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2011年8月13日 (土)

エミリー・バイノン フルート・リサイタル プロコフィエフ&プーランク 8/11

【エミリー・バイノンについて】
オランダのアムステルダム・ロイヤルコンセルトヘボウ管のフルート首席奏者であるエミリー・バイノンは毎夏、鹿児島県の霧島国際音楽祭のために来日している。大震災からちょうど5ヶ月目となるこの日、バイノンは東京でリサイタルをおこなった。コンセルトヘボウ管の公演では何度も吹いているとしても、首都圏での単独リサイタルは初めてだと思ったのだが、姉妹デュオでいちどだけ吹いたことがあるという。しかし、限りなく初めてにちかい機会である。

バイノンは、ベルリン・フィルのエマニュエル・パユと並んで、オーケストラ所属のフルーティストでは突出して有名だ。25歳にして、この伝統あるオーケストラの首席奏者に就任し、はや15シーズンを超えるキャリアを築いた。前任者、かの高名なるジャック・ズーンにも負けない活躍で、いまやアムステルダムの顔となっている存在。ただし、ミーハーなファン層も多く、チケット争奪戦も大変なパユと比べれば、バイノンの支持者はやや地味である。バイノンはよく知られた親日家でもあり、既述のとおり、霧島の音楽祭に定期的に参加しているほか、HPには日本語のページもあって、和服姿まで披露しているという具合になっている。

今回は、プロコフィエフとプーランクのソナタを中心とした構成でプログラムを組んだ。

【歌ごころに溢れた肉厚なフォルム】
オーケストラで聴くバイノンのフルートは、豊潤といわれるRCOの響きのなかで、もっとも豊潤で、カラーに満ちた響きを出している。エミリーは英国のウェールズ生まれだが、つい先刻まで、てっきりフランス人と思い込んでいたぐらいである。しかし、数百席しかない東京オペラシティのリサイタルホールで聴いてみると、なるほど別の印象があった。いくつかポイントがあるが、最大の特徴は、ゆたかな歌ごころに溢れた肉厚なフォルムのつくり方である。例えば、響きのプレゼンスや、音の圧力ということに関していえば、パユよりも上を行くものではない。しかし、いま言ったような面でみれば、彼よりも味わいぶかい部分がある。

それは例えば、プロコフィエフのソナタにおいて、随所にバレエ音楽のようなイメージを浮かべ、そこを巧みな身体的表現でつなぎ合わせていくときの演奏によって、ハッキリと確認することができる。バイノンの表現は絶え間なく、シーソーのように動きが自然とつながっていくのである。しかしながら、実際の身体の動きは、パユなどと比べれば、ずっと控えめだ。

【バイノンの理知】
一方、バイノンの演奏を特徴づけるもうひとつの大事な要素は、理知的だということだろう。バイノンは心をこめて、響きに実を入れることをまず重視する演奏家である。その分、こころを伝えることの難しさがいかなるものかについても、同時につよく認識しているのだろう。商売でも「もてなしのこころ」などとはいうが、こころの伝達とは実際には、想いと技術のバランスによって実現するものだと思う。私は高齢者の生活の手助けをする仕事に就いているが、どんなに志高くやっていたとしても、下手をして、相手が転んでしまうようではどうしようもない。音楽でも、演奏家の想いを伝えるためには、それをうまく伝えるための技術が欠かせない。ひとつには、このバランスが音楽家の個性につながっていくのである。

エミリーの場合は、その技術の部分に対する冷徹なまでのこだわりが、演奏の節々に滲み出てくる感じになっている。それは大きくは、明瞭で紛れのない構造的な演奏設計に表れており、小さくは、細かなパッセージの几帳面な構築によって確認される。これが良いほうに出たのがプロコフィエフであり、やや問題となったのはプーランクやコルンゴルトである。もちろん、「問題」といっても、後者の曲目でのパフォーマンスになにか目立った不満があったというわけではない。あったとしても、全体のなかでは無視できる程度であった。だから、これは良し悪しの問題ではなく、特徴として見るべきだ。

【プーランクのなかのバッハ】
私の印象では、プーランクなりコルンゴルトといった作曲家はウィットの効いた作品を書く。そのウィットのつけ方も様々で味わいぶかいが、特にプーランクは、そのインディペンデントな音楽のユーモア性がヤナーチェクにも匹敵するような存在である。

ところが、バイノンの演奏には少なくとも、その種のウィットは感じられない。その代わり、とてもきっちりした構造のなかに、響きが鋭くまとまっていくという感じがするのである。いま、「きれいにまとまる」という代わりに、「鋭くまとまっていく」といったのが私の表現上の工夫だ。「きれいに」なだらかになるのではなく、プーランクの施した構造上の癖をくっきり織り込んで、整然と成形していくところに、バイノンの凄さがあるのである。これを具体的に述べる手もあるが、これは当面、割愛して、話を前に進めたい。

もうひとつ、エミリーの表現に特徴的なのは、プーランクのなかにあるバッハの要素を浮き彫りにしたということである。このことは実に、先に述べた要素と無関係ではない。ここでいう「バッハの要素」とは、ひとつには構造上のシャープな成形に秘密があるだろう。ただ、そればかりではないように思われる。私のイメージのなかにあるバッハ最大の特徴は、しばしば、このページで触れているように「無私」という要素にあるからだ。私が「バッハ」的というとき、大抵、それは「無私」の世界観がみえることを言っていると思ってほしい。そして、バイノンのプーランクに感じたのは、正しく、この「無私」の要素であった。

プロコフィエフはある意味、ドライに響くのは普通のことだ。そして、プーランクでは、もっと甘い音楽が聴けるものと私は期待していた。しかし、この関係はバイノンのなかでは、まったく転倒しているようだった。彼女にしてみれば、プロコフィエフこそはロマンティックな作曲家なのであり、それと比べれば、プーランクはずっと思い詰めたような、透明なエレガンスの持ち主というわけである。それかあらぬか、第2楽章のカンティレーナは確かに抒情的な部分をまったく排除しているわけではないが、私の聴くところ、相当にドライな印象になっていた。それにもかかわらず、表現は私たちのこころの奥深くに鋭く響いて、芯から詩情を振るわせるのである。これが正に、彼女の演奏の「バッハ的」たる所以であろう。

この傾向を踏まえて、第3楽章(終楽章)のスケルッツォ的な演奏についてみる必要があった。「必要があった」としたのは、正直、私がリアルタイムには、この演奏スタイルを十分に理解できなかったからである(満足しなかったのではなく、表現意図をはっきりイメージできなかったという意味)。バイノンはこの楽章の跳躍的な高音を思いきりつよく吹き、そこから、バラバラに砕け散ったクラスタをピアノと一緒に拾い集めながら、実に楽天的な演奏をおこなったからだ。ただ、先に述べたようなウィットを、ここで一気に取り返そうというような意図は全く感じられない。むしろ、バイノンはそのようなウィットだけでは拾いきれないような、乾いたユーモアとして、この作品を表現したかったにちがいないのである。

よっぽど、プログラムに載せられたエミリー自身によるライナー・ノーツによれば、このソナタの第3楽章は、愛人とホテルのスイートでちちくりあっているところを表した音楽だという説を引いている。剣呑である。

【プロコフィエフとプーランクの共通点】
その説はともかく、バイノンによれば、このように対照的なプロコフィエフとプーランクであるが、そのような二人に色濃く共通する要素もはっきりと見られた。それは、バレエ的な要素である。プロコフィエフはともかく、プーランクは佳品の『牡鹿』を除いて、バレエの分野で著名とは言い難い作曲家だが、なるほど、バレエ作品以外の作品は舞踊とは相性が良そうなものも少なくない。バイノンは特にその点を強調したくて選んだようなパフォーマンスはひとつも採っていないものの、作品の節々から、その秘密をさりげなく掘り出していった。

【まとめ】
以上、おもに触れた3曲のほかに、コープランドと、1920-30年代にウィーンに暮らしたというピアニストにして、作曲家のカール・フリューリングという作曲家の作品が演奏された。フリューリングは、サラサーテや、マーラーの義弟、アルノルト・ノゼらと共演した演奏家であったが、恐らくは、ユダヤ人にしてホモ・セクシャルという二重の宗教的禁忌のために、まったく世の中に作品が残らなかったということである。

全体的に、バイノンのパフォーマンスには感銘を受けた。パユなどと比べれも表現が多彩であり、抽斗も多いように思われる。また、その発想もゆたかで、かつ、ひたすらに直感的ではなく、それがよく知的に煮詰められているのもよい。また、今回、サポートについた鈴木華重子というピアニストも気が利いていた。彼女とエミリーは霧島でマスタークラスをもつなど、よく知った仲であるだけに、互いに息があっている。練木繁雄の弟子なのだが、響きはフランス的で色彩感がつよく、表現は柔らかい。ただし、表現には厳しさもあり、決してブレない重みも感じられる。大型のグランド・ピアノだが、コンパクトに使って表現が凝縮しているのも気を惹いた。

ただ、彼女が良いピアニストのように思えたのは、ひとつには、バイノンが彼女の音楽を最大限に尊重したせいもあろう。エミリーはその名声にもかかわらず、その表現はいたって謙虚である。譲るところは譲り、むしろ、相手の良さを引き出すためなら、何でもやるという感じだろう。そのおかげで得をするのは、やっぱり彼女のほうである。つまり、そうして長所を引き出した相手の響きは、直ちに自分の演奏を引き立てることにもなるからだ。音楽の素晴らしさだけではなく、人格的な素晴らしさが、その良さを合理的に引き出していることにも気づけた良い機会であったと評価する。

アンコールでは、多分、バイノン編によるスペシャリティ『浜辺の歌』が披露された。1番をほぼ原曲どおりに演奏し、2番以降ヴァリュエーション的に装飾的な演奏となるが、単なる技巧に奔らず、むしろ作品の内面に即したような情感を拾っているように聴こえるところが、エミリーらしいところだ。日本の抒情歌も、こうして聴くと西洋のものにまったく遅れをとらないのではなかろうか。なお、バイノンが知っていたかどうかは定かでないが、この歌は作曲した成田為三が学生時代、恋をした女性のために贈ったものだったという。悲しいかな、その女性にはほかに想うひとがいて、楽譜は送り返されたということだ。

人の恋路はままならない!

成田は1945年10月、終戦を秋田の郷里で見届けたあと、再び舞い戻った東京の地で亡くなっているという。享年は53だった。まだ、これからというときである。

【プログラム】 2011年8月11日
1、プロコフィエフ 5つの旋律 op.35a
2、プロコフィエフ フルートとピアノのためのソナタ op.94
3、コープランド フルートとピアノのための二重奏曲
4、フリューリング/バイノン フルートとピアノのためのファンタジー
5、プーランク フルートとピアノのためのソナタ

 fl:エミリー・バイノン

 pf:鈴木 華重子

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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