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2011年7月30日 (土)

アルミンク (&イザベル・ファウスト) ヒンデミット ウェーバーの主題による交響的変容 ほか 新日本フィル サントリー定期 6/28

【お騒がせのアルミンク】

震災後は、地方公演や新国の仕事で来日せず、負の話題を振りまいてしまった新日本フィル(NJP)のアルミンク音楽監督。彼の行動は一部のファンをがっかりさせたに止まらず、楽団の営業的な面からも一方ならぬ影響があったと思われ、楽団内部ではその後のミーティングにより、再びアルミンクを音楽監督として守り立てていくと衆議一決したとはいえども、もういちど一からやり直しという感じがつきまとわざるを得ない。そうはいっても、欧米からきて日本のオケを率いている人材で、アルミンクほど楽団に密着した貢献をしている人も他にいないわけであるから、私としても、その問題に関しては、あまり批判が辛辣にならないようにしたいと思っているところだ。

【きれいはきたない】

さて、アルミンクの演奏そのものは、『第九』やフランツ・シュミットの録音を除くと、随分と久しぶりであるように思う。以前の記憶では良いほうの印象ばかりが残っていて、大好きというほどではなくとも、それなりに信頼の置ける指揮者であるという感覚が先行していたが、この日の演奏を聴くかぎり、ネオ・ロマンティシズムの表現においては、必ずしも良い面ばかりが目立つというわけではなかった。

例えば、後半のヒンデミット『ウェーバーの主題による交響的変容』の演奏では、あまりにもうねりがなく、一本調子なのが面白くない。昨年9月、アルミンクとも親しく、彼と同じようにウィーンに学んだ下野竜也が、活力に満ちた弾力的な演奏でひとつの名演を組み立てたのとは大ちがいだ。木管が巧者ぞろいで、金管の響きも厚いNJPは多分、この曲をやるのに東京ではもっとも適したオーケストラである。この日も個別にみれば、さすがに良い響きを出してはいる。ところが、それらがヒンデミット独特のラインの結び目で厳しく出会い、その結果、激しく輝くということが欠けていたのは残念でならない。

第4楽章については、NJPのメンバーにも責任がないわけではない。下野が弾いたときには、ここで読響のメンバーが頻りに仕掛けをみせて、必死にテンポをキープする指揮者を地獄に誘い込んでやろうと蠢いたのに、ギリギリまで動かない下野の我慢に痺れたものである。それに比べると、NJPのメンバーはなんと素直なことであろうか。彼らはアルミンクの言われるがままに、イン・テンポを守って整然として隊形を崩さず、一所懸命に美しい響きを追求しながら、あべこべに自分たちが我慢しているのであるから。そして、ここぞというときにみせる、優雅に足並みの整ったフォーメーションの美しさは、もちろん、決して無味乾燥というべきものではない。それの、どこが悪いというのだろうか?

それはもう、この音楽に対する根本的な理解の仕方によって、見方が変わってくるのかもしれない。アルミンクの手法は、例えば、NMLでいろいろと聴いてみた感覚では、リンクのオイゲン・ヨッフムのものにいちばん近い。イン・テンポで、響きに小細工がなく、楽天的でゆったりした流れを重視している。ただ、ヨッフムと事細かく比較していったときには、アーティキュレーションは単純で締まりがなく、バランスにも工夫がない。木管主体で、特にクラリネットはフルートに焦点を合わせていく視点は興味ぶかいが、そのことにあわせて、全体のコントラストが適切に工夫されているとは言い難いのである。そのため、しまいに浮かび上がってくる底なしの明るい響きにまで到達せず、ただ外面的な美しさに終始してしまっているのであった。

よく言えば、きわめて整然と揃っているが、その分、あまりにもきれいすぎるという印象も抜きがたい。それは最初の第1楽章冒頭で、既に感じられた傾向でもある。冒頭から響きは薄めで、むしろ響きの透明度に焦点が来ているように思われたのだ。確かに、テクスチャーの精細な美しさはあるとしても、この人はこの作品をオケコン(concert for orchestra)のように捉えているのだと思うと、先が思いやられる感じがしたものだ。

ただ、その響きのコントロールは予想以上に鮮やかで、一瞬一瞬、耳に入ってくる魅力的な要素が愛おしくなるにつれて、そうした欠点を欠点とは思わないようになってくる。ところが、これが最後の楽章で、見事にしっぺ返しを食うもとになるというわけである。

第2楽章は民族的な響きの要素を訴える前半部分は、非常に面白く演奏できている。個々のテクスチャーが非常に美しいうえに、歌ごころが柔らかい。ところが、これは下野&読響の場合も同じであったが、後半でジャズ的な要素が出てくる場面となると、羽目の外し方が上品すぎて、やはり面白くなかった。それに下野たちの場合と比べると、『トゥーランドット』が元の素材(オペラではなく、ウェーバーによる劇付随音楽)だというのに、中国的な感じが希薄なのもよろしくないだろう。

プレトークのとき、アルミンクは、当時の欧州側の人間のなかにあった新大陸への楽天的なイメージがこの作品にはよく出ていると言っていたが、残念ながら、その点を演奏の点でしっかり表現するには至らなかったと評価する。個々の演奏はとても素晴らしかっただけに、ピースの組み合わせ方にアイディアを得なかったことはきわめて遺憾である。

 

【ブリテン ヴァイオリン協奏曲】

結局、この日の白眉は、イザベル・ファウスト独奏によるブリテンのヴァイオリン協奏曲ということになった。

この曲に関しては、忘れ得ぬ思い出がある。それはサヴァリッシュ翁がN響に客演した最後の演奏会で、フランク=ペーター・ツィンマーマンと演奏したときの記憶である。昨日のことのように思い出せるのに、もう7年も前のことだ。サヴァリッシュがオペラのようなベースを堂々と構築し、その優雅なゴシック建築のなかを、ツィンマーマンが粘りづよい、頑丈なロマンティシズムで踏み固めた凄い演奏は、これまたハッキリと思い出すことができる。それ以来、ツィンマーマンは私のなかで、神のような存在になった。また、これは記念すべきN響初演でもあったという。

さて、イザベル・ファウストの演奏を生で聴くのは初めてだが、録音で耳にするかぎり、私のこころを捉えるような素晴らしい奏者とは思っていなかったので、まったく期待せずに会場に臨んだものである。ところが、これが嬉しい誤算であって、生演奏で聴くファウストの演奏は、なんと艶やかで、潤いに満ちた響きであったことだろう。響きの透明度や表現の柔らかさ、そして、音色の艶やかさにおいては、ツィンマーマンよりも上をいくものがあるのではなかろうか。

なんといっても、この作品ではヴァイオリンという一本の楽器がつくる響きが、放射状にオーケストラに伝染していくところに妙味があるが、ファウストはこの楽器を、ほかの弦楽器はもちろんのこと、ハープや木管楽器、それに金管楽器、ときには打楽器や鍵盤楽器にさえ変容させてしまうような精妙なテクニックの持ち主なのであった。これらとの楽器の受け渡しにおいては、どこまでが独奏楽器の音で、どこからがバックの音なのか見分けがつかぬほどに、その響きは似通っているのだから凄い。

アルミンクのつくるバックは、ヒンデミットに比べれば、ずっと良かったように思う。確かに百戦錬磨の劇場人、サヴァリッシュと比べれば、そのドラマ性はいかにも浅く、もっとガツガツした響きがほしいところも随所にあった。しかし、すべてがあの日のとおりになればいいというものでもあるまい。この日の演奏では、オケとソリストの対話により多くのエネルギーが割かれていたし、そのためのファウストの起用なのであった(この1年の在京オーケストラの状況を見回せば、先日のキュッヒル同様、もっとも高名なソリストのうちに入るだろう)。

この楽曲の表現に必要な要素は、2つある。まず、プログラムにも記載があるように、この作品を書く前に、スペイン内戦直前のイベリア半島に赴いて、魅力的なヴァイオリニストと知り合ったこと。次に、ブリテンは生粋の反戦主義者であって、母国・英国の参戦を背にして、米国に渡ったという事実だ。ブリテンは渡米前に、この作品に取り掛かっていたが、完成したのは米国に渡ったのちのことだった。もちろん、当時の大西洋の横断には船便が利用されたのは言うまでもない(哀れエンリケ・グラナドスは、その客船を沈められて不帰の人となった)。

つまり、ラヴェルやシャブリエのような素朴な形とは言えないが、ラテン趣味の明るい響き。戦争と迫害の時代が迫る時代を映す、暗いバックボーン。そこから逃れ出るための厳しく、寂しい船便の描写。それとは無関係に存在するかのような、理想郷的なアメリカのイメージ。最後に、そこから再び欧州の悲劇を見つめる冷徹な視線への回帰。こうした要素がドラマとして組み上げられる。とりわけ、この作品に限らず、たびたび海をテーマに創作しているブリテンにとっては、客船のイメージは実に重要なファクターとなるだろう。例えば、汽笛を思わせる、低くて重いチューバの響きは、同時に、重苦しい悲劇の象徴でもある。

【ポエム】

汽笛が「ボウ」と鳴り

我らがめざす陸地のちかいことが知れた

私には

陸地に待つ歓迎のオーケストラが

心地よい田舎風の響きで

快活なマーチを奏でてくれる音が

確かに聴こえたような気がした

愛すべき平和の新大陸よ

我らは到達した!

  =======================

白昼夢・・・

ところが、その最高の喜びのときに

私はそれに襲われた

そこでは、我々は未だ洋上にあった

潮が客船の黒い船体に打ち寄せて

シュウシュウと音を立てていた

それはサウザンプトンの港を見下ろす

小高い崖にぶつかる並みの響きと

ほぼ同じであったのだ

  =======================

白昼夢・・・そうではない!

私は確かに辿り着いたのである

だが

私のこころはまだ洋上に

・・・否、つきつめれば、サウザンプトンの港に

置き放してきたままだ

これが白昼夢というなら

それこそが正しく現実なのだ

  =======================

私のなかで

すべての響きは遠のいていく

もう

このまま消えてしまってもいい

あの洋上の魂が

平和と安心のうちに

あの島国へと

帰れる見込みがあるのだとすれば!

  =======================

これこそが

・・・そう、私の夢!

【無私に徹しきれなかったファウスト】

弦・管楽器のロング・トーンをバックにした、息の長い最後のフレーズは、上のポエムに託して端的に示してみたような、ブリテンの哲学をはっきり象徴するものである。そして、素晴らしいファウストの演奏ではあったが、この部分においては、彼女に対する評価を大きく引き下げざるを得ない。彼女が、どのような間違いを犯したのか。それは皮肉にも、彼女が会場の喝采に応えて弾いたバッハの世界が指し示すものだ。つまり、「無私」である。もしもファウストがその響きの美しさを大胆にも捨て去って、最後、オーケストラのなかに溶け込んでいくぐらいの気持ちでいたとしたら、私はまたツィンマーマンとは別の種類の称賛を、彼女に対して惜しまなかったはずだ。

ところが、ファウストはその部分で、あまりにも厚く響きを被せすぎた。それは埋没を惧れ、自らの存在感を守りたいという潜在意識に基づくものだろうが、私はその厚顔な響きをして「煩い」と感じたのである。これを契機に全体を振り返ってみれば、細かくは述べぬとしても、なるほど、いくつかの箇所で出すぎた響きがあったのに思い当たる。それゆえ、私はファウストの玄妙なテクニックに悶えるような感応性を感じながらも、最終的に支持はしないという判断に至った。とはいえ、このヴァイオリニストの素晴らしさについては、評価を新たにする必要があろう。

 

【ウォルトンは練習不足】

最後に、ウォルトンの『ヒンデミットの主題による変奏曲』について取り上げるべきだが、もはや、そのスペースもない。ほかの2曲と比べると、練習不足は明らかであるし、その状態で素晴らしく演奏できるような曲でもない。例えば、最後、それまでに出てきた要素が同時代的に優勢な和声の手法ではなく、ラインでゴツゴツと重ねられて伸張していく見せ場では、響きはどうしても個別的なものとなり、アーティキュレーションの磨き上げに粗さを感じてしまう。

これほど難しい曲を3つも並べるのは、やはり、オーケストラにとっては難事業であるのだろう。ほとんど録音も見当たらないような曲で、とにかくも、聴けたことだけが幸福ということもいえるのだが、そのレヴェルで終わってほしくない魅力的な作品だということは多分、間違いない。同時に、その可能性をものにできるレヴェルのオーケストラであると信じるならば、彼らに対して、より一段の成功を望みたいというのは贅沢ではあるまい。

 

【演奏会のテーマ性】

ところで、この演奏会にはいくつかのテーマがあった。まずは、20世紀初頭から中葉にかけて、欧州の作曲家からみた理想郷としてのアメリカ。このことは既に、上記の文章でも触れておいた。次に、ヒンデミット、ウォルトン、ブリテンといった作曲家たちの時代には、まだ命脈を保っていたある種の通俗性に対する肯定的な視点である。これはアルミンクがこの楽団においても長く追ってきたテーマであり、人はいかにして音楽を愛し得るのかということについての、ひとつの見解がここには表れている。追って詳しく触れようと思うが、このことについて、以前、少しばかり名前を出したピアニスト、ジェレミー・デンクのブログに興味ぶかい記事があるので、リンクしておく。ウィットに富み、文学的な文章でもあるので、読むのにやや苦労するが(それは私がベーシックな英語しか習っていないせいで、とりたてて難解というわけでもない)、内容はきわめて面白いものだと思う。

最後に、今月のもうひとつのプログラムである『トリスタンとイゾルデ』との対応関係も、この演奏会には仕掛けられていたように思えてならない。ただし、ときにはトリスタン和音にちかいものまで現れるものの、ここに取り上げられた作曲家たちの作品は、およそワーグナーとは反対の道を行くものであろう。彼らはこの巨人の仕事にはしっかり目配せをしながらも、もっとシンプルなラインや旋律の美しさにこそ注目しようとしたからだ。無限旋律によっていたずらに肥大化し、ライトモティーフによって複雑化する音楽上の関係に棹さして、バッハ的なシンプルな関係に響きを押し戻そうと考えたのである。

つまり、これらの音楽はその親密な関係性にもかかわらず、あまりにも遠い。しかし、ワーグナーからみて、ちょうど一世代あとのヒンデミットらの作品を取り上げることで、後期ロマン派による最後の精華と、そこからの揺り戻しについて、私たちは効率的に確認することができる。普通、ヒンデミットは新古典主義などに位置づけられる。だが、その作品をつぶさに見るかぎりは、まだ相当にロマン派的なところも強い。むしろ、見方によっては、ヒンデミットはワーグナー以上に古い作曲家でもあろう。アルミンクは、その古さ=通俗性にこそ、今日におけるヒンデミットの可能性を見ているわけである。

 

【ヒンデミットたちにとってのアメリカ】

なぜ、彼らにとって理想郷としてのアメリカが必要だったのか。それは単に欧州が戦火で焼かれつつあったというだけではなく、もっと根本的な内的必然性に基づいたものであるはずだ。すなわち、ここでアメリカは「鏡」の役割を果たすのである。鏡とは自己の姿を映すものであり、客観的に確認させるものともいえる。もしも鏡がないとすれば、私たちは絵に描いてもらったり、写真を撮ったりしてもらわない限りは、外からみた自分たちの姿を確認することができない。大昔、人間は鏡として相応しい素材をもたなかったが、それでも選り抜きの石を丁寧に磨き上げて、自分たちの姿を映しだしたという。鏡はいつも、関係のなかに生きる人間たちにとっては、欠くべからざるものであったのだ。

 

欧州人が20世紀初頭以後、自分たちの姿を自ら捕捉しかねている状況のなかでは、アメリカは是非とも必要な鏡だったのである。ドビュッシーやラヴェルの時代には、同じような問題を抱えながらも、まだアジアや南方の島国という鏡でも、自分たちの姿をイメージするには十分だったと思われる。しかし、第2次世界大戦を控えるころには、もっとピカピカに磨き上げた鏡が必要な状況に陥っていた。そのため、彼らにとってのアメリカは、本当に大西洋の向こうに存在している国よりも、明るく、希望に満ちていなければならなかったようである。

 

プレトークでアルミンクが言ったようなオプティミズムは、実は、そのような性質のものであったのだ。欧州に希望がないから、アメリカに夢を見るというようなレヴェルではもうなかったであろう。「新大陸」はもはや何百年の歴史を積んでいたし、そのなかで、十分に欧州人たちの失望を誘ったことであろう。それかあらぬか、プッチーニが『マダム・バタフライ』でアメリカを鋭く風刺したことは、最近の記事でも述べたとおりである。ヒンデミットの時代まで下れば、人々はもうアメリカのつまらなさをきっと十分に認識していたであろうし、それを敢えて明るい希望のみでイメージするというオプティミズムはあり得なかった。実際、メノッティやコルンゴルトといった例外を除き、大戦前後にアメリカに渡った著名な作曲家たちも、遅かれ早かれ、欧州に帰っていったのがほとんどであろう。

 

だから、その明るさはアルミンクが言うようなオプティミズムではなく、もっと風刺的な視点として理解される必要がある。3曲はいずれも、そうした風刺の視点を抜きにして考えることはできない。この度の演奏で、決定的に欠落していたのはその点であろう。その一方、響きのうえでのポテンシャルについては、ほぼ残りなく抽出されていた。それゆえ、まことに惜しいパフォーマンスと見えた。彼らは、魂を置き去りにしたのである。

 

【プログラム】 2011年7月28日

1、ウォルトン ヒンデミットの主題による変奏曲

2、ブリテン ヴァイオリン協奏曲

 (n:イザベル・ファウスト)

3、ヒンデミット ウェーバーの主題による交響的変容

 

 コンサートマスター:西江 辰郎

 

 於:サントリーホール

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