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2011年8月 8日 (月)

小森輝彦&服部容子 デュオ・リサイタル2011 ヴォルフ メーリケ詩集 ほか 8/6

【ドイツ宮廷歌手:小森輝彦】
毎夏、バリトンの小森輝彦とピアノの服部容子によるデュオ・リサイタルは、楽しみなイベントであった。1年ごとにれヴューを書いてきたが、それでもまだ、書くことに困らないほど、彼らは日々精進し、年ごとに新しいものを付け加えていく。小森のほか、クァルテット・エクセルシオ、下野竜也(指揮者)など、私の注目する音楽家はひとつところに留まることを良しとせず、日ごとに自分を変えていくことのできる努力の人ばかりだ。私は彼らの成長にいささかの貢献もしたものではないが、それでも、彼らがその努力に応じてポジションを高めていくのをみると喜ばしいものだ。

さほど注目されていないように思うが、本年4月、小森輝彦もドイツの「宮廷歌手」の称号を授けられた。本人談によると、英国では、’sir’の称号に当たるというこの栄誉を受ける日本人は、なんと小森が初めてだという。ほかにどういう人が「宮廷歌手」の称号を受けているかといえば、例えば、フランシスコ・アライサ、テオ・アダム、ヘルマン・プライ、ペーター・シュライヤー、ジュゼッペ・サッバティーニ(ウィーン国立歌劇場)など、錚々たる名前が並ぶ。

だからといって、小森がこれらのビッグ・ネームと同じところに到達し、古今東西、日本の歌手でいちばんになった・・・というのはあまりに早計だが、2000年から、アルテンブルク・ゲラ市立劇場(テューリンゲン州立歌劇場)の専属第1バリトン歌手として一線を張り、名実ともに評価されてきた成果としては輝かしい成功である。過去の日本にも藤原義章、山路芳久がごとき伝説的な名歌手も存在したし、藤村実穂子や中村恵理のように、現に欧州の主要劇場で当たり前のように主役級をうたう歌手がいるなかでは、まだまだ十分な話題性を得にくいところもある。しかし、体格的な不利などを克服し、ドイツにながく腰を据え、トップを張りつづけることを現実のこととして志し、実際に、その志を形にしてきたような人はあまりいなかったのも事実なわけで、そのような意味でも、小森の快挙には素直に称賛を与えるべきであろう。

【立ち止まらない小森】
そして、なにより大事なことは、2000年に専属歌手として劇場に入ってから、小森が一歩も立ち止まることなく、自分を強く育ててきたということの重みである。私が彼の歌をはじめて聴いたのは、2004年の東京室内歌劇場の公演。若杉弘が指揮を執って、リヒャルト・シュトラウス『インテルメッツォ』が上演されたときのことだ。この公演に私は大きな感銘を受けて、2度も足を運んだほどであるが、いちばん記憶に残った歌手は実のところ、メイド役の若槻量子だった。その後、徐々に小森の魅力に気づいていき、2006年、ソプラノの幸田浩子とのデュオで度肝を抜かれたのも記憶に新しい(5年も前のことだが)。さらに服部容子とのデュオ公演でトドメを刺され、このように毎年、聴くようになったというわけである。

あのときに『インテルメッツォ』を歌っていた小森のままであったら、このような栄誉はなかったかもしれない。とはいえ、2007年以降、4年連続で小森はこの劇場でもっとも活躍する歌い手として表彰されてきたともいう。正に、ゲラの劇場は小森とともにあったようにみえる。その積み上げが「宮廷歌手」への道に結びついていたわけだが、例えば、福井敬のように良くも悪くも、いつまでも、ないをやっても変わらない歌手とはちがって、小森はそのなかでも、やはり新しいものを積み上げてきた人である。今年は一体、どんな新しさがあったのだろうか?

【今年の新しさ=表現の率直さ】
まず、若干、スリムになったように見えたのは私だけだろうか。実際、どうだったのかはわからないし、そのことによって、具体的な声への影響があったのかとなると、これもまたよくわからない。

さて、具体的な表現の問題としては、率直さということがキーワードになるのではないかと思う。今回、2人はヴォルフの『メーリケ詩集』を取り上げた。この作品はヴォルフによる付曲も、メーリケによる原詩も一筋縄ではいかない振り幅をもっている。深遠さや荘重さからは遠いが、人間の在り方や、そのこころが、かなりの風刺やユーモアを交えて、複雑に取り扱われている。相当に野卑で、あからさまな下ネタから、民話風のもの、メルヒェンティックな作品、心情を激しく吐露したもの、信仰に関するもの、そして、古典的な詩をベースにしたものなど、様々である。『メーリケ詩集』は43編に及ぶ膨大な歌曲集だから当然といえば当然だが、身の処し方を誤れば、こうしたジェットコースター的な構造に弾き飛ばされ、表現の中心を失ってしまうことにもなりかねないのだ。

幸い、この詩集の全曲を一気に歌うことはまずあり得ず、1番から順に歌っていかないと筋が通らぬという作品でもない。歌手はそのなかから、自分のセンスで作品を選び、任意に並べ替えて歌うことができるから、そのような弊は若干、緩和されるだろう。それにしても、この作品を歌うためには、シューベルトやシューマンのまとまった作品を歌うのとは、いささか異なる技術と構想が必要になるということは確かである。そして、小森はこうした作品を歌うに当たって、とにかく、ひとつひとつの作品のなかにある詩情の中心を、率直に捉え、歌ってみせるという道を選んだのであった。

そのような姿勢がこれまでのパフォーマンスでは、まったく見られなかったといっては嘘になろうが、しかし、その種の率直さは、今回のパフォーマンスに合わせて、特に磨き込まれたという感じがする。

それかあらぬか、この日の小森は前半のドイツ・リートだけにとどまらず、実に様々な言語と、ジャンルの作品を歌うことを厭わなかった。チャイコフスキー『スペードの女王』のイェレツキーはロシア語、やや軽いドン・ジョヴァンニ的な役柄と声質。ヤナーチェク『利口な女狐の物語』の森番役はチェコ語(それもモラヴィアの土俗的なニュアンスに基づく)、重めのどっしりした声質だが、どことなく哀感を誘うリリックさも必要な役柄。コルンゴルトはドイツ語だが、普段はそのなかに隠れているような甘い旋律線が目立ち、率直で、うっとりするような役柄と声質。最後のオランダ人は、同じくドイツ語で、亡霊的なダッチマンだけに、黒々として鋼鉄のような声と存在感が求められる。

このように広い振り幅を、小森はいずれも、その中心において簡潔に表現することで、1つ1つ完結しながらも、大枠で連鎖していくような表現手段によって、このリサイタルを組み立てていった。

【具体論】
後半のアリア集で特に印象に残ったのは、ヤナーチェクとワーグナーだ。結局、このあたりの声質が、いまの小森にとって、もっともスウィートな領域であることは間違いない。しかし、それ以上に、表現のふかい部分での共感があったように思われる。小森は以前、「ヤナーチェク友の会」の会報にも寄稿されていたことがあるが、ヤナーチェク作品には非常に造詣がふかいようだ。それかあらぬか、この森番のアリアは通り一遍ではない、中身の詰まった表現となっていた。もう最初の2、3語を歌い出しただけで、ヤナーチェクらしいイディオムがふっと浮き上がり、森番のモノローグにちゃんと相手がイメージできる。ビストロウシュカによく似た、若い女狐の姿まで。モラヴィアの自然・風物が溶け込んだ森番の・・・人格的には好感を持てぬとしても、その自然とは正に一体となった森番の声が、非常にふかい部分から響いてくるのであった。彼の摘んでいるキノコの形や匂い、藪ハエの飛ぶ凄さから、小さな植物の可愛い姿や香りに至るまで、全部、小森のなかにイメージができている。

最後、チョイ役の蛙は登場せぬが、森番の歌いおわりから、ピアノで代奏されるオーケストラ・パートまで、じっくり聴き入ってしまい、称賛の掛け声も忘れてしまったほどだ。

次に、ワーグナーはもちろん、小森にとって永遠のヒーローだろうと思う。『さまよえるオランダ人』題名役の陰鬱なアリア『(例の)期限は過ぎた』は、行き着くところまで行き着いた絶望者の歌ならぬ歌である。しかし、小森の表現は徹頭徹尾、確かに絶望者のそれでありながら、どこかに・・・「否、そんなはずはない、いつかは!」という信念が紛れ込んでいる。もちろん、そのことによって、オランダ人の境遇はすこしも改善されることはないし、むしろ、そのためにいっそう悲惨だといえるぐらいだ。最後の審判だけが望みだとするオランダ人の立場が本当のものなら、オランダ人に悲劇はないからである。彼はただ、それを待てばいいだけのことだ。オランダ人の絶望のどこかに、救済への僅かな信念があるからこそ、彼は辛いのである。それは多分、その信念を満たすことができない自分への怒りとして、あのように絶望的に表出される。

小森は、その部分を率直に表現する。考えれば、オランダ人の境遇などというものは、決して理解しきれるようなものではないから、必ずつまづくことになる。それよりも小森は、オランダ人の境遇に身を任せてしまった。震災時、遠くドイツの地にあって被災しなかったことについて、彼は罪の意識を抱いたという。そのような悔しさが、オランダ人へのヒントになったかもしれぬ。ただし、それは憶測にすぎない。そのような要素を交えなくとも、彼はもっと直截に、オランダ人を知る機会・・・つまり、それを演じる機会があったはずだから、そうした積み上げのなかで、彼は一歩一歩、このような世界にアプローチをかけていくことができたはずだ。そして、何度、その役を演じることができたのかは知らないが、彼は私たちに毎夏、示し得ているように、彼はオランダ人を演じる度ごとに、コツコツと役を煮詰めていったにちがいない。

実際は、いちども歌っていないという可能性もなくはないだろう(自註:やはり、いちども歌っていないということはないようだ)。そうであるとしたら、今回のパフォーマンスはあり得ないほどに自然で、また、あり得ないほどに鋭く洗練されている。一体、小森以外の誰が、あれほど見事にオランダ人を歌えるだろうかというほど、その表現は完璧に、コントロールされていた。大劇場では、一体、あの声はどのように響くのであろうか。しっかりしたベルカントに基づく小森のことだから、多分、そう印象は変わらないのではなかろうか。優れた歌い手の声は、こうした手ごろな空間でも、数千人を呑み込む大劇場であっても、同じように、自分の隣で歌ってもらっているような実感を伴うものだからである。

次点で、コルンゴルトも良かった。『死の都市』のピエロ役のアリアは、イタリア・オペラ的な甘みを含んだたおやかなナンバーであるが、これは前半で歌ったリートを煮詰めて、、その上澄みだけを取り出したような表現になっている。しかしながら、本当のイタリア・オペラとはちがって、声がもっと皮相に響くというのが面白いところであり、一方、ドイツ語のもつ言葉そのものの重さと反比例するように、ピエロの想いは宙に浮いていくところがよく表現されている。ピエロはこの劇のなかで、登場も僅かな脇役である。

【メーリケ詩集】
前半の『メーリケ詩集』は、非常に工夫した歌いまわしであったが、朗唱風な部分があるナンバーでは、それを極力、少なくして、歌との関係性をできるだけ多くつくりながら表現していく意図があって面白かった。

ところで、最終曲は私のような俄か批評家を皮肉る1編であり、ここで風刺される相手のような批評の姿にならぬよう、私としても厳にこころせねばならぬ。批評とはそのように、大体において消えてなくなれと思われることが多い芸術であって、例えば、芸術と聞けば何にでも口を出すジャン・コクトオなど、専門以外の分野の芸術家からはしばしば、煙たい目でみられていたようだ。私は、そんなコクトオを尊敬する。わが国の吉田秀和氏が評論家でありながら、あれほど世の信頼を集めているのはその筆業よりは、行動のほうが評価されたせいだろう。私は氏のような形で尊敬される文筆家であるよりは、コクトオのように煙たがられる存在でいたい。消えてなくなれと思われるのは承知で、絶対に消えてなくなってなどやらないつもりである。

そのために、いまのようなアマチュアの地位はとても居心地がよいものであろう。

詩集全体の表現については、既に述べたとおりだ。最初に書いたように、小森はそれぞれのナンバーに必ず置かれている、詩情の中心部分を率直に表現することで、作品のジェットコースター的な構造をまとめ上げたと(私は)言った。しかし、細部においては言葉の味わいというものを真っ先に優先し、その関係を際立たたせることで、音楽的な構造や、ポエジーの組み立てをレントゲン(X線)にかけるように明らかにした。例えば、”Noue Liebe”なんていうのは、どう解釈していいのか冷静に考えてもわかりにくい作品で、それは私のなかで、いまも解決しない問題である。その作品にすこし希望がみえてきたのは、小森がこの作品を大雑把なイメージで捉え、深入りしなかった表現に、ある種のヒントを見出したからであった。

これは、一種の言葉の遊びなのであろう。それが、「神をわがものにする」といった大胆な方向に結ばれていくことになるのだ。言ってみれば、ブルトン風の自動記述をしているうちに、話がとんでもない方向に行ってしまったように、この作品も言葉と言葉の関係を面白がって、生のままつなぎ合わせているうちに、思いも寄らぬ結論を導き出してしまったという作品だったのではないだろうか。

なお、小森は最初の5曲を『こうのとりの使い』でいったん締め、脇に戻ってから、間をおいて残りの6曲を歌うスタイルをとった。その意図は明らかではないが、多分、こうした演奏会では少しばかり遅れてくる人が意外に多いことに配慮して、5曲目で一息を入れたのだと思う。その真偽はわからないが、この『こうのとり』のナンバーは11曲のなかでも白眉であり、特に終盤、こうのとりが無言の伝言に成功して、喜び踊る場面を歌うときは、もう、自分がその場で踊っているような実感として、小森の歌を聴いていた。その見事な構成美の表現や、明るさに満ちた歌いくちは充実しており、たとえ11曲の途中であっても拍手してしまいたいような興奮に誘われた。幸い、上記のようなプログラム構成から、私の願望はいかなる恥も、奇異の視線も受けることなく満たされた。

後半の冒頭に歌った『炎の騎士』も、これに次ぐ評価を与えられようかと思う。これは小森のつよい表現が際立った演奏であり、ピアノとの共謀で、謎めいた民話風の叙事詩をふかく、抒情詩的に歌うのが成功した。もうひとつ、先に示した最後のナンバー『別れ』も素晴らしい。この作品の風刺は構えが大きく、全編を象徴するようなワイドな世界観に満ちたユーモア作品である。ワルツの響きを上品に秘めながら、ピッタリと当て嵌めていく理知的な歌いまわしに感嘆させられた。

この日の服部については多くを語らなかったし、以後も詳しく書くつもりはないが、もちろん、随所に小森のパフォーマンスを下支えする頼もしいパフォーマンスがあったことは事実である。歌い手も大変だろうが、ピアノのほうもこれだけ幅広い音楽世界を、たった1台の鍵盤だけで表現し尽くすことは簡単ではない。練習ならまだ、それもあり得るだろうが、オーディエンスのまえで表現として組み立てることは難しいだろう。しかし、服部にはそれができるの。

【ラヴェルにおける独特のルバート】
服部による独奏は、ラヴェルの『鏡』の第4曲「道化師の朝の歌」と、プロコフィエフ『ロメオとジュリエットからの10の小品』からの2ピースであった。プロコフィエフのほうは自分でも、なんだか満足いかないパフォーマンスのように感じているように見えたが、ラヴェルのほうは文句ないだろう。服部はどちらかといえば、イン・テンポでハッキリした表現を好む性質があるように思えるが、今回はルバートにも躊躇いがない。ただ、それは小手先の見せびらかし的なルバートではなく、もっと構造的に押し詰めたような、大きな構造に当て嵌めたものである。それが細部に下りていくときに、どのような表現をとるべきかということに、今回のテーマがあった。

その結果、ラヴェルにおいてはその複雑なラインの彫琢がよりくっきりと、深い呼吸で表現されることになったようだ。ラヴェルにはピアノ・ロールによる自作自演の録音が残っているが(『鏡』は第2曲第5曲)、それよりも厳しい感じがする演奏で、ショパン的なルバートでもあるものの、それよりは多少、ドライで苦みがあるかもしれない。特に、トリオから返ってきて、同じ旋律を今度は悠々と締め上げる(しかし、響きはより自由に輝く!)ときの表現の厳しさには、いつもながら深い感銘を受けた。

【まとめ】
今年もまた、素晴らしい演奏会にはなった。恒例のアンコール・プログラムでは、この日が広島の原爆忌であることを念頭に、3月11日の震災にも想いを寄せて、武満徹の『死んだ男の残したものは』が演奏された。私はフォーク・シンガーの森山良子の声で親しんでいるが、あのような訴えかけるような強さはないものの、シニカルな感じと、それでも谷川俊太郎らしく、ほんのり浮かぶユーモアを静かに歌い上げるパフォーマンスであった。それこそイン・テンポでまっすぐに歌ったのが、かえって素敵である。なお。これに至るコメントでは、小森はかなり感情的なっていたようである。既に述べたように、被災していないということへの想いが、いまもって強いのだろう。しかし、東京在住の私も「被災した」とは言い難い立場だし、西日本の人たちも被災はしていないのであって、そこまで思い詰めることはないと思う。

それよりも、「宮廷歌手」としての栄誉をもっと輝かせて、歴代の・・・そして、同時代の素晴らしい日本の歌い手たちに恥ずかしくない表現を組み立てていくことこそ、大事なことである。小森もきっと、そのことをはっきり自覚しているのだと思う。わかりきっていることを言うのは、無意味である。それゆえ、賢明な人たちによって蹴飛ばされて、階段から転げ落ちる前に駄文を閉じることにしたい。私だって、やっぱり怪我するのは真っ平御免であるのだから。

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