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2011年7月 5日 (火)

刑事コロンボの魅力 ピーター・フォークに捧ぐ

【吹き替え大国=日本におけるコロンボ】

今月のトピックスとして、米国の俳優、ピーター・フォークの訃報はファンを悲しませたことだろう。「ファン」といっても、日本におけるピーター・フォークは専ら『刑事コロンボ』の役者としてイメージされており、しかも、小池朝雄や石田太郎の吹き替えによって知られているばかりだ。私も自分が生まれる前に本編が終了したこのドラマを、2人の吹き替えによる民放の再放送で知った。

さすがに「ジャパニメーション」の国だけあって、日本の吹き替え文化というのは大したものである。名優の演技が、台詞まわしを越えているからというのもあるだろうが、徳川無声以来・・・というべきか、培ってきた日本人の映像と声に対する異常なまでにフェティッシュな興味は、ときにはオリジナルを越えるような面白さを提供してきた。『コロンボ』シリーズ然りであるし、英国BBCの『シャーロック・ホームズの冒険』や『ミス・マープル』のシリーズ、米国の青春恋愛ドラマ『ビバリーヒルズ青春白書』、コミカルなホームドラマ『フルハウス』、新しいところでは、マイケル・クライトン原作の医療ドラマ『ER-救急救命室』や、米国大統領の内幕を描いたドラマ『ザ・ホワイトハウス』などである。

日本の島国根性はしばしば批判されるところだが、そのおかげで生まれた吹き替え文化というのは、いま「文化」という言葉をつけてみたように、高いレヴェルで成熟した。声優もとても優秀で、日本のアニメを外国人が吹き替えしているのをみると、随分と差が大きいのがわかる。向こうのものは単なる言葉の置き換えにすぎないのに、わが国の吹き替えでは、元のもののクオリティをなるべく損なわぬようにするだけではなくて、そこに新しい価値が付け足されて吹き替えられている。

【刑事コロンボ】

さて、周知のことながら、まとめてみると、『刑事コロンボ』は1968-78年の間に最初のシリーズがNBCで放送され、1990年代に入り、今度はABCで新しいシリーズが放送された。イタリア系のロス市警殺人課の刑事が活躍する推理ドラマであるが、多くの作品では最初に殺人や仕掛けの様子が描かれるので、見ている側には犯人がわかっている状態で物語が進む。よって、推理の楽しさではなく、コロンボがいかにして犯人を追いつめていくかということのほうに、ドラマの見どころはあり、そして、しばしば、その動きに対応する犯人との心理的な駆け引きに醍醐味があるわけである。

【マイノリティとしてのコロンボ】

ここで注意しなければいけないのは、コロンボが富豪などが多く住むロス・アンジェルスといった大都市の警察に属することと、マイノリティのイタリア系であることだ。イタリア系アメリカ人といえば、例えば、作曲家のジャン=カルロ・メノッティなどがいるが、よりイメージが強いのは、やはり、映画『ゴッド・ファーザー』で描かれたようなマフィアの活躍である。イタリア系の移民はあまり富裕ではなく、イタリア人コミュニティをつくって、身を寄せ合いながら生きていたが、それもままならなくなると、コルレオーネ・ファミリーのようなマフィアに職業を斡旋してもらったりして、生きてきたわけである。『コロンボ』のシリーズでも、ある思惑から、マフィアが近づいてくるエピソードがあったのを記憶している。

そのような背景から考えると、コロンボは殺人課の刑事という重い身分ではあるが、このシリーズで犯人となるようなプレステージにある人たちからは、大抵、見くびられているわけである。それを反映するように、『コロンボ』以前は2枚目でもあったピーター・フォークも、一歩下がって3枚目を演じ、冴えないレインコートを着て、ガタピシいう年代もののクルマを走らせ、容疑者に対しても遜った態度をとる。しかし、犯人となれば、その立場は自ずとひっくり返るわけで、そこに物語のひとつの醍醐味があった。

【別れのワイン】

今回、フォーク氏の逝去に合わせて、NHKのBSプレミアムでは、最初のシリーズから4つのエピソードが放送されている。今夜は、「別れのワイン」である。このエピソードは、コロンボと同じイタリア系のワイナリーの経営者が犯人。自分たちの誇りともいえるワイナリーを売って、一儲けを考えている弟を殺害して、ワインに賭けた人生をコロンボと対決させる。最後は皮肉な罠に嵌り、自らの卓越した鼻と舌で、その犯罪を証明してしまうという筋書きであった。

コロンボは犯罪者を決して赦さない人物だが、このワイナリーの経営者には、それなりに敬意を払っている。それは自分と同じイタリア系の人たちが嘗めた辛酸を知っているからであり、それを知らない放蕩息子(兄弟)を殺害して誇りを守ろうとした経営者の想いに、一貫した人間性を感じたからであろう。それに応えるかのように、最後の場面では、犯人のおかげで得た知識を用いて、コロンボは相手に高級のデザートワインを勧める奇知をみせるのである。

【殺意のキャンバス】

先に述べたような事情で、『コロンボ』シリーズでは、コロンボと犯人の関係というのが、非常に重要になってくるし、面白い。犯人は多くは富豪や地位のある著名人であり、とても豊富な内面性をもっている。それだけにドラマの面白さも多様であり、同じ『コロンボ』をみるのでも、好きな作品とそうでないものは、人によって大きく異なるだろう。例えば、私の好きなエピソードに、新しいシリーズのほうのエピソードで『殺意のキャンバス』というのがある。

犯人はとても傲慢な画家で、自分のために女性を3人も抱えている。最初の妻で、いちどは別れたが、隣に引っ越して家庭的な面を支えてくれる女性。ビジネス上のパートナーで野心的な2人目の妻。そして、若くて健康的、セックスの魅力に溢れた3人目の女性。彼の創作のためには、これら3人の女性がどうしても必要だったという。どこかの作曲家にもこういうのがいたなあ・・・そう、ヤナーチェクもそのひとりである!

その画家、バーシーニはその名前からしてイタリア系だろう。バーシーニは自分とは別の男を選んで交際していた元妻を殺害するが、その動機には別の男に奔っていく女性への嫉妬心以外に、貧しい時代に犯した罪の記憶が発覚するかもしれないという不安感もあった。しかし、その女性を殺したがために、彼を取り巻く女性たちのバランスは崩れ、ついに、2人目の女性と3人目の女性は結託してバーシーニを捨てる決意をする。やはり、女性たちのこころはままならない。ボロボロになったバーシーニに、2つの悪事を暴くコロンボが駄目を押す。

しかし、コロンボとの友情のために、2人のやり取りのなかでバーシーニは一枚の絵を仕上げていた。それはコロンボとの会話で言っていたよりも、ずっと素敵な姿で書かれていたので、コロンボは感謝し、爽やかなフィナーレとなる。ピーター・フォークは自ら絵の個展を開くほどの腕前だったので、その面を投影した作品だといえるだろう。画家を演じたのは英国のスパイ映画『007』などにも出演、名脇役としてファンも多いというパトリック・ボーショーだった。

【策謀の結末】

もうひとつ好きなエピソードは、最初のシリーズの最終話となった『策謀の結末』である。犯人のジョー・デヴリンはアイルランド系移民の詩人。アイリッシュ・パブに通って、ピンボールやダーツ、それに即興詩などを好むユーモアに溢れた人物。ところが、裏の顔はIRAの活動を支援する活動家で、偽りの慈善活動によって得た資金で武器を手に入れ、アイルランドに送っているという人物だった。

その武器取引のもつれから裏切った武器商人を殺害し、アイリッシュ・ウィスキーの瓶に書かれた文句「人にはふさわしき贈り物を」・・・を突きつけるという過激な殺人方法だった。コロンボはこの瓶のもつメッセージに気づき、芋づる式に武器密輸の組織(合法的な民間インフラ構築会社が絡んでいた)の秘密を暴いていく。

アイルランド系も、コロンボのようなイタリア系と同じマイノリティだったが、1800年代中葉にかけて人数が増えた。イタリア系もアイルランド系もカトリックの信仰をもち、米国で多数派の保守的なプロテスタントとは異なっている(代を重ねるにつれてプロテスタントが多くなってはいるが)。例えば、ケネディ家の祖ともいえるJFKの父親、ジョセフがその典型である(知っているようで知らないケネディ家については、同じくBSプレミアムで始まった『ケネディ家の人々』が面白い)。

貧困層の多いイタリア系と比べると、アイルランド系は実業界で成功し、父ケネディもそうだが、ドラマのなかで密輸の隠れ蓑になっていたオコンネル財閥のように財を成した人物も多いようだ。また、米国への移民は後発だったため、初期には軍人や警官となる者も多かった。父ケネディや、JFK自身がハリウッドと関係深かったように、エンタメ業界もひとつの稼ぎどころであった。つまり、デブリンとコロンボは、なにかとクロスしあう部分が多いのである。

このエピソードの面白さは、そうした背景がコロンボとデヴリンの詩的なやりとりのなかに浮かんでくることにある。先のワイナリーの経営者と同じように、デヴリンも信念の人だ。自分と重なり合うところも大きく、その信念の一貫したところには、コロンボも敬意を払っている。デヴリンと遊ぶコロンボは、本当に楽しそうでもあった。しかし、もちろん、コロンボは悪事を赦さない。

先日、戦場カメラマンの渡部陽一氏がメイン・パーソナリティとなるTV番組で、オーストラリアのエコ・テロリストのリーダーと対話する場面があった。彼が日本の捕鯨船から銃撃されたとして共感を買い、多くの献金を集めたことに対して、渡部氏は、目的のためなら嘘をついてもいいのか・・・と問い質していた。コロンボが問題にしたのも、同じような部分だろう。デヴリンはしかし、戦争がそうさせるのだと嘯いてみせる。エコ・テロリストも、ブッシュ・ジュニアも、同じように主張している。ならば・・・というわけでもなかろうが、コロンボもゲームに乗り、最終的にはデヴリンの計画を寸でのところで潰してしまうのだ。まるでゲームに勝ったときのように、コロンボはウィスキーを傾ける。

「ここまで、ここをすぎず」

このエピソードの鍵となったキーワードを、コロンボは最後にもういちど口にする。そういって、デヴリンはウィスキーの瓶に指輪で疵をつけ、今夜はその線以上は飲まないと決めているのであった。「ここまで、ここをすぎず」。もちろん、このエピソードが最終話だったことにも関連するだろうし、最後、コロンボがそれを口にしたのは、自分がいる限り、密輸品に国境は越えさせないという意味も含めていたにちがいない。それをデヴリンのまえで言うのは、とても皮肉なことなのだ。それに気づいているのかどうかわからないが、デヴリンも、もはや怒りはしない。好敵手は、こうして向き合うのであった。

「人にはふさわしき贈り物を」

お中元のラヴェルに書いてありそうな文句だが、既述のように、アイリッシュ・ウィスキーについていた文句だ。これもブラッシュ・アップして、エピソードを象徴するテーマとなる。このエピソードは死体の脇に、この文句のついた瓶を蹴り転がして置き、その瓶にはデヴリンの指輪の跡がついているというのだから、もう署名つきで犯した殺人のような逸話なのだ。そういう公然たる殺人者との関係が、エピソードの性格を決めている。謎解きよりは、デヴリンとコロンボの心理戦が面白い一話である。「裏切り者には死を」当然のように与えたデヴリンに対して、「殺人者には刑罰を」とコロンボが返したのであるが、2人の間の詩的な言葉のやりとりは、コミカルなものも含めて、とても深くて味わいがあった。

【最後に】

さて、私も「コロンボの名優」ピーター・フォークにふさわしき贈り物はなにかと探してみた。私の場合は、やはり音楽だろう。パッと思ついたのは、これだった。

 ☆ロッシーニ アリア「私は町の何でも屋」~歌劇『セビリャの理髪師』

逝けるフォーク氏のために、冥福を祈りたい。

ちなみに、私は推理小説はあまり好きなほうではない。江戸川乱歩も横溝正史も、サー・アーサー・コナンドイルも、本で読んで面白いとは思わなかった。唯一、中井英夫の『虚無への供物』だけは凄い作品だが、それ以外は文学作品としては認めていないくらいのものである。しかし、テレビや映画が、それを何倍にも面白くしたのは事実である。ただ、『コロンボ』には原作がなく、はじめからテレビ・シリーズとして構想されたものらしい。刑事ものとテレビというのはとても相性がいいが、そのなかでも、時代を抉ったひとつの傑作として記憶したいと思う。

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