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2011年7月11日 (月)

フー・ツォン ショパン マズルカ集 (Fdyderyk Chopin Institute)

ショパンの演奏の真髄について知りたいならば、私は、次の3人のピアニストの録音を聴けばよいと思っている。それはグレゴリー・ソコロフ、アダム・ハラシェヴィッチ、そして、フー・ツォンだ。ソコロフからは端整なショパンの作品の構造美について。ハラシェヴィッチからはショパン演奏に是非とも必要な、技巧やリズム、フレージングのルールの厳密さについて。そして、フー・ツォンからは、ショパンにおける力強さということについて学べるであろう。

例えば、ソコロフの録音はリンクのとおり(私としては、ショパン本人が弾いた演奏に、もっともちかいものだと思う/ショパン・イヤーに当たる昨年は、華々しく再ブレイクした)。アダム・ハラシェヴィッチは、こちらの映像にて(NMLにないだけだが、この人の演奏を映像で見ていただくのは意味あることだ。身体の使い方を含め、正に今日の教科書的な演奏といわれている)。

さて、ここに紹介するショパン・インスティテュートによるフー・ツォンの録音には、全曲ではないものの、18曲のマズルカが収録されている。フー・ツォンは1934年、中国出身のピアニストだが、早くにポーランドに渡り、名教師、スビニエグ・ジェヴィエツキについて、みっちりとショパン演奏について叩き込まれた。その経歴はこの録音に収められた理路整然と、神に仕える牧師のように「敬虔」なショパン演奏を聴けば、まったく自然に納得のいくものだろう。

そして、フー・ツォンの演奏は、なんといっても個性的だ。このページでは何度でもいうように、クラシック音楽における個性とは、木に竹を接ぐようなやり方で生じるものではない。それは(あまり信心深くない私が言うのも説得力に欠けるが)信仰に似たようなものであり、神の教えをよく守り、祈りつづけるところから、少しずつ感得されてくるものである。

私が普段、繊細なものを好むせいか、フー・ツォンの演奏はとりわけ力強いもののなかに入るように思われるが、その声の強さは若手がいきなりヴェリズモを歌いだすような性質のものではない。昔の名歌手たちのように、レッジェーロから始まって、徐々に声を成熟させてきたような、そういう性質のよく鍛錬された響き・・・1年、2年では得ることができない、慎重な積み上げによる響きであることは明白である。

例えば、(op.24-2)のマズルカなどは、いくらでも劇的、刺激的にできる魅力的なナンバーだ。また、声質的にはリリコ・レッジェーロに止まって歌うほうが、はるかに安易で、魅力的になるはずである。しかし、フー・ツォンはそれでは満足しないのだ。ドラマティコとは言わないまでも、重めのリリコにしっかり踏み込んで、下から響きを支えるように弾くのである。その分、甘みはやや抑えめとなる。このことによる効果は、作品にどっしりした安定感を与え、浮ついた響きの遊離をまったく許さないことだ。もしもショパンに対して、不幸を切り売りして、不健康にロマンティックな響きをばらまくようなイメージをもっている、あるいは、もうひとつ音楽が軽すぎるという印象をもっている人がいるならば、この演奏を聴いて、厭なイメージを洗い流してもらいたいものである。

フー・ツォンの演奏からは、ひとつひとつの音符、フレーズ、リズム、そして休符にさえも、ゆたかなメッセージが聴こえるはずである。しかし、その充実はやはり、一旦、無私というキーワードを通ってから展開されるものであることも間違いない。例えば、俳句の芭蕉の素晴らしさも、そこにある。ショパンはしばしば「ピアノの詩人」などと言われるが、私は「詩人」ではなく、「俳人」というほうがより正しいと思う。その理由は、ショパンの書いた音は詩よりも凝縮性が高く、次に見るように、「無私」という観点からも、より俳句と通ずるところが大きいからである。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

例えば、この句のうちのどこにも、芭蕉自身の「私」というものは感じられないのではなかろうか。もちろん、ここで言う「閑さ」の感覚は、芭蕉のもつ感性から導かれた感覚でもあろう。しかし、少なくとも「我思う、ゆえに我あり」という感じではない。ここで芭蕉は、「閑さ」を(自分から)感じるというよりは、まず、はじめから「閑さ」がそこにあって、そこに自分が一体化する(させてもらう)という表現をとっているからである。

フー・ツォンの表現も・・・ということは、ショパンのそれも、これと同じ世界なのである。マズルカはショパンの作品のなかでも、もっともプライヴェート性の高い分野といわれる。その分野であっても、ショパンには「我思う、ゆえに我あり」という傲慢さは微塵もないようだ。むしろ、木のなかに眠っている仏像を救い出すように、彫り出させていただくという彫刻の慶派の考え方にも近いものを感じるだろう。マズルカは、ショパンの自己表現ではない。むしろ、そこに彫り出されるのを待っている仏像のようなものなのである。そして、フー・ツォンほど、その重みに気づいているピアニストもいないのだ。

フー・ツォンの演奏を長く聴いていると、まるで坊主の読経を聞いているような感じになってくる。まるで、バッハを聴くような感覚でもあろう。もちろん、ショパンにとってバッハが永遠のヒーローであったとはいえ、そのスタイルをごちゃ混ぜに弾いているというわけではない。だが、これも私がしばしば書いてきたことだが、無私というキーワードにおいて、バッハとショパンは通底する。

ただ、ここが難しいところだが、だからといって、ショパンの人生をすべて掃き清めて、まっさらにして演奏するのがいいというわけでもないのだ。このディスクの最後で、フー・ツォンは(op.41-1)(op.59-1)(op.7-2)(op.68-4)という順番で弾いて、演奏を締め括っている。これらはショパンにとって、サンドと交際していた黄金時代のはじめと、停滞期。青雲の志を抱く若い時期。そして、死の影も近寄ってきた最晩年の作品に当たっている。このような時期にショパンが、その広々としたクローゼットのなかから、どんな衣裳を選び出してきたのか、彼はその秘密をしまいになって、ようやく教えてくれるわけである。

最後の最後に、あたかも聴き手へのご褒美でもあるかのように・・・。

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