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2011年7月 3日 (日)

クルト・グントナー ハイドン 交響曲第91番 ほか 武蔵野音楽大学室内管弦楽団 演奏会 7/1

【クルト・グントナー】

クルト・グントナーは、ドイツ本流と言われるようなストリームのなかで、コンサートマスターとして巨匠指揮者を支えてきた存在である。キャリアのはじめに、ヨーゼフ・カイルベルト率いるバイエルン国立歌劇場管のコンマスに就任したグントナーは、その後、特にルドルフ・ケンペの厚い信用を受け、ミュンヘンやバイロイトでコンマスとしての手腕を揮う。アカデミーでも、ミュンヘン音大の教授として後進を指導した。

そのグントナーを「客員教授」として招いているのは、武蔵野音楽大学だ。そして、「武蔵野音楽大学室内管弦楽団」は、このグントナーを囲んで結成された室内オーケストラを保持し、在学生およびOB/OGによって支えられているアンサンブルということである。そんなことはもちろん、つい先程までは知らなかったが、我が家からちかい武蔵野音大江古田キャンパスでちょうどよくコンサートがあったことから、足を運んでみた。お目当ては、ハイドンの91番と、ヤナーチェクの『弦楽のための牧歌』である。この2つのプログラムに挟まれて、真ん中にモーツァルトのクラリネット協奏曲が組まれていた。

オーケストラは通常の配置だが、チェロが外側に来るタイプである。第1ヴァイオリンが3プルトで、第2ヴァイオリンとヴィオラは2プルト、チェロは3本、コントラバスは僅かに1本という編成。管楽器の入る曲は、2管編成だった。

【実演で引き立つ曲】

まずは、ヤナーチェクの『牧歌』を弾いた。時折、拙いミスや底の浅い音が出る部分もあるものの、演奏を楽しむのにどうしても支障があるというほどではない。否、それどころか、ヤナーチェクのファンには堪らない演奏である。この作品は1878年に書かれたもので、この時期のヤナーチェクはまだ音楽家としてはアマチュアというべきであった。後世の作品のようなインディペンデントな特色はなく、この『弦楽のための牧歌』も、ドヴォルザークでいえば『伝説』のようなポジションにある民謡などの要素を取り込んだ、音楽的にはごく古典的な作品としてみられる。

全体で30分少々もある小品集で、実演はこれが初めてだが、録音などで知っている限りでは、まあ、2-3曲の抜粋でも十分なような気がしていた。ところが、こうして耳にしてみると、なかなか魅力的なのである。グントナーは形式的なツボもしっかり押さえながら、ロマンティック・・・というよりは、叙景詩的な表現に徹している。そして、そのサウンドの特徴からは、もちろん、ドヴォルザークやスメタナの影響が濃厚であることも教えてくれた。

【第1印象】

まず、このオーケストラを初めて体験する私にとって、その印象を決定する最初の曲の演奏は、ツカミとしては相当な成功である。アンサンブルはよくまとまっており、それぞれの響きも決して安っぽくない。アンサンブルが音楽を構成する筋肉として鍛えられ、しっかりオーガナイズされている。これなら、グントナーの表現したいものがある程度、きっちり伝わるだろうという感じをもった。

【第1曲はやや都会的感覚】

最初の曲は、マーラー(交響曲第1番)やその親友、ハンス・ロットが引用したような民謡の旋律にちかいものが現れ、映画音楽のような、叙景的な音楽がメランコリックに広がる。グントナーのつくる音楽は、一にも二にも呼吸が深いのが特徴であり、こうした音楽をむしろ響きの波のなかで、立体的に造型していくというタイプのものであった。ただ、その響きのイメージをよくよく聴き込んでみると、最初のナンバーではビストロウシュカ(ヤナーチェクのオペラの主人公のひとりで、野生の狐)が出てきそうな感じではなく、プラハなり、ブルノといった都市の感覚が、張りつめたメタリックな響きのなかに浮かぶような感じが先行していたものである。

これはグントナーのもとから意図したものなのか、北東京の閑静な住宅街に学ぶ学生たちのイメージから滲み出てきたものなのか、はっきりと断言する根拠は私にはない。

この小品群では、いちばん最後のフレーズがきりっと持ち上げられ、特徴的に楽曲を鋭く締め括る構造がみられるが、グントナーはこれを最大限に活用して、作品のもつ詩情をキビキビと閉じ込める役割を担わせていた。第1曲目の最後も、それが印象的だった。

【油断のならないオーケストラ】

さて、1曲目である程度、アンサンブルに対する信頼感を得た私は、2曲目のアレグロでは、なかなか油断ができない(良い意味で)アンサンブルだと気づかされた。印象的なのは、リード・ヴァイオリンが引っ込んだところで、第2ヴァイオリンが深い音色を響かせて劇的に交代し、低音弦に響きをつないでいくような切り替えである。楽曲自体は雅やかな舞曲の構造、こういう部分は学生には難しいと思っていたが、グントナーが的確な指示でアンサンブルを手足のように使いこなすと、彼の知っている豪華な響きや、適度に甘みのあるルバートがアンサンブルをぐっと華やかにする。

第3曲のモデラートは、チェコの映画監督が使いそうな音楽。オペラの一場面のような感じでもあるが、その形式はのちのヤナーチェクの作風とは似ても似つかない。オーケストラの発するサウンドは、シベリウスを連想させるような透明さを漂わせる(自註:年齢的にはヤナーチェクが一世代前)。前半を締め括るかのような第4楽章の大胆な演奏は、失敗を恐れず、響きの振幅を大きくとって、舞曲の旋回性を思いきって発散させるもので聴きごたえがあった。

【後半の3曲】

後半の3曲は連続性を高め、1つの舞台を回転させながら、次々に見せていくような姿勢をとった。それはいちばん長い、第5曲のアダージョ楽章を基準にした表現ともとれる。ほんのり漂うワーグナーの響きも静かに取り込んでいるのは、(ワーグナー生前はともかくとして、)いちばん輝いていたときのバイロイトを知るグントナーらしいところだろうが、この作品に含まれる様々な音楽語法を、室内管のメンバーはしっかり咀嚼して、自己薬籠中のものとしているのは見事である。中間の音楽の変わり目を深くとり、実質、1曲が2曲分で構成されていることを明確にしたのも面白い。

第6曲のスケルッツォをとおり、最後のモデラートまで、あとは一息にに演奏した。最後のナンバーではまず、スメタナ的な民俗的な旋律が、徐々に支配的になる対位法的な手法のなかで祝祭的に盛り上げられていく。意外に難しい部分なのか、響きの凝縮力には若干の緩みが乱れたが、最後まで集中力は高く、楽曲の味わいは決して失われることがなかった。

全体的には素晴らしい演奏だが、ひとつだけ不満をいえば、このアンサンブルはどう贔屓目にみても、グントナーの分身以外の要素を表現できていないということだ。グントナーは表向きはメンバーにも意見を求め、双方向でアンサンブルをつくっていき、本番でもかなり自分の思いどおりに動かすことができて、満足感が高かったことだろうと思う。しかし、このアンサンブルが本当に素晴らしい集団だといわれるためには、もっとアンサンブルのほうにアンガージュマンの姿勢が必要だったのではあるまいか。

【平田彩圭のモーツァルト】

中プロのモーツァルトは、武蔵野音大の卒業生で、現在も大学院の1年に在籍するクラリネットの平田彩圭の独奏である。序盤は前プロで出番のなかった管楽器と、弦楽器のアーティキュレーションを奏者自身がなかなか掴むことができず、独奏も楽器の継ぎ目のある中音域で響きが安定しないなど、どうなることかとヒヤヒヤした。しかし、グントナーがアーティキュレーションを苦労して整えたあとは、尻上がりに調子を上げ、ソリストも自分らしいパフォーマンスになってきた。

おわってみれば、なかなか楽しい演奏には仕上がっていた。クラリネットはフレキシブリティが高く、技術的な欠点よりも、その吹き手の個性によって面白みがちがってくるところに味わいのある楽器である(だから、ジャズやポップスにもより多用される)。モーツァルトの協奏曲をやるということになれば、これに楽曲の無類の素晴らしさも力を貸してくれるのだから、まあ、そんなに酷いことにはなり得ないわけだ。

平田はとてもはんなりした表情をもつ奏者のようであるが、演奏姿勢はとても真面目である。テクニック的な要素や、楽曲の基本的な構成に関しては、さして不満もなく、妥当な表現をとれている。オペラなどの作品も、よく研究しているのだろう。ただ、ときどきフレージングや息遣いがもっさりしており、肝心のクラリネットの響きそのものにそれほど際立った個性がみられないのは残念である。

【クラリネットは個性が大事】

クラリネットという楽器は、それほど個性の大事な楽器なのだ。例えば、オーボエには固定的な役割があるし、それをどれだけ立派にこなすかで価値が決まってくる。ところが似たような楽器でも、クラリネットはもっと、吹き手の特徴が出やすい楽器であるし、また、それが持ち味になるのである。

例えば、ザビーネ・マイヤーの吹くクラリネットは見かけ同様の格調高さに包まれているし、横川晴児(元N響首席)のそれは穏やかで、同時に、高潔な僧の打つ説教のように背筋が伸びる演奏である。十亀正司(東響首席)はほんのりユーモアがあって、寛いだ響きを出すし、ハンガリーのヨージェフ・バローグは剽軽で、軽妙だが、表現はどっしりしている。重松希巳江(NJP首席)のクラリネットは優雅で、表現が透き通っている。私は、これらあらゆる個性を愛するものだ。

平田の今後の課題は、自分のもつはんなりした表情の愛らしさや、屈託のなさを、響きのうえで、どのように生かしていくかというところに求められるのではなかろうか?

【堂々たる91番】

そして、メインはハイドンの交響曲第91番である。この91番はドーニ(ドニィ)伯爵の依頼による3曲のなかでは中心的な位置を占める「オックスフォード」交響曲や、そのほかの「パリ・シンフォニー」の主要曲と比べると地味な扱いであり、編成も小さい。録音でも、その地味さをむしろプラスに評価されて強調され、エステルハージー時代のハイドンと重ね合わせて懐かしむような表現が多いように思われる。

しかし、グントナーの表現によれば、この91番はかつての「疾風怒濤」の要素や、「パリ・シンフォニー」にみられるような奇知、そして、最後の「ロンドン(ザロモン)・セット」にみられる交響曲そのものの成長を予言するような堂々たるナンバーなのであった。序盤から表現は肉厚で、グントナーがハイドンに求める第一要素は、なんといっても力感であるとわかる。その力感のなかでこそ、あらゆる細やかな息づかいへの配慮や、奇知的なユーモアの鋭さが生きてくるのである。

このような姿勢は若干、異なってはいるものの、NJPのプロジェクトでブリュッヘンが主張していた「ルール」のようなものは、グントナーの演奏からもはっきり感じられる。その「ルール」とは結局のところ、グントナーが最初の曲から徹底してきた呼吸に関するものと、アーティキュレーションやフレージングにおけるローカルな特徴のようなものであり、言葉ではなかなか表現しづらい。しかし、その歌いまわしは私のようなズブの素人にも確実に感じられるもので、柔らかく人間的だ。

【白眉の中間2楽章】

中間2楽章はヴァリュエーション的な表現で、この巧みな素材の扱いをみていると、ハイドンがときに「交響曲の父」などと呼ばれるのにも納得がいく。メヌエットが第3楽章にあるが、この楽章も舞踊楽章として表現されており、その立体的な動きが適度な重みをもって表現されている。こうした曲を表情をのっぺりさせずに、聴き手を(踊りに)誘うように演奏するのは(学生には)難しいと思っていたが、グントナーのつけるメリハリが見事なこともあって、これはまったくもって問題がない。スケルッツォ的なユーモアも深彫りにし、思いきった演奏ができており、「ロンドン・セット」を派手に特徴づける響きのトリックが、ここで既に十分に発揮されているのを実感した。

この楽章の序盤で活躍するファゴットは、なかなか健闘している。

メヌエットは、もっと難しいと思っていた部分だ。それなりに恰好はついても、ただ「通り過ぎる」ようなものになりはしないかと心配していたのである。しかし、これも杞憂だった。型通りの複合三部形式というよりは、ヴァリュエーションのように1つ1つの素材を大切に扱って、新鮮に見せる工夫が際立っていたことが大きい。弦の安定したベースと、管楽器の多彩な表情づけがこれに貢献しているのは言うまでもない。特に、ホルンの思いきった表現には目を瞠った。いささかクールだが、コントラバスも機微を得た押し引きでなかなか良い。

【喜び紡ぐ終楽章】

フィナーレは、ロンド風のソナタ形式というべきか。何度も登場する主題が徐々にイロニーを強めていくのが強調され、きりっとした表現になっていた。小技に奔らず、その主題に対して真剣に向き合うことで、かえって、楽曲のもつアイロニカルなユーモアが惹き立てられているのに気づいただろう。表現はやや出入りが激しく、グントナー独特の呼吸の深さに基づく振幅が激しい。もちろん、これも作品のもつイロニーを深めることにつながっているのは自明であるが、それは決して恣意的とは感じられず、生きている人間の呼吸(行動)に基づいた、ごく自然な揺らぎであるように感じられた。

そして、そうした人間的な要素に聴き手が感応したときに生まれてくるのは、この上もない喜びであり、楽しさだ。ハイドンという作曲家の・・・その音楽がもつ関係性の・・・真骨頂は、実のところ、このような部分にあるのかもしれない。

【最後に】

すべてのプログラムが終わり、マイクをもったグントナーが、短い挨拶のあと、荘重に述べた弔辞はもちろん、3月11日の被災者たち、そして、いまもまだ行方がわからない人たちに向けられたものである。演奏会の最後に、彼らは月並みではあるが、バッハの管弦楽組曲第3番の「エール」を演奏した。あの楽しいハイドンのあとだけに、なおさら響くものがあった。拍手はせず、そのまま静かに演奏会をおわりたいというグントナーの意思どおりに、客席もつきあった。

しかし、もしもこの曲の代わりに、ハイドンの「告別」シンフォニーのフィナーレをやられたら、本当に涙が止まらなかったろうと思う。あれは、一種のユーモア作品だが、この流れでは有効なイロニーである。私にとって、極端なはなし、芸術とはイロニーだと思える。「エール」は最初の魂が昇天していくような響きと、その後の、シンプルな音符との向き合い方が悲しみに沈む私たちを惹きつけ、その延長線上ですこしだけ元気づけてくれるのだが、私はどちらかといえば、「毒をもって毒を制する」ほうが好みなのだ。悲しみには笑いが・・・否、毒こそが最大の慰みだと思う。

だって、リア王には、道化がつきものではないか。道化もなしに、リア王の体験を受け止めることなど無理であろうに!

しかし、思ったよりもずっと面白いコンサートだった。日本人の好きなランキングで言えば、武蔵野は東京藝大、桐朋につづき、東京音大、国立音大、昭和音大、洗足音大、上野学園大などと並んで、大きく引き離された3番手争いといったところであろう。武蔵野は定員が多く、膨大な数の学生を抱えるので、その分、学生の質も悪くみられがちである。ところが、オーケストラとしては、こんなに良い演奏もできると知って驚いた。やはり、ランキングなんていうものには百害があって一利もない。

そういえば、これは室内管ではなく、フルオケのほうであるが、カールマン・ベルケシュの指揮によるチャイコフスキーは、なかなか面白いので、NMLのURL(これはコーラス付の序曲『1812年』である)をリンクしておこう。

【プログラム】 2011年7月1日

1、ヤナーチェク 弦楽のための牧歌

2、モーツァルト クラリネット協奏曲

 (cl:平田 彩圭)

3、ハイドン 交響曲第91番

 コンサートマスター:丸山 由里子

 於:武蔵野音楽大学ベート-ヴェン・ホール

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