2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« ヴィオラスペース2011 コンサートⅢ ヴィオラ・ヴィオラ・ヴィオラ 5/29 ③ | トップページ | ヴァディム・ホロデンコ  ピアノ・リサイタル 【メトネル&プロコフィエフ】 仙台国際音楽コンクール Winner'sコンサート 6/2 ② »

2011年6月 3日 (金)

ヴァディム・ホロデンコ  ピアノ・リサイタル 【メトネル&プロコフィエフ】 仙台国際音楽コンクール Winner'sコンサート 6/2

【イントロダクション】

仙台は3/11の震災で、未曽有の被害に見舞われた地域を含んでいる。仙台市で死亡したり、行方の分からない人は、5/21付の新聞記事では869人ということである。不幸中の幸い・・・という言葉には当たらないが、仙台国際音楽コンクールというイベントについてだけ考えれば、第4回が2010年であったことは本当によかった。3年後、再びコンペティションが開くことができるような状況に戻っているのか、この日、奇しくも日程が重なった内閣「不信任」騒動をみる限りは、まったく予断を許さないことだ。あのていたらくでは、どっちの党が主導権を握ろうとも大差はあるまい。コンペティション会場である仙台市青年文化センターも損傷を受け、いまは利用することができない状態で、コンペティションの受けたダメージは計り知れない。

しかし、第4回が無事におこなわれ、特にヴァディム・ホロデンコを掘り出したことについては、せめて、コンペティションにとって一財産となる出来事であってほしいものだ。

ただ、相変わらず、ホロデンコの人気は芳しくないようである。客席は空席が目立ち、折角の高度な演奏も、それに驚嘆するオーディエンスが少なすぎて、十分な熱狂には高まらなかった。いかに音楽がよくても、それを受け取る側の情熱がなければ何にもならないのではなかろうか。もちろん、人気がないアーティストが駄目なのではない。我々がそうした素晴らしいものに、どれぐらい真剣にセンサーを張り巡らしているかという問題だ。

それにしても、メトネル&プロコフィエフというプログラムは、日本では、あまりにも挑戦的なプログラムである。メトネルはほぼ無名といってよく、プロコフィエフは知名度のわりに、人気がない。オーケストラの関係者の間では、プロコフィエフでは客が呼べないというのが通説になっているというぐらいだ。しかし、私にとってはとても大事な作曲家が並んでいることになる。それは奇しくも、ホロデンコにとっても同じようである。

【メトネルについて】

前半は、メトネルだ。ニコライ・メトネルはラフマニノフとほぼ同時代人で、尊崇するラフマニノフのあとを追って西側に渡った。しかし、彼ほどの成功を掴むことはできず、亡命したというわけでもなさそうだが、その後、祖国に戻ることはなかったし、自国でも忘れ去られてしまうことになる。ただ、後年、メトネルは英国でインドのマハラジャに庇護を受け、その音楽的な遺産を遺すためのサポートを受けた。今日ではコンペティションなどで頻りに演奏されるようになり、録音も増えてきている。

わが国ではロシア出身ながら、『葉隠』に親しみ、日本ベースで活動しているイリナ・メジューエワや、辻井伸行のコーチとして有名になった川上昌裕(私はメトネルやカプースチンのスペシャリストとして知っていた)らが重視し、普及に努めてはいるものの、一般的には既述のとおり、ほぼ無名にちかい作曲家といって間違いではない。

しかし、その作品はラフマニノフよりも緻密であり、テクスチャーが繊細で、表現に多彩さがある。ラフマニノフは一点を穿つことができれば、それでほとんどのレパートリーはカヴァーできるように思われる。ただし、その深度がふかく、なかなか本当の底には辿り着かない。とはいえ、いちど足がつけば、プレリュードを弾くのとコンチェルトを弾くのでは、さほど違いがないのである。メトネルの場合は、もっと豊富な語法が必要である。もちろん、それはメトネルの作品に一貫性がないのではなく、音楽性を示す表情や、詩情を導くアイディアがずっと豊富なせいである。

その点で、今回、ホロデンコが演奏した『おとぎ話 op.51』は、本当に面白い作品である。わざわざ作品番号を付したのは、メトネルは同名の作品をいくつも書いているからだが、このジャンルの作品では、(op.51)がいちばん最後のものに当たる。

【ホロデンコの特徴】

その前に、メトネルの初期の作品『ソナタ三部作』で始めたホロデンコは、ストリーミングで聴いた印象と比べれば、ずっと強さのあるピアニストである。これまでの印象では、いってもリリコぐらいの重さであろうと考えていたが、こうして実際にホールで耳にしてみると、意外なスピントのつよさに驚いてしまった。ただ、このホールはスタインウェイのグランド・ピアノを使った場合に、響きすぎるきらいがある。東京文化会館の小ホールあたりで聴けば、もっとノーブルな味わいを楽しめたにちがいない。ただ、ホロデンコはいつの間にか、幾分、ベースにおけるスピントのつよさを落として、響きをアジャストしてしまった。

この作品において、耳を惹いたのは、第一にはペダリングであり、これと関係して、音の保持の適切な長さである。プロの優れたピアニストであっても、拍の長さを、四分音符がぴったり四分音符であるように演奏することは難しいように思う。まだ音符ならいいのだが、休符では例えば、四分休符のうちの64分休符分とか、128分休符分ぐらいは、短かかったり長くなってしまうのが普通なようにも思われる。それは作品の雰囲気や流れのなかで導かれるものであり、演奏者にとってごく自然な揺らぎなのだという風に説明することもできる。

しかし、考えてみればこのような揺らぎは、一枚の絵を勝手な感覚で、僅かに伸縮してみせるようなものであり、こうしたことを繰り返せば、極端にいって、表現は主観的に歪められたものとなるが、その歪め方も僅かであるため、かえって質が悪いのである。また、そのような欠損、もしくは、付加は、感覚やセンスの問題ばかりではなく、技術的な問題であることもあるだろう。周知のとおり、ピアノは打鍵するとピアノの内部に張られた弦がハンマーで叩かれることにより、生まれる振動によって、その振動がつづく間だけ伸ばされる。唯一、ヴァイオリンにおけるヴィブラートのように、ペダル・ワークによって、僅かに響きの長さや音の感じを調節することができる。つまり、打鍵の調節と、ペダル・ワークという技術によって、ピアニストは自分で思い描いた響きを、適切に音符による設計図のように表現することができるというわけだ。

つまり、ホロデンコはこれらの要素に対してきわめて厳密ということになろう。特に、音の保持には鋭い感覚をもっており、このことによって、彼は音楽の構造を誰よりも的確に表現することができる・・・というよりは、客観的な構造を組み立てることができるといったほうが的を射ている。もちろん、その構造的なセンスはあくまで主観的に構築されるが、その表現は彼の頭のなかだけではなく、彼の演奏を聴いた誰にでも完全に判別ができるというわけである。彼がアンコールの曲をコールするとき、口のなかでモゴモゴ響いて、なにを言っているのかよくわらない。それとは反対に、彼のつくる響きはまるでスコアをみるように明晰なのだ。

もうひとつ、彼の演奏を聴いていると、音のカタチが見えてくるような気がする。それはちょうどオタマジャクシの音符が丸みを帯びた立体性を伴って、膨らんだようなものであり、途中で、私はまるで彫刻をみているような感じを抱いてしまった。

ただ、全体的にみると、このソナタに関しては、いささか余裕のある表現であったように思われる。私はしばしば、この「余裕のある」「余裕残しの」という言葉を使うが、これはもちろん、褒め言葉ではない。もっと洗練し、磨き上げられる部分があるという意味で、悪くいえば、「贅肉がついている」という表現も可能である。しかし、私はそこに、もっと良くなる可能性をみているのであり、ひとえに非難の言葉でないことには注意してもらいたいのだ。

【奇知の豊富なおとぎばなし】

つまり、次なる『おとぎ話』に関しては、そのような余裕は感じられない。これ以上はないという意味でもあるが、この演奏以上のものなどあるわけがないだろう。それぐらい、完成度の高い演奏であった。打鍵の精度はもとより、フレージングなどに関する奇知がこれでもかと詰め込んである。例えば、第2曲のカンタービレ/トランクィロの冒頭で、主題的なフレーズ全体を一息に歌ってしまうアイディアには驚いた。メジューエワの丹念な演奏で、この曲に親しんでいた私は、はじめ、「こんなものはあり得ない!」と嘆息した。しかし、その後、むしろ明瞭に表れ、洗い清められていく主題の積み重なりを確認していくに及び、冒頭にみられた奇知の面白さが身体のなかに入り込んでくることになる。

何事にも生真面目な『葉隠』信者のメジューエワには、とても理解できないようなアイロニーが、ホロデンコの演奏で明らかとなっていく。トランクィロ(静かに)に、グラツィオソ(優雅に)のついた次の曲では、のんびりした牧歌的な感じで捉えられがちな民謡の要素を、もっと荘重なセンスで捉えた第2曲に対して、舞曲のイメージを用いた動的な表現になっている。しかし、その動的な要素はリズムやフレージングにおいて、極限まで活き活きと、しゃっきりとした表現に高められているのが特徴だ。

第5曲のプレストでは、ほんのり浮かぶ左手の旋律に第2曲のテーマが、本当にさりげなく浮かび上がる。それは深い蔭に覆われ、油断すると、見逃してしまいそうなほど。むしろ、それを洗い清めるように新生する吹雪のイメージのほうが優位になっていく。しかし、終曲はもはや雪解けである。これから弾くプロコフィエフの影響も濃厚に、きりっとした鋭い表現がこの作品のゆたかで多彩な表現を象徴する。

メトネルはモダーニズムを否定し、プロコフィエフやフランス6人組に批判的であったというのが定説だが、ホロデンコの演奏によれば、メトネルもまたモダーニズムとは無関係ではなく、その出発点には十分に新しさもみられる。とはいえ、モダーニズムのためのモダーニズムには反対し、作品の生命力を生かしきることにかけては、頑迷にこだわったということなのである。(ホロデンコの描く)プロコフィエフに対するメトネルの姿勢をみると、ショスタコーヴィチに対するシュニトケの立場を思わせるものがある。メトネルとシュニトケはともにドイツ系の血を引いており、その点は偶然ではないのかもしれない。そして、ドイツ人は本来、面白くないものに生命感を与える天才である。

 (②につづく)

« ヴィオラスペース2011 コンサートⅢ ヴィオラ・ヴィオラ・ヴィオラ 5/29 ③ | トップページ | ヴァディム・ホロデンコ  ピアノ・リサイタル 【メトネル&プロコフィエフ】 仙台国際音楽コンクール Winner'sコンサート 6/2 ② »

ピアノ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/51839580

この記事へのトラックバック一覧です: ヴァディム・ホロデンコ  ピアノ・リサイタル 【メトネル&プロコフィエフ】 仙台国際音楽コンクール Winner'sコンサート 6/2:

« ヴィオラスペース2011 コンサートⅢ ヴィオラ・ヴィオラ・ヴィオラ 5/29 ③ | トップページ | ヴァディム・ホロデンコ  ピアノ・リサイタル 【メトネル&プロコフィエフ】 仙台国際音楽コンクール Winner'sコンサート 6/2 ② »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント