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2011年7月12日 (火)

並河寿美&樋口達哉 プッチーニ 蝶々夫人 新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室 7/12  

【ピンカートン批判はつまらない】

プッチーニの作品はどれも好きだが、なぜ、選りによって『マダム・バタフライ』に人気があるのだろうか。この作品はプッチーニのオペラのなかでも、『トスカ』と並び痛い作品であるが、少なくとも『トスカ』のなかにはあったような恋人たちの誠実な結びつきはなく、はじめから破綻することが予告されている関係のなかで、ひとり蝶々さんだけがもがく悲劇なのである。この作品ほど、後味のわるい作品もあまりないだろう。『カヴァレリア・ルスティカーナ』のような、典型的なヴェリズモ劇でさえ、『バタフライ』ほど過酷ではない。

多くの人たちは、ピンカートンこそオペラ史上、最低最悪の男だと言って憚らない。その見方にもちろん否やはないのだが、歴史上の事実をみれば、ピンカートンもそこらにいた船乗りのひとりであって、時代柄も踏まえてみるならば、とりたてて人間性を逸した人物とまでは言えないように思われる。ピンカートンにも人並みの愛情はあったが、それは蝶々さんのそれとは比較にならないほどのものであったというだけのことである。

私はこの方向でみるほうが、作品を捻じ曲げないでみることになると思う。我々がふかふかのベッドの上で、アイツは最悪の奴だと批判してみたところで、せいぜい、ご婦人方の歓心を買うぐらいのことにしかならないだろう。さも紳士面して、コン「マス」をコン「ミス」と書いてみるぐらいの、下らない紳士根性である。それは確かに人生を美しくはするだろうが(シャープレスの台詞に因んで)、少なくとも私は、女性の歓心を買うためにオペラをみているのではないのである。そこで、思考停止を起こしてはならない。

【アメリカに対する風刺】

しかし、その先で、プッチーニが書こうとしたものがどんなところにあったのか、よくよく考えてみると、なかなか難しい問題でもある。まず、ひとつには、アメリカに対する強い風刺の念が働いていたのは間違いない。自由と民主主義、そして、力の国の象徴であるピンカートンが、どのような悪事を働いたかをみれば、そのことは明らかだが、一見、紳士淑女面のシャープレス領事やケート夫人・・・つまり、アメリカのもつ良心の最良の部分にさえ、プッチーニは一種の毒を向けているように感じられる。

ピンカートンは最悪の男だというが、私は見方によっては、シャープレスやケートのほうがはるかに蝶々さんに対して苛酷なのではないかと思う。真実を自分から話すこともなく、去っていってしまうピンカートンの姿は、合衆国建国の父、ベンジャミン・フランクリンの名前を背負い(ピンカートンのフルネームは、ベンジャミン=フランクリン・ピンカートン)、合衆国最大の仁君とみなされる人物の名前を冠する船(エイブラハム・リンカーン号)の士官とは思えないほど醜い。しかし、3年前と変わらぬ家、自分を一心に待ちつづけた妻のことを知り、なお、そこに止まることのできる人物よりも、顔向けできないと顔を赤くして去っていく人物のほうが、どちらかといえば人間的に思える部分もある。

【蝶々さんの信じる力】

しかし、アメリカに対する皮肉ばかりで、このような作品が成り立つとは思えない。

これに対置される蝶々さんの人間性の高貴さこそ、プッチーニの求めたものである。これは「真実の愛」などという艶めかしい、ロマンティックなキーワードでは理解できず、ましてや、作曲者が知り合いの日本人女性を通じて知り得たような、具体的な日本への憧れでもあり得ない。蝶々さんはただ信じるものであり、そこにこそ彼女の備えた高貴さのすべてが隠されている。15歳という年齢はともかくとしても、彼女は『ボエーム』のミミのように、自分の生きる世界で女がどのように扱われるかを知っていたはずだ。それなのに、彼女はピンカートンを信じるという選択をする。

ここに、蝶々さんの複雑さがある。そこには多分、ピンカートンの人並みの愛情もあったはずだし、逆にいえば、自分がピンカートンに愛されるに相応しい女だという自負もあったにちがいない。蝶々さんはなんとしても、この男と添い遂げるような身分になってみせるとつよく誓っていた風だし、そのためにできることはすべてしたとも言える。最後の手段として、改宗までしてみせるのだから、ピンカートンも肝を冷やしたことだろう。そして、彼女がもうこれ以上はない、最後の手段として選んだのが、徹頭徹尾、ピンカートンを信じるという、そのことであったのだ。

無論、これは信仰に対するひとつのイロニーを提供するのであろう。信じるものは、救われない。これこそが、『マダム・バタフライ』という作品を取り巻く最大のイロニーだ。トスカの場合、彼女が信じるのは神さまなので、大っぴらに風刺を向けることはできない。しかし、相手がアメリカの海軍士官ならば、もはや遠慮はないはずだ。しかし、これらのご婦人が信じるものは、実はひとつのものである。それはナポレオン主義者のイタリア人の恋人でも、改宗したばかりの東洋のうら若いご婦人であっても、同じことなのだ。

プッチーニといえば、どこまでも甘ったるい、煽情家の、時代遅れな旋律の安売り王というイメージがあるし、そのことは商業的にはかえって有利なことでもあるが、本来は、こうした煮ても焼いても食えない風刺の王様だったはずである。

【ワーグナーと蝶々夫人】

そして、この作品ではワーグナーのあらゆる意味で象徴的な作品『さまよえるオランダ人』をはじめ、『リング』『パルジファル』『ローエングリン』などの要素を組み合わせて、非常に高度な心理劇の要素を付け加えた。私の感性からしてみれば、多くの人たちが思い描くような蝶々さんのイメージは、過剰に美化されているように思われる。本来なら、ピンカートンがもはや、蝶々さんは自分のことを忘れているだろうと多寡を括るのも無理はないのであって、蝶々さんの純愛というのは度が過ぎている。『オランダ人』におけるゼンタぐらいには、異常だと思ったほうが健全だ。それゆえに、ピンカートンのもつような当たり前の愛情では応えきれないわけである。

これは、もうエルザが当たり前の女性として考え得る最高級の愛情を以てしても、ローエングリンを信じきれないのと同等のことなのだ。子どもがいるなんて、はじめから知っていたわけではない。実際、これは第2幕でシャープレスとのやりとりのなかで、突如として表れる付け足しの要素にすぎない。そんなものは、2人の関係を根本的に変化させるものではないのだ。むしろ、それ以前にあった関係が真実のものであったかどうか、また、その「真実」がどのような形で生み出されたのかということこそが、この劇の本質の部分にある。

【栗山演出の不足】

そのような意味で、この栗山民也の演出はその最上級の日本的な洗練にもかかわらず、まったくもって空疎である。彼は、プッチーニの音楽に含まれる日本的な要素と真正面から取り組んで、当の日本人として恥ずかしくない舞台を見事に組み上げており、それはお辞儀というような基本的な挨拶のレヴェルから、バレエ的というほどにも鋭く磨き上げられている。だが、それは作品の一部分であって、決して全体ではない。蝶々さんの打算的な部分や、歪んだ自尊心、ピンカートンのアクの強さや、シャープレスの傲慢など、栗山が省略した部分にこそ、プッチーニの風刺は詰まっており、この演出のつまらなさは、そういう部分にある。

もちろん、これは良い舞台だろう。我々が日本人として考え得る、最良のやり方のひとつであり、今日、我々が忘れかけているものへのアンガージュマンでもある。洋妾に対する歴史的な認識も入っているし、書誌的にもよく調べてある。しかし、それ以上のものではないことにも注意したい。つまり、この演出には「関係」が徹底的に抜け落ちているのである。

【高校生のための鑑賞教室】

さて、前置きというか、作品論が長くなったが、私が観たのは新国立劇場で1ヶ月前におこなわれたプロダクションに基づいた、「高校生のためのオペラ鑑賞教室」のための舞台である。キャストと指揮者が異なるが、演出や装置はそっくり同じものを使い、本物を若い人たちにそのまま体験させるためのの機会になっている。妙な解説もつかない。キャストは全員が日本人となり、ダブル・キャストだが、12日は蝶々さんに並河寿美、ピンカートンに樋口達哉。この2人は青いサカナ団の公演『僕は見た、こんな満開な桜の樹の下で』において、主要役として共演している。そうでなくとも、二期会のホープと言われる2人である。指揮者は本公演のイヴ・アベル(聴きたかった!)に対して、イタ・オペ職人の菊池彦典に代わった。

昨年のことだったか、やはり、この鑑賞教室で『カルメン』をみた記憶があるが、開演前はあり得ないほどに騒がしくとも、派手に音が響いてくるとさっと静かになっていくので、舞台自体は十分に楽しめた。この日はそのときと比べても、若干(かなり!)、お行儀のいい人たちが来ていたようで、鑑賞には全く妨げがなかった。この日の学校はどうやら、浦和学院、中大杉並、都立小石川などである。悪名高き「ゆとり教育」も、捨てたものではない。

【並河の理知的なフォルム】

やはり、舞台上の良し悪しは、蝶々さんを歌うソプラノ、並河の出来次第ということになる。以前はもうすこしレッジェーロで繊細な感じであったし、ここに至るまでに、やや無理な仕事もこなしているようで心配していたが、意外にも、しっかり蝶々さんを歌える声を手に入れていたのは幸いである。テバルディのようなドラマティックな歌いくちではないものの、理知的で、筋の通った歌いくちは、これはこれで真実味がある。伝統的にはソプラノには辛い中・低声部を力強く歌い、蝶々さんの人格的な逞しさを象徴するかのように歌うのがよしとされてきたが、並河はベルカントの基本に立ち返って、無理のない発声を心掛けている。

朗唱にちかい肩の力を抜いたパフォーマンスは、この作品がシュプレッヒシュテンメとちかいところに到達しているという高い知見から導かれたものであろうことを感じさせる。

歴代の優れた蝶々さんたちと比べて、表立って劣っている部分はなにもないし、彼女の高い実力と知性を象徴する舞台だろう。あの日、サカナ団で共演していたピンカートン役の樋口と比べると、その成長力が物凄く、彼女のことをお気に入りとしてみてきた私としても、隔世の感がある。

【物足りない樋口の成長】

樋口も、現代的な歌いまわしでシャープに役を造形しようとしている。しかし、同じような努力をした並河と比べて、樋口の歌にはいささか立体感のなさを感じてしまう。スマートに歌う姿勢は悪くないが、そのスタイルのなかに、ピンカートンを感じさせるアクの強さがまったく見られないのでは問題だ。

彼の場合は、このような役を歌うにはやはり、あまりにもスピントが効かなすぎるせいであろう。声は届くし、終幕の『さようなら、愛の家』のように、真っ向勝負の鋭い場面では、持ち味が出やすい(神田の作品では、これが良かった)。ところが、第1幕で船乗りらしく、世界の美女たちを妻にしたいと傲慢な人生哲学を口にするようなところでは、まったく嘘くさい。何年かぶりに聴いた樋口の成長は、並河ほどのものではなかったようだ。

【最高の場面】

一方、このプロダクションで最高の場面は、なんといっても第2幕(新国の舞台では第2幕の第1部となっている)のおわり、蝶々さんが一晩中、ピンカートンに待ちぼうけを食らわせられるときに流れるハミング・コーラスの部分だろう。

蝶々さんが勝利の歌をうたって、旦那様を迎えるために座敷を花で一杯にしようとスズキに命じる(歌謡ショーのように、天井から降ってくる花吹雪は頂けない)。その歓喜の響きが残るなか、ハミング・コーラスが流れるが、待てども来ないピンカートン。障子の向こうで待つ3人。まずは子どもが眠ってしまい、スズキさんもウトウトしてしまう。蝶々さんだけがひとり寂しく出てきて、次第に音楽は夜の、陰鬱なものになっていく。蝶々さんは舞台下手の大階段を一歩一歩あがり、薄暗い星の下、港を眺め降ろす坂の上に立つ。いつの間にか絶望の音楽となったコーラスを背景に、花嫁衣裳の裾を引き、実質上、死の行進をする蝶々さんの姿は、栗山演出による最高の場面である。

ここのコーラスが、まことに素晴らしい。新国の誇る掛け替えのない財産である、合唱団の面目躍如たるところだろう。今回は、そのなかでも特に女声アンサンブルの一体感というのが素晴らしく、第1幕で蝶々さんを囲んで、ボンゾの登場まで仲睦まじく振る舞うときの表現も、本当に素晴らしかった(ちなみに、単独で歌う部分はなかったが、以前はソロで歌っていて良い歌手と思っていたソプラノの藤井直美が、母親の役で出演していた/ここの合唱団に入ったらしい)。

【スズキとシャープレス】

本当のところをいえば、主要2役よりも、シャープレスとスズキの2役が私には気に入った。前者は成田博之で、後者は山下牧子である。どちらも役柄よりはかなり年齢が若いが、声のうえでは、まったく違和感がない。特に山下のスズキは、一般的な、おっとりした働き者のオバサンという感じではなく、かつては蝶々さんのような立場であった人の、枯れ果てたのちの姿という感じがした。登場の場面で、シャープレスにおしゃべりを仕掛ける場面も、その面影がある。

声に芯があり、蝶々さんの添え物にはなっていない。それゆえ、最後、蝶々さんの決意を知り、子どものもとに行ったはずの彼女が、子どもを連れて蝶々さんのまえに表れるシーンには意味がありそうに思えた。スズキさんはきっと、あそこでなんとかして、決死の蝶々さんを思い止まらせたかったにちがいない。しかし、子どもを目の前にしても、蝶々さんは怯まず、決心を曲げなかった。悔しそうに去っていくスズキさんの姿は、これまで見た『マダム・バタフライ』の場面ではあまりお目にかからなかったものである。

山下牧子がお気に入りの歌手だから言うのではないが(それを言うのなら、樋口だって、お気に入りの歌手のひとりなのだ)、彼女の演唱が、どれぐらい並河にとって心強かったか、わからない。

【菊池彦典の至芸】

しかし、さらに心強かったのは、ピットのほうだろう。気づけば、もう70歳を過ぎているベテランの菊池彦典の振るイタリア・オペラでは、まずハズレはあり得ないが、序盤からハイ・テンションでアンサンブルを統率する。例えば、前奏曲とは言えないような短い音楽だが、この作品の冒頭、プッチーニはヴェルディへのオマージュと思われる対位法の効いた響きでオペラを始める。そして、この響きを深くし、僅かにカラーをつけることで、それが瞬時に航海の音楽に変わるという奇知をみせているが、菊池はこれを見事に色づけている。

第3幕(第2幕第2部)のインテルメッツォなども、しっかりテンポを落として、メリハリだけを気をつけた良い演奏だ。こういう部分で、観客に考える暇を与えるというのはいいことだろう。慌てずに、こうした音楽をのんびり奏でられるところにも、マエストロ・菊池のほかの人にはない経験値のゆたかさを感じさせる。随所に聴かれる深いルバート。それにもかかわらず、作品を下卑たものにはしないドライヴの絶妙のバランス。正にイタリア人そのものの演奏で、こういう凄い人が日本にいることも忘れてはならないだろう。

【まとめ】

高校生のための公演だが、演者は間違いなく真剣勝負で、かなり「楽しめる」舞台でもある。ただ、作品が重いので、最後はしょんぼりして帰ることになろう。やっぱり、『蝶々夫人』はあまり好きになれない。この舞台では、駆けつけてくるピンカートンの声も裏から聞こえてくるばかりで、最後、菊池がずしんとした響きを叩きつけて、シーンとなっておわる。高校生が相手なので、オペラ・ファンばっかりが集うときのようにすぐには拍手は起こらず、ほんの一瞬、シンとなってしまう。これはどちらかというと、私の理想どおりだ。やはり、このような静寂で、蝶々さんの死は受け止められなければならないように思う。

1回みると、5年は見たくないようなオペラ。その5年前に、木下美穂子の演じる蝶々さんをみて以来の舞台だったが、あのときよりずっとこころに響く舞台ではあったと思っている。これで4200円というのはお財布にも優しく、高いCPといえるのであろう。公演は前述のようにダブル・キャストで、16日までつづく予定となっている。

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