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2011年8月 5日 (金)

ローズ・ボッシュ監督 映画 ”La Rafle” 黄色い星の子どもたち

【ドキュメンタリー=ドラマ=ハイブリッド映画】
トレイラーが素晴らしかったので、見てきた映画である。とはいえ、世の中にはトレイラーのほうが本編よりよほど面白い映画というのもあるわけで、油断はできないものだが、この作品は幸い、そうではなかったと言えそうである。ただし、私はもうすこしドラマの凝縮した作品を想像していたのだが、元ジャーナリストの映画監督という素性がハッキリと表れ、ドキュメンタリー+ドラマというハイブリッドな映画になっている。ヒット作『英国王のスピーチ』をはじめとして、このようなハイブリッド映画は近年、大流行りであるが、そのなかではメッセージも凝縮しているし、人間的な関係が豊富に描かれていて、レヴェルは高いほうに入れてよいだろう。ただ、私たちが例えば、アンゲロプロスやトルナトーレの映画に感じるような意味では、徹底的に映画になりきっているとは言えない。相当に説明的である。しかし、そのような作品のなかにも良いものはあるだろう。

【ヴィシー政権を描く本作品】
まず、舞台が面白い。それはフランス人にとっては、恥の上塗りのような時代である。ヴィシー政権といっても、歴史にあまり興味のない人にはわからぬ可能性もある。余計なことだが、若干、説明を入れる。第2次大戦において、フランスはかなりの余裕残しで敗れた。他の戦線を厚くして守っていたところ、思わぬところからドイツ軍の機甲師団に風穴をあけられて、空っぽの首都・パリが陥落。国家の存続が、ならなくなったのだ。パルチザン闘争で徹底的に抵抗する手もあったが、結局、領土の半ばをドイツに割譲。傀儡政権として誕生したヴィシー政権が、残りの領土を治めることでフランスは抵抗を止めた。ヴィシー・フランスは、ドイツにとって手なずけやすい犬であったのだ。映画にも登場するかつての英雄、ペタン元帥がこの政権の名目上の元首であり、ラヴァルらが首相として実務を執ったが、次第にドイツ化が進み、連合軍とド・ゴール派によって1944年8月にフランスが解放されるまで、体制はつづいた。

1942年7月16日、パリで一斉検挙され、のちにポーランドに送られて絶滅の憂き目にあうユダヤ人たちの物語が、この映画である。この事実に対し、戦後のフランス政府はヴィシー政権のやったこととして、近年まで責任を認めてこなかったという。邦題は”La Rafle”で、日本語では『略奪(一斉検挙)』となる。邦題は『黄色い星の子どもたち』で、いずれもタイトルとしてはパッとしない。しかし、主要役のひとりに『レオン』以来、日本でも人気があるジャン・レノがおり、わりに話題性のある映画となっている。

【今日に直結する素材】
ただ、あとで触れるように、ジャン・レノはエンド・ロールでもさすがに最初にクレジットされているものの、彼の演じるユダヤ人医師、ダヴィド・シェインバウムは主役とまでは言えない役柄だ。では、主役は誰だろうか。看護婦のアネット・モノーを演じるメラニー・ロランが彼と並ぶ2枚看板だが、彼女は最初の10数分は出てこないのである。それでは、映画にたくさん登場する魅力的な子どもたちこそが、真の主役であるのか。この悲劇の生き残り、ジョセフ・ヴァイスマン=「ジョー」を演じるユーゴ・ル・ヴェルデもよいけれど、それもまた品のよい解釈とは言えないだろう。本業はコメディアンという、父親役のガド・エルマレはどうか。彼も魅力的だが、『ライフ・イズ・ビューティフル』のロベルト・ベニーニの焼き直しになってしまいそうだ。

結局、この映画の主役は特定の個人ではなく、人々の関係だといえる。そこには当時のフランスが抱えた問題や過ちがある一方で、随所に感じられる昔風の絆の深さや、押しつけがましくない良心の素晴らしさといったものも描かれている。その象徴がダヴィドであり、アネットであろう。そして、彼女たちの良心を授かるものこそ、ジョーをはじめとする子どもたちなのであった。

映画は、もうどうすることもできない遠い過去の事件を扱っている。しかし、それにもかかわらず、私たちに直結するものを感じる。特にあの大震災を経験した私たちにとって、この映画をみる意義は大きい。ローズ・ボッシュ監督はもちろん、何十年も前に起こってしまった出来事を変えようとは思わないだろうが、このような暴力的で、力ずくの出来事のなかでさえ、ひとりひとりの個人の行動がいかに大きな意味をもっていたのかを問おうとしたのにちがいない。

【人々の選択が歴史を変える】
この映画のひとつの肝は、この悲劇がナチス・ドイツによって、直接、おこなわれたのではないことだ。その圧力の下に、ヴィシー・フランスの幹部が決断し、ヴィシー・フランスの警察や民兵を動員して「検挙」がおこなわれた。ドイツの飼い犬になったとはいえ、フランス人が自身でやったことなのだ。それゆえ、映画の最後に補足されているように、計画で拘束予定のユダヤ人のうち、1万人以上は何らかの手段で難を逃れてもいる。彼らを捕えたのもフランス人なら、逃がしたのもフランス人だったのだ。善悪二元論ではない。「一億総懺悔」を促すわけでもないのだ。映画のなかにも、ユダヤ人を何とか逃がそうと頑張るフランス人のオバサン(アパルトマンの管理人)の姿や、ユダヤ人の子どもを匿ってくれた老夫婦、赤ん坊を抱えた若いユダヤ娘を救う街の娼婦たちの姿が描かれていた。

そもそもヴィシー・フランスでは、これはこうあるべきという価値観が存在しなかった。例えば、ユダヤ人に対しても、伝統的な宗教観などからドイツに同調してユダヤ人迫害を是とする者もあれば、そんなことよりも、境遇の同じ貧しき民として同情し、仲間意識をもつ者たちもいた。ユダヤ人といっても、「検挙」の犠牲になった人たちは外国での迫害から逃れてフランスにやってきた人たちであり、映画で主に描かれていた一家もポーランドからの移民という設定になっている。彼らは社会のいちばん下の階層にあり、肩を寄せ合って生ていかなければ、ささやかな生活もままならなかった。それゆえに、切っても切れない絆があるのだ。この映画の描いたものは、そのような絆のもつ強さである。

フランス人どうしでも、例えば政治的には、親独的なヴィシー派と、抵抗を旨とするド・ゴール派ではちがっていた。宗教的にも、フランスは総じてカトリックの国であるが、アネットはプロテスタントであるという。グラデーションは、広い。ボッシュ監督はこうしたグラデーションを丁寧に描いていって、当然のように、為政者たちまで描いているのだ。

ヒトラーをはじめ、ヒムラーのようなナチス幹部や、ヒトラーの愛人=エヴァ・ブラウン。ヴィシー政権からはペタンやラヴァル、その秘書官。ドイツやアメリカの外交官。彼らの挿入は映画にとっては好悪わかれる判断だが、ちょうど今日のロシアのテレビ放送で、メドベージェフやプーチンが外国の特使などを引見するのをニュースで伝えるときのような雰囲気で、撮られている。ヒトラー陣営はそれよりはややヒューマンに、文学的な描かれ方をしているが、これはドイツ側の視点を過剰に悪魔的に描かないための配慮になっている。むしろ、ヴィシー・フランス政府の決断が、悪魔的に描かれているのは明らかである。子どもたちだけは助けるように求める米国特使との会見のあと、彼らが「人道的に子どもたちを親もとに送り届ける」と決議する場面があるが、そのとき、既に親たちは天国に召されているわけであるから。この映画においては、ヒトラーよりも、彼らの倫理観が問題にされているのは自明であろう。

そして、看護婦のアネットは気丈にも、ドイツ風にいうなら「ゲットー」の管理者である軍人が任務に疲れ、溜め息ついているのを見るや、命令を拒否して辞職しろと迫る。監督にとっては、これこそがもっとも言いたいことなのであろう。だが、ド・ゴール派のリアリスト、レジスタンスにも出入りしていそうなフランス人医師が言うように、「遅すぎた」「もうできることはない」というのが、多くのフランス人の立場だったのにちがいない。しかし、アネットはそれを振り払って、子どもたちを追おうとするのだ。確かに、遅すぎたのだろう。自転車を飛ばして駆け出した彼女も、列車には間に合わないのだから。だが、本当にそうだったのか。監督は最後に、フランスの良心がどのような結果を導いたかを検証するために、解放後の場面を描いた。

【償いきれない罪】
アネットは自分の無力さにショックを受けているが、2人の子どもと再会する。ひとりは自ら逃げて、生きる道を切り開いたジョー。そして、もうひとりは、まったく無力にみえた天使のような子、ノエ・ジグレール=ノノである。ただ、ここにもグラデーションがあった。学校でもいちばんの秀才だったジョーはつよく、逞しく成長したかのように見える。しかし、収容所ではまったく無邪気に、愛想を振りまいていたノノは、もう昔の彼ではなくなっていた。アネットに再会しても、彼女だとわかっているのかさえ定かではない。ノノを助けること自体にもプロット的な激しい議論はあるだろうが、より大事なのは、あのノノと同じレヴェルで物事を考えることだ。そのとき、もはや私たちは、アネットのようにすべてを忘れて抱きしめるぐらいしかできることはない。彼はきっと、幸福に育つことはないだろう。その罪を、我々は背負っていくしかないのである。

嗚呼、地震や津波のせいで亡くなった人たちは、もう戻ってこない。原発のことで、いのちは失わずとも、郷里を失った人たちのことを、私たちはどうすることもできない。私たちはアネットのように、自分たちの無力に涙するだけだ。しかし、ここからが肝心なところなのだ。私たちは、私たちのちっぽけな判断が、どれだけ深刻な罪となるのかを知ることになった。例えば、私たちが要らざる心配を強め、誰もが必要なものモノを独り占めようとしたときに、何が起こったか。忘れてはならない。際限ない電力需要と闘うために、福島や、あちこちの土地を犠牲にしなければならない実態を知った。私たちはいま、何をしなければならないのか。ヴィシー・フランスのときと比べれば、はるかに容易い判断があるように思われる。

【あり得ない悲劇】
やっぱり、この映画を語るためには、映画を語るようには語れないものだ。しかし、次の場面は本当に映画的な意味で面白いシーンだった。それはボーヌの収容所で、まず子どもを連れた女性たちと、男性たちが分けられ、次に、子どもたちと母親たちが引き離される場面である。何の罪もない母親から子どもたちを引き離す、人道上、あってはならぬような悲劇に対して、当然、男たちは目をむいて怒り、暴れる。しかし、機関銃の連射によって、男たちはハッとする。効果ありとみて、兵士はそれを繰り返す。ついに、完全に騒ぎは収まる。こんな冷徹なシーンは、未だかつて見たことがない。男たちのなかには、あのジャン・レノもいるが、この悲劇のまえでは彼の存在も霞む。

このような映画に、ジャン・レノが出演するというのも驚きだ。あのコワモテのなかに、無限の優しさを包み込んでいるジャン・レノの魅力は、既に、出世作の『レオン』で完全に引き出されたように見えた。今回の医師役はなにもジャン・レノほどの役者でなくとも、務まるであろう。つまり、医業に対する倫理感は高くとも、所詮は普通の人なのだ。しかし、ここにジャン・レノを置くことができたおかげで、このハイブリッド映画のなかにあるドラマ性は相当に引き上げられたであろう。彼が画面に登場するだけで、なにか映画の表情は和らいでみえる。そこに、メラニー・ロランや子どもたちの表情が包み込まれていく。この映画でジャン・レノは役柄を飛び越えて、ひとつの潤滑剤のようになっている。ジャン・レノは新人に戻ったように、この医師役を演じたと思われる。功成り名遂げたあとに、こうしたことのできる役者は、決して多いわけではないだろう。

母親たちには見せたいようでいて、反面、見せたくない感じもする。特に上に述べたような場面は、彼女たちにとっては過酷すぎるほど過酷である。親たちと引き離されたあと、本当なら、互いにこころの支えとなるはずの相手を失った子どもたちの、憔悴しきった姿も思い出したくない。グリーグの「オーゼの死」の音楽に乗って、子どもたちが列車に詰め込まれるシーンも辛かった。

【貧民たちの絆】
しかし、私たちはこの映画をみていて、なんとなく元気づけられるところもある。とにかく、この映画には絆が溢れているからだ。親子や夫婦、友人の間のそればかりではない。悲劇的な「検挙」の日、みんなは助けあっていた。こういうときに、我が子を託せるような相手もいた。我がことのように、彼らを助けようとする人たち。命令を受けた先から、電話で危険を知らせる役所の職員。それをみなに伝えてまわる巡査。彼らの誰一人、危険も省みない。今日では、彼らは門扉すら開いてくれまいと思う。貧乏だが、それだけに絆が深いのである。

米国のTVドラマ”West Wing”(邦題ザ・ホワイトハウス)のなかで、大統領の首席補佐官でベテラン議員のレオ・マクギャリーは、民主・共和両党で重大事案について話し合うべきだと理想を語る部下に向かって、次のような昔話をする。昔、ある新人の民主党の若手議員が張りきって、ベテラン議員に対して、「敵」(=共和党)との闘い方について質問した。するとベテラン議員は若造の意に反し、敵は共和党ではない、上院だと答えたというのだ。「そんな時期もあった」といって、レオは懐かしそうに回想する。ヴィシー・フランスでも、彼らがユダヤ人かキリスト教かという以上に、この異常な政治的屈辱のなかで、それでも生きていかねばならない庶民の間に、厚い連帯意識が芽生えていたにちがいない。彼らは助けあい、互いの立場に共感しあっていたのである。

【まとめ】
映画は、ドビュッシーの「月の光」(ピアノとチェロによるヴァージョン)で閉じられる。まず、ピアノの弾く美しいメロディーが戦後の解放を象徴し、徐々にチェロの肉厚な響きが加わって、再会の感動を肉づけする。それは嬉しいようで、そこはかとなく寂しい。音楽はエンド・ロールに食い込み、その後、もう1曲、フォーレかなにかの作品がかかって、ロールも終わる。「オーゼの死」から「月の光」への切り替えには驚いた。これに象徴されるように、そのほかのシャンソンなども含めて、音楽的にも気の利いた作品であるのは嬉しい誤算だ。

音楽は基本的に、有名なものばかりを使用している。結局、こういうところで背伸びして、見せかけの芸術性を高めようとしない点にも好感が持てる。映像もそれなりに凝っており、丁寧に処理されていて美しい。プロットは涙もので、人々の関係も面白い。子どもたちを含め、役者も揃っている。いくつかの批判点はあるにしても、ドキュメンタリー=ドラマ=ハイブリッド映画の傑作として紹介できる作品だろう。

★私の選ぶこの映画にふさわしい音楽★
   Tu! Tu! Tu! Piccolo iddio! (私のかわいい坊や)
   ~プッチーニ 歌劇『蝶々夫人』

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