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2011年6月 6日 (月)

スヴェトリン・ルセヴ&中川賢一 デュオ・リサイタル @白寿ホール 6/3

【年輪のうえにある太さ】

声楽の世界では、ヘルデン・テノールやテノーレ・ドラマティコを歌える人材が払底してしまい、ステファン・グールドだの、クラウス=フロリアン・フォークトだのという「もどき」がもてはやされている現状である。歌手がいなくても、『リング』や『オテロ』を封印するというわけにもいくまいから、せめて代用品のうち、なるべく質のいいものを選ぶのは間違った態度ではない。それにしても、代用品は代用品とわかって我慢しているうちはいいのだが、あまりの欠乏のうちに、ついに本物の味がわからなくなっているのが、今日の我々の現状ではなかろうか。かくいう私も、そのような欠乏から免れる者ではない。

それならば、せめてヴァイオリンの世界で、失われた声楽の殿堂について思い出すのも悪くはあるまい。スヴェトリン・ルセヴは、本物のヘルデン・テノールを目指すことのできる迷宮への切符ぐらいは手に入れたといって間違いではないと思う。これまでに私は、その切符をもたぬのに、力みかえって代用品を本物と見せかけようとする人たちを、不快にも、何人か見てきた記憶がある。例えば、ヴァディム・グルーズマンとか、イリヤ・グリンゴルツといった面々だ。ルセヴと彼らは、明らかにちがう。それにしても、一体、なにがちがうのであろうか?

一口に言えば、響きがまったく違うのだ。ルセヴの出す響きはつよく、逞しい。だが、それだけではない。その逞しさのなかに、いわば幾層にもミルフィーユのように重なった厚みがあるのである。上に挙げたような人たちは、もう、力任せに図太い丸太ん棒を振り回しているだけにすぎず、実はその丸太のなかに、もとは大木として立っていた樹木の、生命の重みを示す「年輪」があることを知らないのだ。これに対して、真に賢い人たちは、その年輪のなかに打ちつけられた人生を慎重に読み取っていくことで、大木と一体となろうとする。大木の歴史を知るための旅は、そのような謙虚さからのみ辿り得るのである。これが、私のいう「切符」なのだ。これから何十年とかけて、ルセヴは自らの選んだ大木の秘密に少しずつ迫っていくことだろう。

【命がけの解釈】

今回、スヴェトリン・ルセヴはピアノの中川賢一と組んで、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ全3曲を演奏し、さらに『F.A.E.ソナタ』のスケルッツォまで付け加えた。実に、見事な演奏ばかりで感じ入ったものである。ルセヴの演奏は2009年に、同じ中川賢一とのデュオを聴いていたので、その凄さは身に沁みてわかっていたつもりだ。しかし、当夜のブラームスでは、また別の面がみられたように思う。それはもう、命がけとしか言いようのないものだ。

例えば、ブラームスにしてはメロディアスな『F.A.E.ソナタ』のスケルッツォを聴いただけでも、それはわかる。これほど「自由、然れども孤独」・・・つまり、歴史的なヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの掲げていたモットーを実現したスケルッツォの演奏は、今後、ほとんど耳にすることができないだろう。冒頭から、炎のように強い演奏。しかし、その強さを維持しながら、決してぶれることない響きの気高さと自然さが沸騰した。並みのヴァイオリニストが真似すれば、必ずや醜い演奏になるほかない。正に、丸太ん棒を振り回すような演奏になるだろう。ルセヴは、彼らが到底、気づき得ないような・・・つまり、それはブラームスがどうして、こんなに激しく、甘いスケルッツォを書かなければならなかったかというところから、すべての秘密を明らかにしている。

【友人たちのなかで突出したかったブラームス】

ブラームスはきっと、シューマンやディートリヒに引けをとりたくなかったのではなかろうか。私はブラームスの性格などについて、断片的な情報をもつばかりで、はっきりと心得ているとはいえないが、それでも、嫉妬ぶかく独占欲がつよいという印象は拭い去れない。友人に対しても、彼は常に一歩先を歩かなければ気が済まない感じである。ドヴォルザークのように従順で、純朴な友人とはうまくいくこともある。一方、いずれも女性問題をめぐってではあるが、シューマンやヨアヒムとは日に蔭に諍いを起こしている。また、若き天才作曲家、ハンス・ロットに対する酷評について、ネーメ・ヤルヴィ氏は日本フィルの「マエストロ・サロン」のなかで、この天才的な青年に対する嫉妬の感情があったことを示唆していたという。

4つの楽章で、ブラームスのスケルッツォは際立っている。そのことは、ディートリヒやシューマンによる他の楽章が今日、ほとんど演奏されない(素材が転用されたシューマンのソナタ第3番は別物と判断して)のに対して、このスケルッツォは単体で、しばしば演奏されることと比べてみるとよくわかる。ブラームスは単なるヨアヒムへの贈り物としてよりは、自己の生存証明、もしくは価値証明として、3人のなかで抜きん出たものを書きたかったにちがいない。その想いのつよさが、このような起伏の激しい音楽として表出されるに至ったのである。ルセヴはその想いに立って、演奏を組み立てた。しかし、激情のなかにも、緻密な骨組みを用意することを忘れない・・・否、強く成功したいと望めばこそ、がっちりした構造の作品を書いてしまうのがブラームスなのである。その点についても、ルセヴはハッキリとフォローしている。

ルセヴの演奏では、この隅々までメッセージの詰まった味わいぶかい1曲は、それを構成するパーツごとの美そのものによって、また、その緻密な集積によって結晶したものとして受け取られる。強い部分では、それに見合うだけの響きの結合、もしくは、関係性が明瞭に浮かび上がらなくてはならない。トリオでは性質が異なるものの、同じように、その甘さや優しさを構成するに足る関係の綜合が、もっと繊細なやり方で結びついているように表現しなくてはならないのである。そして、これらは完全に溶け合って、整然としたコーダを形成する。つまり、主部がはっきりと、堂々と演奏されれされるほど、中間部の柔らかな発想が厳しくなるのである。

そのため、多くの演奏ではむしろ、主部をたおやかに演奏することで、全体に甘ったるいカンタービレを際立たせることでお茶を濁すような形になっている。私のイメージでは、このスケルッツォはもっと輝かしく、劇的ななかにも、いくぶんセンティメンタルな表情をしていたのだが、ルセヴはその欺瞞的な解釈を完全に拭い去ってしまう。もはや、私にとって、『F.A.E.ソナタ』のスケルッツォはたおやかな歌声の楽章ではあり得なくなった。それはブラームスのこころの叫び・・・彼が内包し、いつもは隠しているが、ときには剥き出しにする闘争心の熱さを前提に考えざるを得ないものだからである。

 (②につづく)

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