2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« ベートーヴェン・トリオ・ボン ラフマニノフ & ブラームス @浜離宮朝日ホール 9/1 | トップページ | 神田慶一 歌劇 あさくさ天使 (2011年改訂版) 青いサカナ団 第31回公演 9/4 ② »

2011年9月 4日 (日)

神田慶一 歌劇 あさくさ天使 (2011年改訂版) 青いサカナ団 第31回公演 9/4 

【震災による延期を経て・・・】
どこから、書いていったらよいのだろう。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』との比較や、古いものと新しいものというテーマ。神田慶一の作品のなかで、もっとも関係の豊富な歌劇だということ。独特のデクラメーションについて。3月に予定されていた公演と、それを強制的に延期に追いやった震災との関係について。その代わりに開かれた、チャリティ・コンサートの素敵な思い出。歌い演じる歌手たちの素晴らしさについて。戦後昭和という時代についてのこと・・・。

しかし、震災発生から半年が経過する日を来週に控えるというこの時期ならば、やはり、このことから書き始めるべきだろう。神田慶一の歌劇『あさくさ天使』は2004年2月、江戸開府400年の記念事業として、東京都から大きな補助を受けることで実現した。この公演は公的な表彰も受け、日経新聞の池田卓夫記者らの後押しによって再演も期待されたが、大規模な管弦楽/コーラスを伴う作品だけに困難を窮めた。そのため、2011年3月の再演をめざし、神田は作品を大幅に改訂し、新国立劇場小ホールにて上演可能な新しい版を整えた。予定どおりならば、3/26、27日の両日に公演をおこなうことになっていた。

しかし、3月11日、ご存じのように、私たちを未曽有の大震災が襲った。カンパニーは出演者や関係者の間でよく話しあい、それでも公演を予定どおりにおこなうことを決断したが、一方、会場として予定していた新国立劇場は当面の間、貸し小屋としての使用も含めて劇場を閉鎖することを決定したため、公演は止むなく延期となる。ただし、出演者らの発案により、3月27日にカンパニーは池袋のシャロン・ゴスペルチャーチにてチャリティ・コンサートとバザーをおこない、収益金を震災のための募金として献じた。そして、半年後のこの日、ようやくにして『あさくさ天使』再演はなったというわけである。

【ユメコの魔法】
第2幕のところで、事故死して天使として現れるユメコとケースケの会話で、当たり前に明日が来ると思っていたけど・・・というようなやりとりがあったのだが、この場面を聴くと(あとで書き足したのでなければ)、神田が未来を占っていたような印象を抱かせられる。しかし、そうした感傷を抜きにしても、第2幕で小屋の財政危機が明らかになってからのユメコとケースケの対話は、胸を打つものだった。昨日まで大切にしていたものを、ある日、突然、失ってしまうこと。これはなにも「死」ではなくとも、多くの人たちたちが体験することだ。例えば、子どものとき、大事な宝物をなくしてしまったこと。急な引っ越しで、別れることになった友人たちのこと。受験の失敗。恩師の異動。失恋。親友との喧嘩別れ。離婚。交通事故。急にこじれた仕事。事業の破綻。失業・・・。ただし、共感が強すぎたためなのか、(夢中になってしまって、)いま、どうしても細かい台詞(歌詞)が思い出せないのは残念なことだ(脚本がほしい!)。

そのなかで、いちばん印象が強いのは、この危機に当たってユメコがこの街の「魔法」の力を疑うことなく、その力を思い出させることで、ケースケを力づけるところだろう。

このあたりの筋は、今回のヒロイン、ユメコを象徴するものである。この劇におけるユメコは、第1幕の最後で早くも死んでしまうことから、主体的に行動することは少ない。神田の劇にはよく出てくるように、超越的な力の持ち主でもあるのだが、彼女の「魔法」はあくまで舞台と、その上での行動によって実現されるものであって、彼女自身がなにか特別な力で、現実を無理やり動かしてしまうということはない。その点、超能力で主人公の危地を救う『アゲハの恋』のアゲハや、実は自覚なき絶対者であった『マーマレイド・タウンとパールの森』の月子/ディアナとは異なるところである。今回のヒロインはいわば、高校野球をモティーフとしたアニメ『タッチ』のヒロイン「南ちゃん」と同じ役割で、主にケースケを力づけ、応援する・・・あるいは、大事なことに気づかせること。そのことによって、舞台の力を目覚めさせることだけに徹している。あとはただ、舞台とそこに生きる人たち、彼らの「魔法」を信じ、見守るだけだ。

このヒロインについては、あとでもうすこし論じることになるだろう。

【ニュー・シネマ・パラダイスとの符合】
ところで、私は初演のときはまだ「青いサカナ団」、つまり、神田慶一という音楽家(舞台芸術家)に注目しておらず、『あさくさ天使』の舞台に接することはできなかった。それだけに、首を長くして待っていた再演である。しかし、最初と最後の部分や、途中で田代誠が歌う『オヤジの唄』については、神田が指揮を執った東京文化会館の「日本オペラ絵巻」という公演や、サカナ団によるガラ・コン、そして、先日のチャリティ・コンサートの場で、初演のときのままではないにしても、何度も耳にしていた。そして、それらの歌は確かに、私の胸を打つものだった。

筋書きはアウトラインしかわからなかったが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の名画『ニュー・シネマ・パラダイス』によく似ていると感じていた。この映画の説明は省くが、成功した主人公が何十年も前、世話になった人物の訃報を受けたところから、過去の物語が展開していくことや、古いものへのノスタルジーと、そこからの訣別というテーマがそっくりだ。もう先はないが人柄のいいベテランの職人と、可能性ある若者のこころの友情・・・映画における青年(最初は少年)とベテラン映写技師の関係と、オペラにおけるケースケとオヤジの関係も非常に近しいものである。1989年に大ヒットした名画であり、神田も見ていないというほうが無理だ。

この『ニュー・シネマ・パラダイス』では映画そのものというよりは、映画館という場所が問題になっている。オペラでも舞台そのものというよりは、小屋、あるいは、そこで歌い演じている人たちのほうが問題になっているのと符合する。取って代わるものは、いずれもテレビだ。そして、古い技術(もの)の面白さや、それを囲んでいた人たちの素直な感動・・・芸術と感動が密接に結びついていた時代の良さを振り返る視点もよく似ている。

映画の感動のラスト・シーンは、亡くなった映画技師の技術が生み出したものだ。映画については省くといったが、ここだけは詳しく述べさせてもらいたい。昔のイタリア・・・特に貧しい南部では娯楽がなく、教会の牧師がかつてはオルガンで提供していたような娯楽として、映画館を開いていたという設定である。しかし、そこには宗教家として必要な制限があり、事前にフィルムを確認し、キス・シーンや男女の直接的な交わりがある部分があると、映写技師に言って切り取らせていたのだ(これが最初のシーンである)。映写技師はそれらを大事に取っておいて、切り貼りしたものを若い主人公のために残しておいたのだが、大成した主人公がプライヴェート・シアターで、そのフィルムをみるのがラスト・シーンになっている。それがどういうものかは大体、想像もつくだろうが、その感動は映画をみた者にしかわからないだろう。だが、私などはいま、思い出すだけでも涙が溢れてくるような、人々が考え得るかぎりの範囲で最高に映画的なフィナーレだ。

オペラでは、その「技術」が最終的に「歌」につながっていくことになる。

【過去の肯定】
しかし、トルナトーレと神田では、やはり、少しずつ物事に対する見方のセンスが異なっていることも見逃してはならない。特に神田の視点では、トルナトーレの場合よりも、過去と現在の間の断絶がないところに特徴を見出すことができる。トルナトーレにおいては、例のラスト・シーンにしても、大成した映画監督の目で再び過去を振り返るところに、独特の甘みがある。かつて愛し合った女性との再会では昔そのままの感情が一瞬、浮かび上がってくるものの、それはあくまで過去のフラッシュ・バックでしかなく、決して、「今」そのものではない。

第1幕の最初のシーンが印象的だが、神田の場合、既に大家となった現在のケースケのままで、過去に突っ込んでいく。このオペラでは、「ケースケの場合」「マリーの場合」「リュウジの場合」という「プロローグ」および「幕間劇」が先(現在)に置かれ、そこからあらゆるヴァリュエーションで第1幕、第2幕、第3幕(いずれも過去)に入っていくという特徴があるが、いずれも同じ構図である。現在の姿のままで、過去に入っていく。つまり、トルナトーレにおいては過去は否定の対象であり、それは自分から主人公を切り離そうとする映写技師の態度によって象徴されるが、神田においては、過去の「自分」はいつも肯定の対象なのだ。その態度は、田代誠が歌う『オヤジの唄』によってハッキリと象徴される。

【オヤジの唄のデクラメーションの重要性】
この歌については以前も論じた記憶があり、ここで繰り返すことはしない。しかし、音楽的な見地から付け加えるならば、デクラメーションにおいてひとつの画期を成しているように思われる。つまり、オヤジは完全ではないしても、「江戸っ子」的なべらんめえ調で喋る人物だ。それに相応しいデクラメーションなんて、私の知るかぎり、誰も考えたことはなかった。どんなに「日本」や「日本語」をふかく考えた作曲家たちも、彼らは大抵、標準語を当たり前のように考えていたのではなかろうか。せいぜい喋り言葉を問題にすることぐらいはあったとしても、また、お囃子や謡のようなものを取り上げる人も少なくなかったとはいえ、地方言語によってデクラメーションを組み立てることはあまり考えつかないことだった。まずは標準語で成功しなければ、その追究もないというわけであろう。仮に、歌詞のなかに方言を使うようなことがあったとしても、それに独特のデクラメーションが用意されるわけではなく、それは標準語と容易に置き換えることが可能だったはずである。

ところが、神田はこの『オヤジの唄』のなかで、江戸っ子のオヤジさんにしか歌えないような、それにしか相応しくないようなデクラメーションを、多分、意識的に構築した。それは「神田節」ともいえるような独特の、直情的な標準語のためのデクラメーションとは明らかに異なるもので、歌い手のほうでは、多分、田代以外に体験したことがないような性質の歌である。

そのせいか、オヤジの言っていることは決して特別なメッセージではないのだけれど、この人にしか言えないような独特のメッセージとして響く。それが劇の序盤の重要な場面に、どんと置かれていることには注意が必要だ。

【関係の厚み】
デクラメーションの問題に限らず、この作品はあらゆる意味で、神田の優れた作品群のなかでも「王」としての気品を放つものである。その理由のうち、最大のものはほかの作品に比べて、圧倒的に関係が厚く、幅広く描かれているということだろう。神田の作品では、大体は2人の関係でケリがつくようなものばかりである。そのことはなにも、神田に限ったことではなく、オペラ全体についていえることだろう。『トリスタンとイゾルデ』というように、オペラという芸術の形態ではせいぜい、2人の関係( und で結ばれる)を描くのが精一杯で、それ以外のキャラクターはあくまで脇役として扱うしかない。数少ない例外は、『リング』のような作品だけだ。

ところが、この『あさくさ天使』では、メインとしてケースケ&ユメコの関係が描かれるほかに、リュウジ&マリーの関係も大事だし、ケースケ&オヤジの関係も欠かせない。この3つの主要な絆を中心に、小屋とデパート経営者の関係、さらに、小屋と観客の関係、それに、小屋に関係する人々の様々なレヴェルでの関係が、厚く、厚く構築されているのである。それらが肥大化することなく、ある程度、コンパクトにまとめられ、拡散せず、ひとつのテーマのなかに結びついているというのが面白いところだ。

これらの関係についても改めて述べる必要があるが、このような分厚い関係の種明かしのひとつとして、キャラクター間に相通ずる対応関係があることを指摘しておきたい。例えば、ケースケとリュウジは雌雄一対の人間で、神田はきっと、自分のもっているメッセージを2人にわけて託しているのだ。そして、2人のオトコには仲良く、ユメコとマリーという対照的なオンナが宛がわれ、この2人の女性にも対応関係がある。こうして、神田の描くキャラクターは関係とファンクションによって、次々に連鎖していく。ほかの作品では、どちらかといえば、関係よりはファンクションが重くみられ、関係はひとつところに偏らせての表現という場合が多かった。しかし、この作品ではより多くの関係がふかく掘り下げられ、それがこの作品を特別な作品へと押し上げているのだ。

もし不満があるとすれば、リュウジ個人の拠って来たるところの来歴がよくわからない点と、リュウジとオヤジの関係がよくわからないことである。多分、リュウジもケースケのように、オヤジに叱られながら地位を上り詰めてきたのではないかということは想像がつく。しかし、それを示す根拠は希薄で、ケースケとリュウジが対応しそうだという間接的な証拠ばかりに基づいている。リュウジはピアノも弾くし、マリーのために楽曲を用意できるような才能にも恵まれているので、当時、まだ珍しいインテリ階級の学生であるという以上のことではなかったケースケよりは、芸道におけるスタート位置は高かったように思われる。では、彼とオヤジの関係は、どのように変化してくるのであろうか?

【音楽家たちの絆】
さても、さても、この公演については1回だけでは書ききることができない。この前半の記事の最後に書くことは、多分、いちばん最初に書いたことと関係している。つまり、私が書きたいのは、震災というものをきっかけに、このプロダクションによって結びついた音楽家たちの絆ということだ。教会でのチャリティ公演も、決して無駄ではなかった。この作品に厚く仕込まれた関係の味わいは、これらの音楽家たちの深い連携によってリアルなものに成長し、私たちにもじんと伝わってきたのである。菊地、所谷、田代と、この演目を初演から歌ってきた人たちと、あとから加わってきた秋谷、蔵野、斉木といった歌手たち。それにもちろん、青いサカナ管弦楽団の諸君や、合唱・助演の人たち。彼らのひとつひとつの役割が、確かに、舞台のうえで生きていた。こういう舞台は、絶対に良いものである。

【翼に凝縮されるこころ】
全体としては、いささか演説をぶちすぎたきらいもあり、良いところもあれば悪いところもある。しかし、この作品はそうした個別の障壁を乗り越える強い力、とりわけ、人々(歌い演じた人たち/それを受け取った人たちの両方)の愛情によって熱心に支えられるだろう。どんな理知的に完成された作品も、そうした愛情のないところでは無意味だ。劇の最後、天使の翼がハートに見えるところに、私たちの愛情はハッキリと注がれる。映像をみて、この翼ばかりは陳腐と思っていたが、そうではない。なるほど、その天使の羽は少女たちの踊りのための、陳腐な飾りにすぎなかった。それをみたときに、まず最初の納得が来るのだ。しかし、それだけでは語りきれない翼の味わいは、ラスト・シーンに向かって少しずつ凝縮していく。この羽は、私たちのこころの象徴なのである。

 (②につづく)

« ベートーヴェン・トリオ・ボン ラフマニノフ & ブラームス @浜離宮朝日ホール 9/1 | トップページ | 神田慶一 歌劇 あさくさ天使 (2011年改訂版) 青いサカナ団 第31回公演 9/4 ② »

舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/52649147

この記事へのトラックバック一覧です: 神田慶一 歌劇 あさくさ天使 (2011年改訂版) 青いサカナ団 第31回公演 9/4 :

« ベートーヴェン・トリオ・ボン ラフマニノフ & ブラームス @浜離宮朝日ホール 9/1 | トップページ | 神田慶一 歌劇 あさくさ天使 (2011年改訂版) 青いサカナ団 第31回公演 9/4 ② »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント