広瀬彩 モノ・ドラマ 君を待つ~カミラとヤナーチェク コトホギ第1譚 7/5 (ソワレの部)
このブログをみればおわかりになるように、私は演劇というものにはほとんど興味がありません。オペラは好きですし、バレエも好きですが、やっぱり音楽が流れているものでないと駄目なのです。映画やテレビ・ドラマもみますが、演劇はごまかしが効かない。その点がいいのかもしれませんが、私はあまり好きになれません。しかし、今回、広瀬彩という女優の方がヤナーチェクとその愛人、カミラ・ステースロヴァの関係をテーマにモノ・ドラマをやるということで観てみることにしました。
【舞台の特徴】
パフォーマンスとしては、とてもよく準備された、素晴らしい公演だったと思います。広瀬彩さんについては、まったく知りませんでしたが、安定したメゾ・ソプラノの響きを魅力的に使い、きりっとした演技ぶり。朗読という得意分野を生かして、小説を読み上げるようなベースのなかで、いくつかのコントが演じられます。カミラを中心に、老ヤナーチェク(ほんの数場面)、カミラの子息のひとり(たった1つの場面)を含む3役に、語りを含めて4つの役割をこなすモノ・ドラマです。そのスタイルは他ではなさそうな独特のものであろうと思われますが、手本もなしによくできあがっていました。
大声を出さねばならない場合は人のいないほうを向く(会場が狭いので)など、上品な配慮に基づいたステージングに、ある種の紳士性を感じましたし、演劇などよく知らないくせに言うのもなんですが、そのような意味も含めて英国的な舞台と感じました。
【広瀬さんの誠実さ】
この舞台をみて真っ先に感じたことは、広瀬さんの真面目さです。上演時間は1時間強ですが、その間、出ずっぱりの舞台です。ほとんど道具に頼らず、赤ん坊をあやしたり、木登りをしたり、大体はマイムで演じるのですが、これが見事なものでした。いちばん感心したのは、カミラがお母さんの看病をする場面です。お母さんの身体を起こし、水を呑ませてあげるのですが、その仕種のなかに、やや徒っぽいところもあるカミラという女性の、隠れた優しさが滲んでいます。自分の商売柄もあって、もっともこころに残る場面でした。
マイム指導には、岡野洋子さんの名前が見えます。それに、田中すみ子さんに習ったチェコの舞踊も入りました。とてもハードな舞台です。
広瀬さんの誠実さは、基本的に手紙のなどの一次資料から類推できることだけを舞台にかけ、恣意的な当て推量を避けていることからもわかります。この舞台に若干の手を貸したという「ヤナーチェク友の会」のメンバーならばともかく、世の中のほとんどの方はあまりご存じないはずの、ヤナーチェクとカミラの関係を彼女はしっかりと形にしてくれました。
【カミラの理知的的な造形】
しかし、カミラの造形については、完全に彼女によるオリジナルでしょう。広瀬さんの演じるカミラはとても元気で、情感ゆたかで、その一方、世の中の多くの人たちのようには功利的で、ドイツ的なコミュニティのなかにあるユダヤ人・・・という難しい立場のなか、夫や子どもたちを誠実に守り抜こうとした逞しい婦人という感じでした。一方、そのせいで、ヤナーチェクとの関係は、不誠実なものになった。最後のモノローグで、広瀬さんはそのようなカミラの後悔について演じています。実際はどうなのか、わかったものではありません。
後世、今回の劇にも登場した子息のひとり、ルドルフが、高額で手紙を売却しているのをみると、ヤナーチェクの立場や影響力を利用しただけではなく、ヤナーチェク自身を「商品」と見做していていた可能性さえありますし、その場合、カミラの後悔などあり得ないことになります。もちろん、カミラ自身と、夫や子どもたちでは、価値観が異なるということも考えられますけれども・・・。
齢七十をすぎて700通もの書簡を愛人に送るヤナーチェクも変人ならば、それを受け取って、しまっておいたカミラのほうも十分に変人です。人間のこころとは、ただでさえわかりにくいものだけれど、変人のこころは、なおさら理解しにくいものでしょう。しかし、ひとつだけ言えることは、広瀬さんがこのような変人のこころを、あくまで変人として大雑把に描くのではなく、歴史的事実や書簡の内容に従って、理知的に組み立てていったということです。
【表現の本丸には辿り着かず】
そういう広瀬さんに対しては、とても感謝しなければならないし、十分に尊敬もすべきだと思います。それだからこそ、私は思いました。この舞台は、この舞台だけで終わってはならないのだと。この舞台は確かに、考え得る限り、もっとも理知的にカミラとヤナーチェクの関係を追ったドラマです。ただ、それを知るだけならば、本を読むのとどこがちがうのでしょうか。このドラマだけでは、私が本当の意味で人間の神秘だと思う部分には、何のアンガージュマンもなされていないのです。
つまり、結局のところ、カミラは「どうして」700通もの手紙をとっておいたのか。ヤナーチェクに対して、どんな想いをもっていたのか。一方、ヤナーチェクはカミラに対して、どんな期待をかけ、その恋からどのようにして魂を燃やし、彼のこころのなかに位置づけていたのか。そのことは結局、どこにも描かれていなかったように思います。そして、そのような理知的な分析だけではわからない部分にアンガージュマンをかけることが、芸術表現の本丸なのです。
帰る道すがら、いまに至るまで、私は彼女のつくってくれた誠実そのもののパフォーマンスを、一体、どのようにしていけば、このような本丸に辿り着くことができるのかとずっと考えていました。自分には別に際立った才能があるわけでもないのに、甚だ失礼なはなしではありますが、事実、そんなことを考えていました。その結論はもちろん、そんな簡単に出るような話ではないのでしょう。大体、考えることはいくらでもできるけれども、それを実行に移し、広瀬さんのように高いレヴェルでやり遂げるということとの間には、とても厚い壁があります。
【これとは対になる具体的な舞台を!】
それを承知で、ひとつだけ言わせていただくならば、このドラマはひとつの完成品として残しておき(再演も歓迎です)、もうひとつ、これと対になるような、もっと具体的な舞台が必要だということです。恣意的な判断を恐れず、もっと場面を具体的に構成して、事実を関係のレヴェルまで高めて描かなければいけない。例えば、最後の場面・・・カミラとその子、それにヤナーチェクが一緒にピクニックをし、雨天のなか、いなくなってしまった子どもを探して、カミラもヤナーチェクもずぶ濡れで探しまわり、結局、そのときのダメージがもとになってヤナーチェクが亡くなり、カミラが看取るというその一日だけを、何の説明もなく、もっと深く描くべきなのです。そうすれば、2人の関係はもっと深まるでしょう。
これはきっと、今回のように、温泉地・ルハチョヴィツェでの出会いから始まって、ヤナーチェク邸での晩餐、舞踏会、カミラ宅への突然の訪問、母親の看病、最後の日・・・といった複数の場面を経時的に追っていく場合よりはずっと難しいし、より洗練された想像力が必要になります。もちろん、台本も大変でしょう。しかし、それをやらなければ、広瀬彩なりの真実を描くというところには至りません。あくまで、よく勉強しさえすれば、誰にでも描けるような世界でしかないのです。
素人だからこその、厳しい意見かもしれません。しかし、私は広瀬さんにはそれができると考えるからこそ申し上げるのですし、そうすることで、このミューズを少しでも救うことにつながるならと考えて、生意気にも愚見を申し述べていることを理解していただきたいと思います。
【観客とのコミュニケーション】
ヤナーチェクが関係を強めてきたときに、それに戸惑うカミラがヤナーチェクの音楽を背景にして、グルグルと回りながら、「もう止して!」などと叫ぶ場面があったと思いますが、実は、その台詞は私が彼女に言いたいことでした。なぜなら、目がまわりそうだったのだもの!
確かに、東京オペラシティの近江楽堂が舞台なら、こういう旋回運動はやってみたくなるでしょう。でも、目がまわるだけではなかったのです。私は、もっと新しい世界に行きたかった。それなのに、彼女がグルグル回っているだけ(ときどき、反転しましたが)なのが堪えられなかったのです。むしろ、ああした場面で彼女は一旦、裏に引き取り、音楽(と朗読)だけを流しておいて、観客に考える時間を与えるべきだったのではないかと思います。つまり、この舞台はずっと、彼女と観客が向き合っていなければならない舞台です。その点が広瀬さんの誠実さでもあるのでしょうが、一歩、引いてみたときに見えてくるものもあるはずでしょう。
彼女の舞台はとても紳士的だけれども、この点に関しては、あまりに饒舌なのです。象徴的なことに、老ヤナーチェクの台詞であっても、あまりゆっくりした台詞まわしというのはありません。それは天真爛漫で、屈託のないカミラの姿を描き、老いても衰えないヤナーチェクの情熱のエネルギーを表現するために選ばれた表現でしょう。しかし、その代償に、観客はなにかを失ったように思うのです。ただ、その隙間に入ってくる、彼女のメゾ・ソプラノの声は決して、居心地の悪いものではありませんでしたが・・・。
【異質なものを組み合わせる】
仕掛けのしようは、いくらでもあると思います。例えば音楽にしても、今回は、『霧のなかで』やオペラの一場面、弦楽四重奏曲など、ヤナーチェクのもので、カミラにインスピレーションを得て書かれたとされるものを中心に、場面に合うものを選んでいました。例えば、これらのいずれかにワーグナーのものを入れてみると、イロニーができます。試みに、子守唄のようなものを歌いながら出てくる最初の場面で、『ワルキューレの騎行』をかけてみたら、オペラ・ファンには大爆笑がとれるかもしれません。でも、最後の場面で、再び同じ曲がかかって、カミラが退場せず、椅子のうえで眠ったまま(暗転して)おわったら、どうでしょうか。これはもう、とても深い、風刺的な意味を含んでいると思います。
これは冗談めいていますが、イロニーのひとつの常套手段は、異質なものを上手に組み合わせることです。私はこの舞台が好きだと思いましたが、イロニーが足りないと思ったのです。それは結局、観点がひとつのものでしかなくて、ぶつかりあわないからです。表面的には、カミラとヤナーチェクはぶつかり合っているはずですが、直接的に描かれているのは専らカミラのほうだけですし、舞台に出現するヤナーチェクにしても、カミラへの手紙によって演出された、カミラのためのヤナーチェクにすぎません。そして、最後には、ヤナーチェクの目によって、この表面的な対立さえもが融和してしまいます。
広瀬さんがカミラとヤナーチェクの理解の最後の砦とした、死にいくヤナーチェクの目・・・これに、どれだけのリアリティを与えられるかが勝負なのです。その点について、私は甚だ唐突なものを感じざるを得ません。そのため、最後の、自らも死にいく立場になったカミラのモノローグは、いささか形式的なものとして感じられました。
批判が、多くなりすぎたと思います。これは少なくとも、私がこの舞台に惹きつけられ、ああしてみたい、こうしてみたいと思ったからこそ、書けることなのです。私はあくまで広瀬さんの誠実に感謝し、口づけしたいと願うものです。
【最後に】
最後に、この舞台は当初、4月14日に予定されていたものです。しかし、東北関東大震災の影響により、今日まで延期されることになりました。4月の時点で上演されていれば、私は見なかったかもしれません。題名は当初、予定していた『ヤナーチェク 狂恋』というものから、『君を待つ』に変わりました。「狂恋」と「君を待つ」とでは、随分とイメージが異なります。私はしかし、そこに広瀬さんのヤナーチェクに対する理解の深化を感じます。
私は芸術家のプライヴェートなことに、驚くほど関心がない人間です。もちろん、家族や恋人、友人たちとの関係が、作品に影響を与えることを理解していないのではありません。ただ、そういうものをまり知りすぎないように気をつけることで、より誠実に作品と向き合えるように思うからです。
【芸術家と交換可能な夫婦関係】
そういう私ですが、最近、ひとつ思うことは、大作曲家の時代は宗教的、社会的な制約などが今日よりもずっと強かったであろうにもかかわらず、結婚している夫婦が、今日以上に積極的に取り替えられたり、愛人関係に反れていくことが多いということです。ヤナーチェク以外にも、リストはダグー伯爵夫人と道ならぬ恋をして子をなし、その娘、コジマも歴史的な指揮者のハンス・フォン・ビューローを捨てて、その友人、ワーグナーの妻となります。ブラームスは、クララ・シューマンに横恋慕し、ショパンも離婚していたとはいえ、子どものいるジョルジュ・サンドとつきあいました。
その歴史を受け継ぐかのように、現代に入っても、ピアニストのダニエル・バレンボイムは難病、MSに罹った妻、ジャクリーヌ・デュ・プレを可愛そうにも放り出して、現在の夫人に鞍替えしたりしています。
前の記事に書いた、ドラマ『刑事コロンボ』の出てくる画家、バーシーニのように、優れた芸術家ほど、女性の力を貪欲に求めていきます。高村光太郎のように、気の狂った妻の面倒をみて、彼女が死ぬまでつきあうというようなことは、むしろ珍しいのです。ヤナーチェクの恋も、そうした反転した「常識」のうえで考える必要があります。ここでは信仰による制約、社会的な制裁を恐れての制約というのは、あまり関係なく、むしろ想いを強めることにしかなりません。夫婦関係も、あくまで交換可能なものでしかないのです。そのため、リストはその名声にもかかわらず醜聞が多く、ワーグナーも、ヤナーチェクも、こうしたスキャンダルとは常に友達のように過ごさねばなりませんでした。
コジマのように、完全に芸術家と結びついてしまえば、まだ楽なのでしょう。しかし、カミラのような立場では、どうなのでしょうか。70歳を過ぎた男に対して、どれぐらい誠実に関係をもっていたのかという疑問はあります。しかし、もはや死を残すのみで、地位も名声も確立したヤナーチェクに対して、カミラはあまりにも無防備な立場にすぎません。もうひとつ補強するとすれば、このようなイロニーがあり得るかもしれません。
いずれにしても、いろいろなインスピレーションを与えてくれる良い舞台だったと言って、駄文を締め括りたいと思います。
【補足】
なお、演出は東京室内歌劇場の公演で、リゲティの歌劇『ル・グラン・マカーブル』を演出した藤田康城さんでした。ソツなく、手際のいい舞台さばきでしたが、照明が客席でも、いささか暑かったのはご愛嬌です。音響は小野幸一さん、照明に加藤学さんという演出チーム。舞台は、東京オペラシティの近江楽堂。普段は、古楽などを中心に演奏される手ごろな舞台です。中央のスペースを使い、十字の各方向に客席が設えられて、客席がつくられていました。ソワレに関しては、その客席はほぼ一杯になっていましたので、遅ればせながら、ご盛会をお祝い申し上げたいと思います。
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