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2011年7月17日 (日)

スダーン(指揮)&キュッヒル(コンマス) シェーンベルク 浄められた夜 東京交響楽団 サントリー定期 7/16

【東響 弦セクの祭典】

この日、東響はゲストのキュッヒルを筆頭に、3枚のコンマス(アシスタントも含めると5枚)を準備。コンマスたちの競演が見どころと思っていたが、実は、弦セクション全体の祭典であり、特に、ヴァイオリンとヴィオラによる官能的なマリアージュがテーマになっていた。そして、結局のところ、女性的なヴィオラの存在感に、ヴァイオリンが溶けていくような表現が興味ぶかい。その溶けていくヴァイオリンがライナー・キュッヒルというのだから、これは堪らないというものである。

演奏会は前半がモーツァルト、後半は楽団が今シーズン、テーマ作曲家としているシェーンベルクである。シェーンベルクとのマリアージュとしては、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、ベルク、ツェムリンスキー、ヒンデミット、ワーグナーなどといったところが思い浮かぶが、思いきって、ウィーン音楽の「ふりだし」と「あがり」でプログラムを組んだのは、ある意味では大胆な試みである。

【用意周到なプログラム】

しかし、シェーンベルク『浄められた夜』のモティーフとなる男女の結びつきは、ヴァイオリンとヴィオラの関係に溶け込ませて表現されている。その点を重くみた場合、同じ楽器を独奏楽器に起用したモーツァルトの協奏交響曲(K.364)が対置されるのは自然なことであり、これらの劇的な詩情を反映するのに、前プロとして、40番と並ぶモーツァルトの短調の交響曲が選ばれるのも用意周到な配慮である。

上の2曲において、ヴァイオリンとヴィオラの関係は、いずれも男女の関係に置き換えて考えると捉えやすくなっている。これはこの日のヴィオラ奏者がいずれも女性であったこととは関係なく、たとえ、ヴィオラにマッチョな店村眞積がいたとしても同じことなのだ。前述のように、表面的にはヴァイオリンの響きが立つのは当然だが、繊細に聴き込んでいけば、モーツァルトにおいてもシェーンベルクにおいても、最終的にはヴィオラの響きがヴァイオリンに対して支配的なのである。しばしば立派な夫が、伴侶によって成り立っているのように見えるのと同じことだ。

【ヴィオラ 西村の優位点】

モーツァルトの協奏交響曲では、独奏ヴァイオリンにゲストのライナー・キュッヒル、ヴィオラに楽団首席奏者の西村眞紀が立った。浅薄なレヴュアー(敢えて、攻撃的にそう決めつけてしまおう!)は、キュッヒルの存在感だけが際立っていて、西村は役に余ると書いているが、これは明らかな間違いである。確かに、西村は、師のサモヒルによって近代的な大空間にもたっぷり響くように育てられたキュッヒルほど、ハキハキした弾き手とはいえないだろう。とはいえ、ヴィオラはそもそも、そんなに朗々と響く楽器でもなければ、そこに持ち味があるというわけでもないのだから、そのことはとりたてて問題にはならない。

第一、この作品においては最初から、そういった浅薄な議論は捨象されている。むしろ、それらの関係こそが重要なのは、まず真っ先にオペラの作曲家であるところのモーツァルトらしいところである。大雑把にいえば、第1楽章では伴侶(ヴィオラ)が英雄(ヴァイオリン)を立て、第2楽章では英雄が伴侶のありがたみに完全に屈服し、最終楽章では、両者が仲睦まじく特徴を交換するというイメージになっている。

最初の楽章では、なるほどキュッヒルの存在感は際立っていたが、白眉となる緩徐楽章では、むしろ西村の控えめな音色こそが私を捉えた。何がいいのか、言葉で説明するのは難しいところだが、一口にいえば、西村のヴィオラには母親的な味わいがあったというべきだろうか。母親的というのは、つまり、息子がどんな存在であれ、そのままの形で包み込んでしまうということである。通常、この作品のヴィオラ・パートは母親的というよりは、女房的なのである。女房は母親よりも自己意識が強く、夫のワガママをそのまま呑み込んでしまうということは少ない。その分、女房は響きのうえで、夫の響きに何がしかを付け加えていくことになるのである。

ところが、西村はよく相手の響きに耳を傾け、その響きを柔らかく包み込み、優しく反射することに徹していた。これは彼女が没個性的であるワケではなくて、その証拠に、西村の響きに押し返されたキュッヒルの響きは、以前と比べて、どこか寂しげでありながら、深く滋味を増しているのに気づくはずだ。これは母親のもとを離れた息子が、いささか不安な立場に立たされながらも、その想いを胸につよく成長していく姿に重なるのである。

【母親の記憶】

さて、そのことによって何が起こったかということが、より重要であろう。結果的にみて、この息子の寂しさは、作品を一般的なイメージよりも、内面的に張りつめたものにしていた。ここで調べてみると、(K.364)の協奏交響曲は1779年に作曲されているが、モーツァルトは前年に母親を亡くし、この年の初頭には憧れのアロイジア・ウェーバーより交際を断られてもいる。このようなプライヴェートな物語が、この日の演奏の雰囲気とうまく合致していることに気づくのは容易なことだろう。西村のヴィオラとキュッヒルの関係をみれば、それらのうちでも、特に母の記憶がより際立った演奏であったと言えるのかもしれない。

【母親に奉仕する家族の美しさ】

西村のソロが大事に、艶やかな旋律を高貴に輝かせるなかで、バックの低音弦が優しく呼応するときの響きの滋味は、いま思い出しても涙が出るほどだ。母親に奉仕する家族の美しさは、どんな場面であろうと感動的である。

いきなり個人的なはなしで恐縮だが、ここで、私はある思い出を回想していた。大学時代、私はコーラスをやっていたことがある。短いが、艶やかなアルトのソロをもつ曲があった。私たちが選んだソリストはとても優しく、きれいな声をもつTさんであったが、彼女は小柄で、声も太くはなかった。練習のとき、いちどだけ私たちは思いきって声を抑えることで、Tさんの持ち味をしっかり引き出すことに成功したのだが、ともすれば声を出したくなる部分なので、本番ではうっかり、そのことを忘れてしまったのである。私はいまでも、そのことをとても悔しく思うことがある。私たちができなかったことを(無論、あのときの私たちとは比べものにはならないプロ集団だが)、東響のメンバーはこうして、しっかりやってくれたのだ。

終楽章のおわりのほうで、ヴァイオリンは高音に、ヴィオラは低音に集中して書かれた書法がクロスして、お互いの持ち味を模倣しあう部分は、既に書いたような関係を示す頂点となり、ずっしりと重い光を放っていた。家族の中心はしばしば、子どもであるようにみえるものだが、本当は、こうした夫妻の絆だけが、それを輝かせることができるのである。

【浄められた夜】

この日、会場でも売り出された昨季のブルックナー『交響曲第8番』の演奏において、東響はスダーンの身体についた筋肉のようになり、高い連動で結びついた響きによって、私たちを酔わせたものである。しかし、ライナー・キュッヒルという「筋肉増強剤」をコンマスの席に座らせたこの日、なんとも不思議なことに、響きの厚みも、音色の柔らかさも、嘘のように磨きがかかってしまうのだから、ステロイドを手放さないプロ・スポーツ選手たちの想いも、すこしは分かるような気がしてきたものである。

メイン・プログラムのシェーンベルク『浄められた夜』(弦楽合奏版)では、中プロの『協奏交響曲』のソリストたちが、それぞれコンマスとヴィオラ首席にわかれて、席に着いていた。ただし、デーメルの官能的な詩に基づくこの作品で、男女の役割を演じるのは、キュッヒルと、東響のヴィオラ・セクションの2枚目の看板、青木篤子首席に変わった。キュッヒル好き、そして、ヴィオラ好きの私にとっては、もう堪らない一夜である。そのヴィオラ・セクションを縦で2つに割り、西村のグループの弾きだしで演奏が始まり、青木の側がそれを追いかけた。

このあたりの演出は無論、響きのうえでの配慮でもあろうが、デーメルの詩で、女が恋人とは別人の子どもをお腹に宿しているという、そのことに対する暗示的な意味を含んでもいるのだろう。ただし、スダーンは原詩の世界のイメージを演奏や、そのスタイルに溶け込ませてはいるものの、より重要なのは、響きのうえで、書かれたものをどのように関係させるかということである・・・という、その原則は貫いていたようだ。

この作品は一般的なイメージよりは、ずっと官能的で、運動的な作品だ。いくらでも活き活きと、甘ったるく演奏することができる。いつも音楽の活力ということにセンスを向けるスダーンの演奏では、その罠に嵌りこまないかということだけが心配であった。しかし、それは杞憂だったというほかない。演奏はベースに適度な厚みと、十分な柔らかさを伴い、渋い哲学を含んだ知性をユーモラスに効かせて、最終的に、原詩のもつ官能性と合流する深々とした演奏であった。

そのキーとなったのが、やはり、ヴァイオリンとヴィオラに書かれた男女の関係だったのである。青木は同僚の西村とは本質的には似たような傾向をもっており、淑やかな演奏をするのだが、一方、やや押しのつよい表現力の持ち主であるようにも思われる。西村がモーツァルトで、青木がシェーンベルクにおいて起用されたことは、まったくもって適材適所である。青木は別人の子をお腹に宿しながらも、贖罪を求めて愛人と向き合う女性の強さを、そのきりっとした音色で、じんわりと感じさせる。キュッヒルは、その響きに毅然とした厳しい表情で応えていた。結局、彼は青木の響きを認めて、一歩、譲るような姿勢を見せるのである。

そして、この関係こそが、この日の『浄められた夜』のイメージを決定したのである。

コワモテではあるが、このようなキュッヒルの柔らかさには、この演奏会のなかで何度も感銘を受けた。既に述べたような、響きの厚みや、堂々たる力強いフレージングについて、随所に目立ったキュッヒル一本の力は、もちろん、否定のしようもない。しかし、それだけではない。

シェーンベルクの演奏では、このオケでは珍しい弦楽合奏でのメインとあって、どのパートも大張りきりであったようにみえるが、そのなかでも、仲間の演奏を楽しく聴きあうという余裕もみられて、その押し引きがなんとも面白かったし、頼もしかったものである。東響を長く聴いているファンからすれば、隔世の感といったところであろう。私はせいぜい10年足らずであるが、それでも、この間に経験した飛躍的な成長について、この日の演奏は象徴的である。

この演奏は、部分にわけて語るべきではない。すべてのうねり、すべての呼吸に、等しく生命が宿り、まるで詩の一語一語に研ぎ澄まされた言葉のポエジーがあるように、すべての響きに、あるいは、すべての休符のなかにさえ、スダーンの、キュッヒルの・・・そして、メンバーたちの熱い想いが詰まっていた。特に、キュッヒルが終演後、隣のニキティンにジェスチャーで示していたのは、うねりの素晴らしさであったようにみえる。それを構築したスダーンは、いつものように平台で全身ダンスを用いてアンサンブルを激しく指揮していたが、その音楽は意外にも落ち着きがあり、うねりといっても人工的なものではなく、もっと柔らかな、森を吹き抜ける風のようなものであった。

ラドミル・エリシュカの棒によって、札響のメンバーたちがビストロウシュカの踏む土や、彼女の感じる風を見事に表現し得たのと同じような意味で、この日、東響のメンバーたちは、ウィーン音楽における最高の知性、スダーンとキュッヒルの助力を得て、新ウィーン楽派の起こした風の心地よさを聴き手に実感させた。そして、その風は確かに、夜を・・・夜に呼吸する私たち聴衆を浄めたであろう。

【まとめ】

とにかく、この場にいられたことに、深い感謝の念を感じる演奏会であった。日本でシェーンベルクといえば、プロコフィエフと並ぶオーケストラ・キラーである(つまり、客が入らない、うまくやっても盛り上がらないということ)。その作曲家をメインに据えて、これほどの成功を勝ち取るとは驚きであるが、そのエッセンスとして世界最高のコンマス・キュッヒルと、自分たちのもつ資源にして、聴衆たちからも愛情ゆたかに育まれているヴィオラ・パートを使うのだから、ユベール・スダーンという人も相当の策士である。

【プログラム】 2011年7月16日

1、モーツァルト 交響曲第25番

2、モーツァルト 協奏交響曲 K.364

 (vn:ライナー・キュッヒル va:西村 眞紀)

3、シェーンベルク 浄められた夜

 コンサートマスター:

  ①グレブ・ニキティン

  ②高木 和弘

  ③ライナー・キュッヒル

 於:サントリーホール

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