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2011年7月31日 (日)

井﨑正浩 チャイコフスキー 交響曲第5番 ほか 新交響楽団 214th演奏会 7/31

アマチュア・オーケストラではあるが、新交響楽団は上手なオーケストラだ。私は以前、維持会員になっていたこともあるほどだが、別に嫌いというわけではないけれど、なぜか小松一彦さんの指揮ばかりがつづいたのと、以前ほど邦人作品を演奏しなくなったことから、すこし足が遠のいていた。気づけば、4年ちかくが経っているのだから、時の流れは速い。

今回、指揮を振る井﨑正浩はハンガリーを拠点に活躍する中堅の指揮者だが、日本ではプロオケにはほとんど出ることはない。その代わり、定期的に招聘されている企業オケのリコー・フィルほか、アマオケへの出演は相当に多いという人物だ。私は同じコンビの演奏で、4年前にコダーイの『ハーリ・ヤーノシュ』や伊福部昭の『シンフォニア・タプカーラ』を聴いた記憶が残っているが、実務面で能力の高い指揮者であり、オーガナイザーとして優れている印象があった。

さて、今回、4年ぶりに聴いてみて、はじめて不満足な演奏会となったのは残念である。これから書くことはいささか辛辣すぎるかもしれぬが、私はこのオーケストラが、そういうレヴェルで論じることのできる集団であると信じているから書くのである。

【いちばん納得のいったプロコフィエフ】

まず、プロコフィエフの『スキタイ組曲-アラとロリ』で華々しく始まったコンサートである。大編成でいきなり壮絶な勢いで始まったが、例えば、リンクのような響きを想像している私としては、まったく違和感がないといえば嘘になるだろう。とにかく冒頭から思いきって響きを出し、驚異的な推進力と馬力で進んでいくのは悪くないが、その後の作品でも目立ったように、バランス的にティンパニやトロンボーンといった圧力のつよい楽器が立ちすぎることで、かえって響きの厚みが損なわれているのは勿体ないと思う。上のリンクのマルケヴィッチの録音のように、本来は、響きがとても豊かな序奏部分なのである。だが、別リンクのロヴィツキのように、ガツガツやる演奏もなくはない。

 

井﨑の解釈は、とにかく構造の明晰さにおいて、甘さを残さないというところに特徴がありそうだ。すべての構造が、ハッキリと生かされていること。そして、楽器のもつ響きを完全に生かすということ。それらの点で、井﨑の演奏は決して妥協がない。この作品では、フルートに吹かせても可能である領域を、より響きに余裕のあるピッコロに吹かせてみたり、同じように、クラリネットで吹いてもよさそうなものをバス・クラリネットに演奏させたり、若干、オーケストレーションを贅沢にしているところに特徴がある。

 

これはチャイコフスキーの交響曲第5番が、その優れた演奏効果にもかかわらず、意外にオーケストレーションを節約し、編成がまとまっているのとは大違いだ。今日の音大の作曲科で、プロコフィエフと同じようなことを考える学生があるとすれば、彼はきっと、その無駄を指摘されて教官から叱責されるであろう。だが、この時代には、そうしてもっともスイートな音域を使って贅を尽くし、その音色の素晴らしさを楽しむことに応分の意義が見出されていたのだと思う。

 

このプロコフィエフの演奏は、実は、この演奏会のなかで白眉とまでは言えないにしても、少なくとも、私がもっとも納得させられたパフォーマンスであった。この作品はもともとバレエ音楽として作曲されたのだが(しかし、ディアギレフはプロコフィエフを容れず、ストラヴィンスキーを重用した)、バレエ的な要素がごく自然に表れているのもよかったし、第3楽章ではファゴット、第4楽章ではフルートといった楽器が持ち味を発揮し、引き締まった雰囲気で最後までいくことができたからだ。フルートは序盤、まだ調子が出ていなかったが、次第に温まって、ふくよかな響きに変わっていったように聴こえた。

3本の楽器(フルート)がその数の分だけ有機的に利用され、各々、異なる響きを存分に楽しませるように書いているのがよくわかり、その点でも興味ぶかい演奏だった。

【ルールにそぐわない井﨑の解釈】

2曲目は、ハイドンである。「アラとロリ」、そして、チャイコフスキーの5番という派手な曲の間に、ハイドンの「時計」シンフォニーを置くというプログラムはきわめて挑戦的であるが、プロでもそう簡単にいくものではない。しかし、オーケストラとしてはよく頑張っていたと思う。

 

ただ、比べるべきではないのかもしれないが、ミンコフスキやブリュッヘン、あるいは、ボッセといった指揮者たちのハイドンを聴き込んできただけに、いささか井﨑の演奏にはついていけないところがある。(101番はロンドン時代の作品だが、)エステルハージー宮のあった場所は、ハンガリーとオーストリアの国境付近にある。そのため、冷戦時代、アダム・フィッシャーはハイドンの名前を冠するオーケストラに、当時は東西両陣営に属していた2国の若者たちを集めて、親和的なオーケストラをつくった。このような背景からみてもわかるように、井﨑のいるハンガリーはエステルハージー家の宮殿を擁し、ハイドンと身近な国である。

 

しかし、少なくとも井﨑は、その伝統をうまく生かしきるようなハイドン解釈の鋭さは有していない。彼のアプローチはハイドンの未来・・・つまり、ベートーベン的なものにより近く、偏っていて、ハイドンらしいユーモアはいささか乱暴な響きのデザインによって塗りつぶされている。私の意見では、この作品ではより弦をきつく叩き直して、それだけで推進していけるような素地がないと、良い演奏にはなり得ない。ブリュッヘンのリハーサルを思い出してみれば、彼が丹念に織り上げていたのはほとんど弦の歌い方ばかりであったことに思い当たるはずだ。そこにこそ、ブリュッヘンのいう「ルール」は詰まっていたのだろう。

 

この新響も、弦セクションは非常に高いレヴェルにあり、その気になれば、いろいろな要求に応えられる能力はもっている。それならば、この問題はほぼ、指揮者のほうに責任があると考えるのが自然である。ハイドンらしい曲調の鋭い変化などにおいても、アーティキュレーションやバランスが明瞭ではなく、その生き馬の目を抜くようなリアルさを伴うユーモアが実感に至らない。そして、金管楽器やティンパニの圧力に耐えうるような、サウンドの構築が十分でないことも含め、これらすべての問題は、(敢えて簡単にいうが)指揮者の一指示でがらりと切り替わるはずのことである。

 

【なお戦場から脱出できない終楽章】

メインは、チャイコフスキーの交響曲第5番である。実は前日まで、ここにはプロコフィエフの5番が来ると思っていた。その作品に対するほど愛情はないが、チャイコフスキーのほうも愛すべき作品である。

 

演奏の出来は多分、この日のプログラムのなかでは白眉ということになろう。テンションも高く、練度も素晴らしい。高く連動し、うねるような弦の動き、木管や金管の響きも堂々として隙がなかった。それなのに、私のこころは彼らの演奏に対して、閉ざされたままだ。その原因はいろいろあるが、端的にいえば、あまりにも騒々しい。私のイメージでは、チャイコフスキーはもうすこし上品な作曲家である。そうでない演奏があるとすれば、それはチャイコフスキーのイメージに対する誇張であるというほかない。

 

逆に、これが真正のチャイコフスキーの響きだとするならば、私はまるでチャイコフスキーをわかっていないことになるし(実際、わかっているとは言えないだろう)、より激しい言い方をするなら、敢えてわかりたくもないというところである。特に、第4楽章が芳しくないと思う。オール・クライマックスともいうべき、つよい響きばかりが目立つ終楽章は、この作品のフィナーレに対するドラマのイメージをつかなくさせるのである。

 

私は以前からいうように、チャイコフスキーの後期交響曲を「戦争交響曲」としてイメージしている。戦争や死の暗い現実と、勝利や団結の明るさ。特に若者たちの戦場における気迫と、その現実的な描写。そして、それを心配し、運がよければ迎えることができる母親たちの悲哀。こうしたイメージが、チャイコフスキーの私生活などと巧みに重ね合わせられて、壮大な人間ドラマとして、後期の作品は成り立っているのだ。

 

今回、この演奏を聴いていて、私はもう一段、チャイコフスキーに対する理解を深めた気がする。彼はきっと、このような戦争の世紀において、自分たちの暮らしは常に、戦場(の兵士)とともにあらねばならぬと考えたのではなかろうか。いま、日本に住む私たちが、被災地の人たちとともにあるべきだと考えるようにである。たとえ、どんな華やかな舞踏会といえども、チャイコフスキーはそこに響くワルツのなかにさえ、戦場に響くマーチの響きに似たものがまとわりついているように思った。もはや、かつてのような文学的な、あまりにも文学的な舞踏会のアンニュイなどは感じていられない。ショパンの時代は終わったのだ。

 

そんな風に考え出したのも、もはや私が故郷への帰還の音楽として捉えている終楽章に、彼らがなお、戦場にあるかのような響きで臨んだからである。序盤、弱音の温かい響きはなく、それはプロ並みに巧みとは言えども、やはり至らないところが残るアマチュア奏者の手腕にかかるものと考えていた。しかし、それは間違いだった。井﨑の頭のなかでは、彼らに帰郷など考えられぬことであったのだ。兵士たちが母親たちに姿を見せるのはほんの僅かで、早くも、この作品の終わりごろには新たな戦場に出向いて闘わねばならぬ。そんな殺伐とした音楽によって、井﨑は作品を勇ましくイメージさせようとした。

 

そのため、正しく戦場の只中にあるような第4番、「悲愴」と呼ばれる第6番に挟まれ、それらと比べれば、いくぶん安らぎを感じるはずの第5番も、第4番と同じようなイメージで染め上げられた。しかも、それは私が以前に紹介したニコライ・マルコの演奏が漂わせるような気品とは無縁で、テミルカーノフのイケイケな指揮ぶりに象徴されるような、ある種のオプティミズムに基づいたものである。

 

このような解釈は、私としてはまったく受け容れることができない。このページをよく読んでくださる方々には不要なことだが、念のために言っておくならば、私は自ら労を払わずして、この作品はこうあるべきと決めてかかり、それから外れたものを異端扱いするような狭小な批判はおこなわない。私はいつも、演奏者の想いを理解し、ともにあることを理想とするのであって、頭ごなしにそのやり方を非難することは稀であろう。そうであっても、今回だけは、井﨑の解釈には到底、理解を示すことができそうもないのである。

 

【違和感】

違和感は、最初の楽章の魅力的なクラリネット・パートのソロから、既にして始まっていた。ちなみにいうならば、そのパートを吹いた2人の女性クラリネット奏者には、私は称賛を惜しまない。やや下向きの響きではあったが、(彼女たちの年齢も境遇も知らないが、とにかく)母親の視線から、あの悲劇的な旋律を大事に演奏してくれたのではなかったか。また、それをサポートする弦のどっしりしたベースも歓迎すべきものであって、これらオーケストラの熱意にはのっけから感服するものがあった。響きが動き出してからの細かい装飾音も丁寧につけており、ハーモニーは柔らかく、厚みがあった。

ただし、このシーケンスに関しては、いますこしルバートを効かせたほうが効果的であるように思う。そのほうが、装飾音が引っ掛かりやすい印象があるからである。

 

序盤のあらゆる良さにもかかわらず、パウゼにおけるフェルマータの深すぎる強調や、あまりにも深刻なアーティキュレーションが、作品の味わいを深めるどころか、少しずつ毀損しているように思われた。だが、その瞬間においては、まだ、これに明確な反発は感じなかったものである。オーケストラの問題に関しては、このあと、主要なシーケンスがひととおり過ぎたあと、やや寛いだ雰囲気になる部分から、すこしだけ緊張感が緩み、響きに厳しさが薄らいだ点だけが反省点である。それ以外は、とても高い連動性を示し、指揮者の指示どおり機敏に、アグレッシヴに動いていて好調である。

 

第2楽章から、井﨑は先の第1楽章の最初の部分とは反対に、ルバートの使用を頻繁にする。特に、舞踊楽章ではそれが顕著であり、まるでウィーンの作曲家のようなイメージになっていた。ヴァルス楽章だから、それはあながち間違いではないのかもしれぬが、井﨑はショパン並みにリズム構造を組み立てて、この楽章をパズルのように組み立てていくのである。これには、面食らった。確かに、その上手なパズルの組み立てには感服もしたが、反面、安っぽさばかりが感じられたのも否めないところである。ルバートの使用は良いのだが、そのタイミングや深さに関しては、このような一本調子な感じになるべきではないはずだ。

 

【井﨑が嫌ったもの】

井﨑が嫌ったのは、ある種、バレエ的にひとつひとつの動きが個的につながっていくときの、ある種の退屈さだ。ところが、リンクのムラヴィンスキーの録音を聴けば(第3楽章もそうだが、第2楽章のほうがこの場合、わかりやすかろう)、その退屈さこそが作品の味わいとして、徐々に昇華されていくことに気づく。その頂点に、響きの盛り上がりが来ていて、ドラマはきれいな上昇カーブを描いて、響きのなかに沈んでいくのである。上昇局面でも、最後には必ず沈んでいくセリがあって、そのセリを降りたところで、うまく曲想が切り替わっていく。

 

私はもちろん、こうした文句のつけようのない大指揮者の演奏を引き合いに出して、あわれアマチュア諸君の素晴らしい演奏をとっちめようというのではないのだ。ただ、理想的なフォルムをよく指し示すために、最高の実例を持ち出しているにすぎない(そして、批判はオケではなく、主に指揮者に向いている)。

 

このような粘りづよい構造への我慢がないなかでは、作品の構造的な重みは、ひどく頼りないものになりがちである。それは第3楽章で、よく検討されたパズル的構造で埋め合わせてみても、埋まるようなものではない、深い溝を作品のあちらこちらに用意することになる。確かに、既述のように、華やかな舞踏会でさえ戦場の響きとともにあるべきという理念は、完全に否定すべきものでもない。だが、その思想がその思想そのもののためではない、何かほかの理由で選ばれるとするならば、私は反発する。井﨑の場合、それは単に、響きを全体的に、もっと逞しくするという目的のみに沿っているように思われる。

 

そして、既に終楽章は、前に申し述べたとおりだ。いま言ったことが、先に述べたような欠点とあわさって、下向きの螺旋構造を描いているのがわかるだろう。

 

【補足とまとめ】

なお、第4楽章のコーダでは、普通、あまり目立たぬ金管のヴァリアントを強調し、私たちを驚かせた(単に奏者が間違った可能性も否定できないが、そうではないと思う)。コーダの前までにかなり積極的にエネルギーを使い、弦セクションの余力に不安をもったが、結果的には、最後まできっちり弾き遂げた。そのような意味で、全セクションが漏らさず、情熱的に、チャレンジングな演奏に徹したが、その効果は、もっと理知的に手綱を抑えた場合よりも強かったとは言えない。

 

よく考えられた演奏だったが、もうすこし素朴に、ゆったりと歌うほうが、チャイコフスキーの良さが出るであろう。序盤、オペラ的な響きを構築し、多少の違和感にもかかわらず、魅力的に思えた構想を大事に、最後まで粘りづよい表現に徹することができれば、この優れたパフォーマンスを、楽曲の味わいに十分沿った形で生かすことができただろう。かえすがえすも、残念である。

 

【プログラム】 2011年7月31日

1、プロコフィエフ スキタイ組曲「アラとロリ」

2、ハイドン 交響曲第101番「時計」

3、チャイコフスキー 交響曲第5番

 

 於:すみだトリフォニーホール

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