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2011年9月 5日 (月)

神田慶一 歌劇 あさくさ天使 (2011年改訂版) 青いサカナ団 第31回公演 9/4 ②

【もうすこし時間を!】
結局、この作品のなかでいちばん大事なモティーフは、あまりにも急な変化が私たちをどれだけ疲弊させるかという問題である。戦後66年、人間の・・・とりわけ日本人の歩みは本当に早足だった。そのために豊かさや便利さという点では、確かに目にみえるような発展をみた。その一方、私たちはあらゆるものを切り捨て、犠牲にして来なければならなかったのも事実である。それはときに、人間のいのちでもあった。かつては公害病、いまでは原発事故による放射能汚染として、それはあながち過去の問題でもないようだ。

音楽の歴史についても、前の100年と、この100年とを比べると、「進歩」が急速である。例えば、ベートーベンの生年の50年後には、フランクが生まれている。この間に音楽史的には、古典派→ロマン派と移り変わっているが、彼の循環主題にしたところで、ベートーベンの時代にまったく想像だにしなかったような性質のものではない。その50年後にはワーグナーの『ワルキューレ』が初演され、ブゾーニやレハールといった作曲家がこの世に生を受けている。このあたりも、まだ両腕を広げた範囲での発展に止まっている。さらに50年後の1920年ごろには、シェーンベルクらの手によって12音音楽の兆しがみえる。しかし、それはまだ主流とはいえず、リヒャルト・シュトラウスやレハール、ヒンデミットといった作曲家も活躍している。現代に入るそこからの50年、さらに、そのまたあとの40年あまりは、もう複雑すぎて解説しきれないほどの「進歩」のせめぎあいである。

では、その「進歩」のなかで、私たちは本当によいものを掴んだのかどうか、非常に複雑な議論が交わされているところである。神田も『あさくさ天使』の冒頭は、やや幾何学的な現代的音響ではじめ、多分、大家となりながらも満足しないケースケの複雑な心情を表現している。その響きはB.A.ツィンマーマンやベルクといっては言い過ぎだろうが、それに近いテイストの音楽だ。それが徐々に、より生活感のある響きへと変化していく。その契機は電話であり、ケースケが昔を思い出して歌うユメコのアリアのメロディである。

こうした変化がいいのかどうかについては、神田は、劇中の豊富な演説にもかかわらず、明確なメッセージを放っていない。それは徹頭徹尾、観客の判断によるのであって、彼自身には如何ともしがたい問題だからであろう。つまり、あの厭らしいデパート社長の大和の立場は、実は私たちの立場なのである。神田がお願いできるのは、せいぜい、もうすこし自分たちに時間を与えてほしいと乞うことぐらいでしかない。これは見たところ、非常に弱いメッセージだが、それだけに切実なものを感じる。神田はそのなかで時代の流れのなかに寄り添い、かつ、聴き手とともにある舞台を完成させたいと願う。神田にとって、大和や、テレビに向かっていくマリーは敵ではなく、考えのちがう同志である。

【新しい舞台のカタチ】
神田が単なる現状肯定派でないことは、50年後の世界ではオリオン座がやっぱりなくなっており、団長のリュウジは安いクラブのマスターに身を落とし、小屋のみんなも散り散りになっていることからわかる。大和やマリーの言うことは、なるほど正しいようだ。しかし、「マリーの場合」に基づくならば、リュウジの言うことも正しかった。では、舞台芸術家のめざすべき答えとは、どこにあるのだろうか。そのことの答えのひとつは、最後の幕によって端的に表現されている。

ここではありがちな筋書きだが、小屋全体が一体となって演技をすることで、大和社長を騙して危地を切り抜けるということになる。さて、第1幕では我々、観客はバック・ステージの側から、オリオン座の舞台を見ていた。そこでは駆け出しのケースケが、理想に燃えながらも失敗ばかりして頼りない姿が描かれていた。最後の幕では、ついに我々は実際の観客の立場から、オリオン座の舞台をみることになった。いまやケースケは、この舞台の全体を任されている。オープニングのライン・ダンスのあと、前座のパントマイム、そして、トンペイとカンタの漫才とみてきて、大和の挨拶となる。

このあと、小屋ぐるみで刃傷騒ぎを演出し、惧れ慄いた大和社長は小屋を捨てて逃げていくという筋書きだ。ここで、私はひとつの疑問をもった。小屋にいた観客たちも、みんな役者だったのか。それとも、「サアサア、みんな、寄っといで!」とケースケ自ら呼び込んだ観客たちも、一緒になって茶番につきあったのだろうか。私は初めは前者だと思ったが、段々に後者だという感じがしてきたのである。この最後の幕では、虚と実が入り交じっている。例えば、リュウジがマリーを突き刺してしまうのは、芝居の筋書きだからというに止まらない感情のもつれを含んでいる。あそこにはヴェリズモ・オペラの、写実性が確かにある。大和が去ったあと、マリーは自らのロケットをリュウジに手渡すが、結局、リュウジからは離れていく。そこにこそ、リュウジの本当のこころがみえているのである。

リュウジが50年後に至るまで、ずっとマリーを大切に思っていたことは明らかだが、もしもマリーの想いを本当に理解するのだったら、彼はマリーを小屋から去らせはしなかったであろう。そこに、この当時のリュウジの傲慢さが見て取れる。彼女との別れには、将来の小屋の破綻が予告されているようだ。天使・ユメコは、大和のことは笑顔で無邪気に見送るが、マリーが去っていくときにはすこし寂しそうである。

さて、観客たちの問題に戻るが、この幕で最大の虚は、この観客たちの存在である。ツジツマは多少あわないにしても、神田は観客たちが促されるのではなく、自ら立ち上がるという構図をつくりたかった。それは本当の観客である我々へのメッセージでもあるし、また、実際に有志の台頭区民が参加した初演(再演にも?)に対するオマージュでもあろう。結局、劇場はオーディエンスによって支えられ、それに応える劇場の不断の努力によって維持されるものでしかない。そして、その関係は小屋を支える人々の情熱によって維持される。ゲーテの戯曲『ファウスト』ではないが、そうした劇場と観客の絶えざる関係こそが、神田がこの作品のなかで出したひとつの答えとなる。だから、それを感じた人たちは、青いサカナ団が初めて出したCDやDVDを買うというわけであろう(私はDVDがあまり好きでないのでCDのみ買ったが、これは素晴らしい!)。

【様々なる関係】
しかし、いまは周縁を穿ちすぎた。ここで主要な関係に絞って、その構図を見なおしてみることにしよう。まずは、ケースケとユメコである。この2人がどれぐらい前から、昔風の言い方をすれば、「デキていた」のかはよくわからない。最初の幕ではもう、2人は以前から惹かれあっていた印象を抱く。馴れ初めがわからないので、2人がどのような契機で結びついたのかはわからないが、舞台上で描かれたことだけが舞台の真実であることを前提するならば、2人は舞台に対する熱情だけで結びついているように思われる。彼らはこの街にある「魔法」を信じ、それにかかった人々を信じて行動するだけだ。そして、外面的な結びつきではなく、こころとこころで結びつくということを知っている。

もっとも純粋で、柔らかい、立体的な関係がここにある。

一方、リュウジとマリーは、それよりはやや複雑な関係である。リュウジはマリーに対して、歌手対団長という点からも、歌手対作曲家という点からしても、そして、プライヴェートな関係においても支配的である。先に述べたように、当時におけるリュウジは情熱的な舞台人であるにしても、やや傲慢なところがあるのだ。マリーが辞めたいと言い出したのは単にテレビに未来を見出したからではなく、そうしたリュウジの限界を露骨に見て取ったからであり、その支配から逃れたかったからである。リュウジ&マリーはケースケ&ユメコよりもずっと深く結びついているのだが、その結びつきが徐々に外面的な部分に移ってしまっていた。

よって、2人の関係を表すには、ロケットのような「道具」が必要となる。対してケースケは、ユメコの形見のようなものを求めない。クリスマス・プレゼントという「物質」を買おうとして、便利さのひとつの象徴であるクルマに轢かれてユメコが死んだせいか、彼はそうした執着と一切、無縁でいられるのだ。

ケースケ&ユメコと、リュウジ&マリーの関係は、本質的に同じようなものである。そうでありながら、微妙にずれていく関係のなかで、片方は純粋に美しく、もう一方は、複雑に厳しいものへと迷い込んでいくという対比が面白い。さらに、リュウジ&マリーの関係には、時代の進歩に対する考え方や、カネの問題が絡んでくる。そして、マリーが大和の側に肩入れするような思考をもったことで、決定的な亀裂を生んでしまう。その修復は、もはやあり得ない。主役組はケースケ&ユメコにちがいないのだが、実は神田が重視しているのは、このように現実的なリュウジとマリーの関係のほうである。

第1幕でよく描かれているように、ケースケは優れた聞き役である。私は彼のような人間になりたいと思うが、なかなかうまくはいかないものである。それはともかく、ケースケの活躍は主役ながら、それほど目立たない感じがする。それは、彼が聞き役だからであろう。聞き役のいいところは、相手の人格をそのまま自分の良さに転化できることである。ケースケは、すべてを吸収する。リュウジがその栄養になるように、オヤジも彼の滋養となる。

オヤジとケースケの関係は、前回の記事で述べた映画『ニュー・シネマ・パラダイス』ほども重要である。このオペラはケースケというカンバスに、ユメコ、リュウジ、オヤジを中心に、多くの人が共同で絵を描くことによって成り立つ。つまり、それらの人々には作者、神田慶一の魂が流れ込んでいるのであり、最終的にケースケの顔をみれば、作品すべてが理解できるということになっている。そのなかでオヤジの役割は、単に人情ゆたかということに止まらない重みがある。オヤジはいわば、ここで描かれる過去の世界の良心全体の象徴である。ケースケにとってはユメコを別にすれば、唯一の理解者であり、師匠であり、最高の友人である。彼の顔がこのオペラのすべてだとするなら、そもそも、それを「顔」と認めた最初の人物がオヤジだったことになる。

彼のアリアというか、長い長い愚痴のような「オヤジの唄」はとってもいいが、もうひとつ、私を捉えた台詞がある。それは、オヤジがどうやらケースケにはユメコの姿がみえているらしいことを認め、目にみえるものだけが大切なのではなく、感じることに重みがあるというようなことを主張する場面である。前回の記事でも書いたが、今回、共感が強すぎる部分ではどうも言葉がはっきり思い出せないので恐縮だが、自分には理解できないものを排除せず、理解しようとするオヤジさんの態度に、私はつよい共感を得たのであろう。

こうして、ケースケのもつ関係は段々に厚くなっていく。彼がなにかをした以上に、彼は多くのものを得ているのである。

 (③につづく)

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