事へのトラックバック一覧です: クァルテット・エクセルシオ チャイコフスキー 弦楽四重奏曲第3番 ほか 東京定期 6/26:

« マクミラン版 プロコフィエフ ロメオとジュリエット マトヴィエンコ&小野組 新国立劇場(バレエ部門) 初日(6/25) ② | トップページ | クルト・グントナー ハイドン 交響曲第91番 ほか 武蔵野音楽大学室内管弦楽団 演奏会 7/1 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント