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2011年8月 4日 (木)

痛快! ヴロンスキーのマーラー「悲劇的」 (Arco Diva)

ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)に、新たに Arco Diva というレーベルが仲間入りした。これはどうやらチェコの音楽マネジメント会社のようで、CDパヴリッシャー事業も柱のひとつである。さて、このレーベルから掲載された録音のひとつに、ペーテル・ヴロンスキー(あるいは、ペートル・ヴロンスキー)という指揮者が、モラヴィア・フィルを振ったマーラーの交響曲第6番「悲劇的」の録音があるが、これを今回、取り上げることにしたいと思う。

【マーラー愛好家には推薦しない】

だが、この録音はマーラーを特に愛好しているようなファンには、間違っても勧めてはいけないものだろう。とはいえ、それはこの録音がいわゆるイロモノであるからではなくて、そのような人たちが思い浮かべるであろうマーラーのイメージからすれば、はるかに楽天的で、柔和な表情を持っているからである。この録音はプラハ、ブルノ(ブリュン)といった都市よりも田舎の、オロモウツという小都市にあるオーケストラのものだ。プラハなどと比べれば、もっと土俗的なサウンドを好むと思われる地方のカラーが、この場合、良い方向に作用している。そして、マーラーの生地、イフラヴァは、むしろ、こちらにちかいというわけでもある。実際、この録音はそのイフラヴァのマーラー音楽祭で演奏されたものである。

マーラーの演奏スタイルには、ウィーン風の揺動や形式の自由さに基づいた大胆なスタイルのものから、ドイツ本流的な彫りのふかい、構造的にがっしりしたものまで幅広いものが試みられている。そして、どちらかといえば、後者のものがドイツの交響曲の歴史に連なろうとしたマーラーの考えにより近しく、彼の実人生の深みに寄り添ったもののようにも思われるのか、特に広く支持されているように思われる。ところが、このヴロンスキーの録音はもっと開放的で、少なくとも音楽的には、「もっと土俗的な明るさをもっていたマーラー」という新しいイメージを提供する。これは例えば、クーベリックの録音にしか見られないような、独特のスタイルであるように思われるのだ。

恐らく、多くのマーラー・ファンはこのような録音を、マーラー演奏としては軽すぎるものとして排除するであろう。そんなことは目に見えているから、私は、マーラーの音楽が好きで堪らない人ではなくて、むしろ、これまではマーラーをあまり積極的には評価できなかった人たち、もしくは、その音楽により多様な解釈を求めてきた人たちだけに紹介したいと思っている。もうすこし踏み込んでいえば、未来永劫、自分の想像どおりのマーラー的権威を守りたい人たちのためではなく、その拡張のなかでこそ、はじめて正しいマーラー像が得られるのではないか・・・という探究心に満ちた人たちのためだけに、私はこの記事を書くのである。

 

【ヴロンスキーは今年、来日していた】

さて、録音を耳にしたときには忘れていたことだが、このヴロンスキーは今年5月に来日して、読売日本交響楽団を指揮している。彼は原発問題を理由に来日を拒否したズデニェク・マーツァルの代役として、ドヴォルザークの交響曲第8番や、マーラーの交響曲第5番などを指揮した。ネット上をサーフィンしてみた限りでは、好評(それもかなり度のつよい)のほうが優勢となっているので、実際、耳にされた方にはご支持を賜れるのかもしれない。

 

【演奏の特徴】

とにかく、序盤から響きが明るく、テンポ感が軽快で、リンクのハイティンクの録音などと比べると、同じ曲とは思えないほどである。これが上にいうドイツ的な典型的な演奏だとすれば、ウィーン的な演奏の典型としては、こちらのリンクにあるテンシュテットのものを挙げることにしたい。冒頭から、神々しいまでに洗練されているサウンドの、大胆なバランスによって作品のリアリティを限界まで引き出しているテンシュテットと比べると、いささか分が悪いとはいえ、それでも随所に面白さはある。

まず、テンポ設定はきわめて速い。ハイティンクが92分、テンシュテットが83分かけているのに対して、ヴロンスキーは僅か76分で、この作品を演奏している。最初の楽章の提示部繰り返しの問題もあるが、その速さは時折、確かに急ぎすぎている感じがしないでもないし、特に動的な第1楽章では、あまりに忙しない部分もあるようだ。私も、これら全部をよしとしているわけではない。ただ、例えば、マーラー演奏に対する一権威とみられているクーベリックにしても、実は、これぐらいの時間で演奏している。第1楽章に関しては、ヴロンスキーよりも速いぐらいだ。一部におけるフレージングの甘さを見なおし、より一段、レヴェルの高いオーケストラに変われば、ヴロンスキーの構想はより的確に嵌ってくるだろう。

細部における多少の粗さは見られるものの、ヴロンスキーの録音はクーベリック盤に対して、よく似た特徴を示している。既述のように、パーツごとに見ていけば、余裕残しの部分も少なくない。しかし、本当に大事なのは、そういうイメージが集積していったときに、どういうものが残るかということなのだ。その点で、ヴロンスキーは、クーベリックのドライな風刺性を受け継ぐものである。その風刺性は徐々に、凝集していく。私は何度も、こんな録音に価値はないのではないかと自問した。それなのに、録音を止める手が寸でのところで動かないのである。そうして迷っているうちに、イメージが次第にシャープになっていくのを感じた。

 

【ワーグナーの亡霊】

ヴロンスキーの録音の最大の長所は、単に響きが明るく、土俗的な感じがして温かいという点にあるとしても、素材がシャープに、軽妙につながっていくという構造的妙味を引き出していることは、さらに顕著な特徴として指摘できる。第1楽章でも、それは最後のコーダで爆発する。あらゆる素材は力強く揺動し、初めてルバートがつよくうねる印象が前面に飛び出したとき、それと同時に響きの凝縮は頂点に達するからである。最後のルバートによる深いためでは、分厚い和声の強調によって、ワーグナーの亡霊が出現する。これは、作品がワーグナーの歿後20年の祈念の年に書かれたことを想起させるものではなかろうか。

そして、モラヴィア地方では、伝統的な葬儀の際には、我々が普通、想像するような暗鬱な音楽が演奏されるのではなく、もっと明るい、ポルカやフリアントといった音楽によって、死者の霊魂を慰めることになっていたそうである。ハイティンクのように、ずっと重苦しい録音では、このようなワーグナーの亡霊の出現はあり得ないわけで、モラヴィアの葬儀の様子とも食いちがいが出てくる。マーラーの意図がどのようなものであったのか、はっきりとはわからないというなかでは、どちらが絶対的に正しいとは言えないのだが、ヴロンスキーの解釈も決して的外れではないことがわかるだろう。

これに象徴されるように、ヴロンスキーの録音を聴く場合、私たちは新しいイメージを受け容れる覚悟で臨む必要がある。特に、アルマ・マーラーの回想録を出所とする、著名な断片的な知識は、真っ先に追い払っておくべきだ。そして、「悲劇的」の意味は、特にワーグナーの20年忌に際して書かれたということに注目して、解釈するのがわかりやすい。マーラーにとっての悲劇とは正に、この巨匠を20代前半で、喪ったときのことだったのかもしれない。当時、どちらかといえば指揮者として頭角を現しつつあった23歳のマーラーは、ワーグナーの屍体とともに、はや20も年をとった。その間に、彼の名声は大きく高まったかもしれないが、それでも、彼は未だに、「さまよえるオランダ人」と同じ心もちだったにちがいない。「期限は過ぎた」のだ!

 

【中間楽章の風刺性】

中間2楽章は最新のマーラー研究に基づけば、マーラーが最終稿として定めたという蓋然性が高いとされるアンダンテ・モデラート→スケルッツォの演奏順になっているが、この録音にとって、第2楽章が緩徐楽章であることはごく自然なことである。ヴロンスキーはその生気のないサウンドの影のような響きを、粘りづよく演奏させている。そこには、演奏をよく見せようとするような欲情は一切感じられず、マーラーのこころに寄り添うような一種の優しさしか見て取ることはできないだろう。この楽章の哀しみの頂点でも、しかし、ヴロンスキーは徐々に響きを明るく押し上げて、上向させる。特に、この楽章の終わりで、おもむろに木管楽器が響きの中心に上がってくるときの、柔らかい切り替えには驚かされる。

第3楽章は、型どおりのスケルッツォとして演奏しているのが、かえって風刺的になっているようである。つまり、マーラーはここで古典的な形式を皮肉るようにして、ワーグナーの悲劇を重ねてみようとしたのである。サウンドの明るさは、この風刺性をつよく尖鋭にする。そして、トリオのおどけたようなサウンドは、アルマの言うように、彼女たちの2人の子どもを描いているわけではなく、むしろ、マーラー自身、もしくは古典性の幼稚さをいささか自虐的に描いているのであろう。そして、結局は、そのような自虐的な視点は、ワーグナーの巨大さへと結びついていくのである。その大きさのまえでは、マーラーをはじめ、どんな音楽も、巨人からみた豆粒ほどの小人のようなものでしかないであろう。

 

おわりのほうで、それらの豆粒は木管楽器のつくる風によって、見事に吹き飛ばされてしまうのがわかる。

 

【終楽章にみるマーラーの哲学】

そして、終楽章である。この楽章を聴けば、ヴロンスキーがマーラーの哲学として感じているものがハッキリわかるはずだ。無論、ここではハンマーによる「運命の一撃」など問題にならないほど、風刺は強まっているのである。

 

序盤は、ワーグナーのライトモティーフの亡霊たちが、サバトに集まってくるようなイメージで聴けるだろう。ここでもヴロンスキーは、決して自分たちの演奏がうまく聴こえることなど望んではいないのだ。響きはマーラーの構想どおりに、次第にうねり、ひん曲がり、あさっての方向に反れていく。しかも、ベースの響きはあくまで明るく、道化の表情を保っている。これで、30分あまりも続くのだから凄い。これに対し、展開部のところで、カウベルの響きに乗って天からのレスキューがやってくるところから、サウンドはより劇的になる。そうなのだ。これがやりたいがために、マーラーはすべてを組み立てたのにちがいない!

 

そして、ヴロンスキーのつくる音色も、この部分において、いよいよ活力漲ったものとなってきた。ところが、風刺的な対位法的構造を手堅く示すなど、細部への配慮も十分に残している。決して、勢いだけで通り過ぎるような演奏にはなっていない。ハンマーの音はわりに明瞭だが、とれたてて刺激的ということはなく、全体の上向的なサウンドが中間のクライマックスに向けて、勢いよく膨らんでいくときの風景になっている。

 

この第4楽章は、ほとんど教科書をみるようにフォルムが明快だ。ただし、教科書的というわけではなく、すべての要素が最大限に生かしつくされているというべきだろう。そして、その分・・・というべきか、音楽は少しも「悲劇的」ではない。それなのに、私たちは晦渋な表情になってしまうのだ。再現部以降、特にマーラー・ファンの好みそうな重苦しいサウンドと比較してみるとよい。ヴロンスキーは対極的に、素朴に歌っている。そして、その素朴さこそが、マーラーの仕込んだ風刺には相応しいのではなかろうか。

それは最後の最後で、ようやく真剣さと入れ替わる。ここで私たちは再び、喪ったものの大きさに気づくというわけである。それは、ほんの一瞬のこと。だが、それだけに、「悲劇的」なのである。しかも、ヴロンスキーの録音ではその切り替えがこころなし遅く、悲劇が遠くにあるため、特に短い一瞬となる。その刹那のなかに、マーラーはいろいろなメッセージを詰め込んだということがわかりやすい録音である。

 

発売は1年ほど前、2009年の音楽祭でのライヴ録音であり、終演後のアプローズまでが収録されているが、途中の会場ノイズはきれいに除かれている。こういうオケが来るのなら、聴いてみたいとも思うのに!

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