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« 三澤洋史がミラノへの短期留学報告を公表 ~三澤洋史はオペラを改革する! | トップページ | 大野和士 マーラー 交響曲第2番「復活」 サントリー音楽賞受賞記念コンサート 8/29 ② »

2011年8月30日 (火)

大野和士 マーラー 交響曲第2番「復活」 サントリー音楽賞受賞記念コンサート 8/29 ①

【何かをもっている大野和士】
民主党代表選で、野田佳彦氏が下馬評を覆して新代表に選出された。同じ日、松本でフェスティヴァルの指揮を執っていた小澤征爾氏は、肺炎に端を発する体調不良で再び入院となった。こんな日に、東京・サントリーホールで大野和士が指揮を振るとは、この人も確かに「何かをもっている」のだろう。さらに、私は今上天皇ほど尊敬しない人物だが、皇太子の臨席も仰いだというコンサートである。元来、天邪鬼な私は「何か持っている」人のことは誰かに任せておいて、もっと地味ながら、私たちを正しく導いてくれるような人のほうにシンパシーを感じるところがあるようだ。このコンサートを選んだのは一種の偶然の重なりによるのであって、私は録音や映像で接する大野のことは従来、そんなに高く評価しては来なかったのである。

彼が登場すると、その人気の高さはオーディエンスの拍手の熱心さから感じ取れた。そうはいっても、「何かもっている人」に、私は敢えて厳しい態度をとる。それに見合うだけのものを、圧倒的に示さなければ、私は彼の人気を危ういものに思うだろう。嫉妬ではない。その危うさとは、単に彼自身のためばかりにあるのではなく、彼としのぎを削り、真剣にその道を追い求める人たちのためにあるのであり、また、ひいては、私たち全体のためにあるものだ。私はその危うさを想うゆえに、慎重な態度をとるまでである。

さて、実際に聴いてみて、大野への不満がまったくなかったといえば嘘になる。彼は本質的には、イタリア・オペラのような情念の、個性的な音楽で、そのもっとも良い面を見せるだろう。一方、理詰めで、つよい響きをコツコツ育てていくような音楽・・・例えば、ワーグナーやブルックナーには向かない。あとで詳しく述べるが、彼は徹底した現場主義者である。ドイツの正統的な音楽では、そのようなスキルの高さは、かえって良さを損なうことがあるのだ。マーラーでは、どうだろうか?

【徹底した現場主義】
今回に関しては、素晴らしかった。大野はこの作品に、私たちの体験したあの未曾有の大災害への想いをのせて演奏したという。その気持ちがハッキリ伝わり、オケやコーラスだけではなく、会場全体をひとつにした。その一体感は、「この演奏会が、どうして仙台でおこなわれなかったのか?」と惜しまれるほどに凄まじいもので、演奏会はここに集った人たちによって語りぐさとなるであろうと思われる。コーラス指導の田中信昭氏をはじめとするお三方をはじめ、全スタッフが良いパフォーマンスを見せた。オーケストラ(東フィル)では特に、トロンボーンの抑えた音色が印象的だが、こちらもほとんどのパートで文句なく、水準以上のパフォーマンスが展開された。今年はサイトウキネンで出番のない東京オペラシンガーズの起用もポイントで、特にバリトン・パートの働きにはほれぼれした。

さて、大野和士の最大の特徴は、既に述べたように、徹底した現場主義だ。つまり、この指揮者は楽曲のもつフォルムをまず第一に考え、その伝統を厳しく守るというタイプの人ではない。そうしたものを踏まえながらも、目の前にあるリソースをいかに使いきるかということに、ほとんどの集中力が傾けられているからだ。大野の前では、どの奏者も同じように尊重され、その良い面を多く引き出してもらえる。例えば、コンマスの荒井英治。室内楽(モルゴーアQ)のときはともかく、彼がオケでの演奏で、あんなにリラックスして、響きを柔らかく伸びしている様子は初めてみた。最後の楽章のトロンボーンも、このオケにあんな柔らかい響きをもったトロンボニストがいたのかと驚くほどだった。

メゾ・ソプラノの坂本朱も、以前よりもアクの強さがとれて表現が爽やかになり、良い歌手に成長してきたと思っているが、この日は言葉をしっかり歌うというベルカントの極意が、このような曲目でうまく生かされるよう、大野に導いてもらったという感じである。既に僅かに述べたように、大野の声に対する感じ方は完全にベルカントに傾いている。そして、これも前述のように、大野はドイツ的な着実な積み上げよりは、直感的なイタリア・オペラの発想を優先させて、響きをつくっていく。そのような手法が、坂本の歌唱のなかにある誠実な歌い込みを柔らかく支える。

【マーラーにおける直感的発想】
ところで、いま、「直感的なイタリア・オペラの発想」ということを言ったが、それはどういうことを指すのだろうか。そのことについて考えるためには、第1楽章について論じるのがいちばんだ。アンチ・クライマックスの考え型が主流となる前の調性的な音楽において、ドイツ音楽ではそのクライマックスに至るまでに、とりわけ手厚い構造の基礎が綿密に組まれているのが普通である。バッハ以後、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナーといった流れのなかで、そのことは一貫した流れであろう。ところが、今回、大野の演奏を聴いて感じたことは、マーラーにおいては、それがしばしば見当たらないということである。

マーラーの場合、多分、そのような伝統的な構造のつくり方は嘲笑の対象でしかなかったのだ。彼は、無から有を生み出すことに賭けた。あるクライマックスから、遡って構造を追っていくとする。すると、昔はあったのに埋め立てられて跡形もなくなった東京の川のように、ふっと、その線が消えてしまうのである。当然、最初はそのことに気づかない。しかし、この構造は第1楽章のなかだけでも何度か繰り返されているので、私にも気づくことができたというわけだ。大野はこの消失(もともとなかったのだから、単に『無』というべきか)のなかに、マーラー独特の直感を見ているのである。

【マーラーにおける魔】
5月のチャリティ公演において、曲目こそちがうが、尾高忠明はこれとはまったく正反対のスタンスをとった。彼はマーラーのことを、ブルックナーと本質的には同じ美観をもった作曲家であると考え、整然とした構造美の徹底によって、ドイツ音楽の大成者・・・バッハ的な総括者として完璧に構築してみせた。そして、そのことによって、日本が再び整然と建て直される日を私たちにイメージさせて、聴き手をなんとか力づけようともした。一方、大野の描くマーラー象はより新しく、インディペンデントだ。その構造の頂点はいわば魔的な、怖ろしい様相をみせる。

一体、「魔」とは何であろうか。それは多分、現世とつながっていない、我々とはインターフェイスのない空間から、予期せぬ形で、ぬっと現れるものである。例えば、「お化け」には足がないという。私たちと大地を結ぶもの・・・それが足である。我々と彼らが共有するはずの大地についているべき足がないということで、お化けは私たちにとっては魔的なものと映る。その点、同じ化け物でも、河童はまだ私たちに愛情を抱かせるでもあろう。彼らは異様に力が強かったり、水が大好きだったり、そこに人を引き込んで危険な目に遭わせるとはいっても、私たちと同じように大地を踏みしめる足をもっている。その分、彼らは、私たちにとって予想がつきやすい存在なのである。

マーラーはまだ、クライマックスを否定していない。しかしながら、そのクライマックスはあるとき、突然に現れるのであって、確固とした構造の盛り上げは一瞬で、あっという間に構築される。ブルックナーのような、シンメトリカルな可視的構造ではないのだ。そして、いざ来るとなれば、それは執拗にやってくる。これが正に、私たちの予想だにしなかった巨大地震と、それにつづいて断続的にやってきた大津波の連鎖にぴったり重なるのはいうまでもない。私たちは以前なら、あるいは「カッコいい」と思っていたマーラーのつくる鋭い響きの構造のなかに、ゾッとするものを見つけるような体験をしてきたのである。

第1楽章の中盤、スタッカート的な鋭いフレーズが動機を刻み、悲劇的なクライマックスがつくられる部分は、この日の演奏のなかでも、特に印象に残る部分だ。同じオーケストラを2006年にハーディング振ったときは、この部分で、彼独特のキレのよいアーティキュレーションでフォルムを鋭角に抉り、聴く者をスッキリ爽快な気持ちにさせたものだ。ところが、大野はテンポを厳しくキープ。しかし、インテンポで流れを切らず、有無を言わさぬ前進力で響きの切れたあとの余韻までつんざいてみせたのである。次の木管の響きは、その分、とても心細く・・・しかし、それだけに力強くも聴こえてきた。被災地の人たちが確かに気の毒ではあれ、私たちよりも、ずっと図太く、堂々と生きているように思われるようにだ!

【ひとつの欠点】
ただし、これはオケの側の問題でもあるのだろうが、その再頂部における響きの割れは如何ともしがたいものがある。断じて言うのだが、これはオケだけの問題ではない。大野和士という指揮者が真の意味で偉大な存在たり得るかどうかは、この問題をどう克服するかによって決まってくるにちがいない。大野がドイツ音楽には向いていないといったのは、このような問題があるせいだ。『マイスタージンガー』でこういうことが起こったとしたら、私は間違っても、大野和士が良い指揮者だなどとは言わないであろう。

 (②につづく)

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コメント

大野さんの復活を聴く。クライマックスに向けエネルギーをため込んで一気に爆発させるパターンも、堅固な構造の上に積み重ねていくパターンも好きだが、大野さんは、どちらでもなかった。こちらが身構えようとすると、それより早くテンポを上げ、あっと言う間にクライマックスを通り過ぎるため、1,3楽章ではストレスがたまってしまった。
4楽章、アルトに救われ、5楽章は合唱と金管がよかったが、お客の大歓声に蚊帳の外の気分を味わった。
しかし、アリスさんの文を読んで、私の感想と通じるところがあるかは分からないが、大野さんの復活にかけた思いが伝わってきた。ありがとう。

チェロッチさん、嬉しいお言葉を頂きました。私の言葉が正しいとは限らないですが、私の理想はその方の表現の中心を捉え、音楽家が何をやりたかったのかを考え、理解すること。そして、それをできるだけうまく表現することです。チェロッチさんのお言葉は曲がりなりにも、そのことが成功したという証拠ですし、力づけられます。ありがとうございました。

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