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2011年9月 3日 (土)

ベートーヴェン・トリオ・ボン ラフマニノフ & ブラームス @浜離宮朝日ホール 9/1

【成長するアーティストたち】
2005年、アルミャンとのデュオではじめて聴いてから、年々、ピアニストの濱倫子の活動は追い続けてきた。私がこうした形で追い続けているアーティストは、指揮者の下野竜也、クァルテット・エクセルシオ、バリトンの小森輝彦とピアニスト・服部容子のデュオ、オペラの青いサカナ団(神田慶一)などである。これらのアーティストたちは皆一様に、日ごと成長を重ねている。濱の場合も最初に聴いた公演からもう6年になるが、それでも語ることがなくなるということはないほどだ。ソロ、デュオ、トリオなどの形で、毎年、ちがう面を見せてくれることもあるが、今年はトリオで、これは濱にとってはいちばん楽しいフォルムであろう。

トリオのなかで、私がいちばん進歩を感じるのはチェロのグレゴリー・アルミャンだ。濱やオヴルツキがどちらかといえば器用な「天才型」アーティストであるのに対して、アルミャンはある意味で日本人的な、ゴリゴリ自分を鍛えて強くするタイプのアーティストのように見える。2年ぶりのアルミャンの演奏は、以前よりも響きが丁寧に形作られ、ポジションがふかい。

【悲しみの三重奏曲】
さて、ラフマニノフとブラームスについては、このトリオとして3度目の来日にして、文句なしのベスト・パフォーマンスだ。まず、ラフマニノフはオヴルツキ&アルミャンの母国の作曲家であるとともに、アナトール・ウゴルスキの弟子でロシアものを得意とする濱にとっても、まずは「ホーム」の作曲家といってよい。彼らが選んだのは2曲ある「悲しみの三重奏曲」のうち、作品番号のついていない「第1番」のほうだ。濱は、これを大震災の被災者のために捧げるとしている(ただし、プログラムにはそのことを明記せず、仄めかすだけなのが上品だ)。

まず、きりっとしたヴァイオリンとチェロによる序奏の立ち上げがとてもよい。ピアノが入って主題の盛り上げが済んだあと、思い入れたっぷりに入ってくるチェロの響きが、アルミャンの成長を感じさせる。しかし、この3人は聴きあいのレヴェルがとても高い。オヴルツキはアルミャンの想いを確かに感じ取っていたが、素直に響きを被せることはせず、やや流すことで作品全体の筋を通していくことを重視した。ここから、全体の響きは正に、室内楽の響きとして、静かに熟成していく。というのは、ピアノが弦楽器のヴィブラートを真似ながら、オヴルツキ、アルミャンの動きを巧みに捉まえて、下から支えていくのである。

その見事さはさすがにプレスラーほどではないものの、それでもかなりのレヴェルに達して繊細だ。特に、濱はよく2人の響きを知り尽くしているし、その日の2人の調子にも合わせて、徐々に調整がかかっていくところが面白い。このことがあとのブラームスで、これでもかと効いてくることになる。

濱だけではない。オヴルツキもアルミャンも、相手の響きをよく聴いて、それに対して、適切ないくつかのリアクションを返していく能力が高い。なかなか文章で説明するのは難しいが、3人の演奏は1つ1つの声部として孤立せず、独特の塊=響きとして作品のなかに血液のように流れ出す。中間は悲壮な感じよりも、こうした響きの連鎖に伴う和声やつなぎ(アーティキュレーション)の美麗さに特徴があった。とりわけ、その鋭くまとまったフォルムのコンパクトさは、彼らがロシア的なルーツの持ち主であるほかに、ドイツ・ベースのアンサンブルであることをつよく感じさせる。

先の序奏のところもそうだが、大まかな流れが一巡して、再現部につなぐときのアーティキュレーションもきりっとしていて、ヴァイオリン、チェロの再現主題がくっきりと(したタイミングで)表れてくる。そして、それらの響きには常に、聖人画の中心に描かれる聖人の背後には必ずついてくる光輪のように、ピアノの柔らかい響きがはりついて離れないのだ。一見、個別に流麗なフォルムを追っていけばよさそうなところでさえ、ピアノのラインが弦楽器とどのような関係を織りなすべきなのか、濱は絶対に見逃すことはない。

最後の葬送部分はもちろん、弱衰していくが、3人のアンサンブルは決して弱々しくはならず、最後まで、響きの骨組みを失わないのが特徴的である。この作品は、追悼的な意味合いをもった作品であることは間違いないが、当時、19歳のラフマニノフが誰のためにこの作品を書いたのかは、皆目、見当がつかないままになっている。

私の考えでは、それは自分自身のためである。ラフマニノフは自らの手で、自らの青春を葬ったのではなかろうか。それは夏目漱石がロンドンの下宿で、一切の文学書を行李のなかに封印し、「余は心理的に文学はいかなる必要あって、この世に生まれ、発達し、退廃するかを極めんと誓へり」と書きつけたときの気持ちと、瓜二つである。したがって、この作品最後の響きが、もはや精根尽き果てて、生命がなくなってしまうときと同じように弱々しくてはならないはずだ。3人の演奏は死ではなく、むしろ生に向かって自殺するラフマニノフの若々しい魂を描き出していた。

総じて華やかな演奏だったが、最後の重々しい雰囲気は如何ともしがたく、会場はシンとなった。それほどに、良い演奏だったということである。

【完璧なブラームス】
ブラームスのピアノ三重奏曲第1番は、(op.8)ということからもわかるように初期の作品だったが、50代も後半になってから改訂した。ブラームスは彼としては異例なことに、古い作品のほうも破棄せず、現在では2つのヴァージョンが残っている。今回は特に珍しいことではないが、改訂後の版で演奏したということだ。

この作品、とても難しいと思う。例えば、第1楽章の最初のほうのチェロ・パートを見るだけでも、高音と低音が激しく交代し、しかも、その交代はかなりデリケートにこなす必要がある。響きの質は全体のなだらかな感じにもかかわらず、実はきわめて起伏に富み、多彩な表現を以て響きが構築されなくてはならない。押し引きも難しい。響きのダイナミックさは欠かせないが、力押しになれば、たちまちフォルムは醜悪となり、一方、弱々しければ、響きとして、そもそも成り立たないのである。これらのバランスを得るためには、もう大胆に攻めきるよりほかになく、何度も失敗を重ねて、響きを煮詰めていくしかないであろう。

ベートーヴェン・トリオ・ボンは、これを見事にやりきった。今回は日独交流150周年の記念事業として補助がつき、東京公演以外に数ヶ所をまわるツアーとなっているが、すでに前日、名古屋公演をおえて経験を積んでいたせいばかりではなく、もっと根を詰めた事前の準備があったことは論を待たない。細部までよく詰められたアーティキュレーションやフレージング、3人の押し引きのバランスが、完全に決まっているのである。そのせいか、常より目立つ聴きあいの素晴らしさにもひときわ余裕があって、切り替えが鋭く、結局のところ、どっしりした響きが全体に持続するという具合であった。

特に、後半2楽章は文句のない名演だ。アダージョ楽章における、完璧な静寂。そして、終楽章における、完璧なまでに美しいフォルムを思い出してほしい。これら2つの楽章は、正に、完全なるブラームスの自画像だ。不器用で、言葉少なに自分をわかってほしいともがくブラームス。そして、その実、つよい自負心を抱き、己の音楽がもつエネルギーを確信している彼。2つの彼は、ここに演奏される3つの楽器のように、いつも隣り合わせで、美しく関係しあっている。まるで、恋だ!

その静寂のなかで、特に低音(チェロ)の優しい声が堂々と響くのが、私のこころにとりわけ印象ぶかく残ったものである。この日のキーワード=「アルミャンの成長」だ。

最後の楽章は、とりわけ爽やかな印象でもある。私の表現では、「爽やか」は必ずしも褒め言葉でないが、ここでは額面どおりに受け取ってもらうことを希望する。全体の均衡のなかで、3つの部分をもつ筋肉が自由自在に、かつ、逞しく響きわたった。奔放でアイディアゆたかなヴァイオリン、実直で優しく、抒情的なチェロ、そして、それらを姉のようにしっかりと受け止めてくれる濱倫子のピアノ。その良さが凝縮したようなコーダの熱い演奏が、分厚く、しかもコンパクトな響きで締め括られたとき、期せずして会場から沸き起こった、唸り声をあげるかのような称賛の拍手!

私はこのトリオが好きだといっても、これほど完璧な演奏は、いままでなかった体験である。この3人に、一体、どういう契機があったのか、私は知らない。しかし、彼らはこの2年(前回のトリオ来日は2009年)で、圧倒的にコミュニケーションを深めた。「運命に導かれた3つの個性」~このキャッチは前回から引き継いだもので、なかなかに素晴らしいコピーであるが、そのことを今回ほど、はっきり感じたことはない。3つの個性はこの日、完全に噛み合った。

毎年、アンコールの前に濱がスピーチを送るのが恒例化していたが、今回、それはナシ。このイベントがもはや濱家のプライヴェート・イベントではなく、多くのオーディエンスを迎えるパヴリックな音楽企画へと成長したということを示すのだろうか。もちろん、私はそのことに賛成だ。

【ベートーベンとリーム】
さて、もう既に書くべきことは書いたという感じだが、リームとベートーベンにも少しは触れておきたい。

最初に演奏したベートーベンのピアノ三重奏曲第1番は、オヴルツキのところで、やや目立つ疵もみられたが、全体的にはまとまった演奏である。他の曲ではヴィブラートも効果的に使っていたが、この作品ではノン・ヴィブラート・ベースの弦楽器、それに鍵盤もチェンバロのような響きを明らかにイメージしている。ただ、その方向でのデフォルメは小さく、作品の構成をきっちり形にした演奏で、ハイドン・モーツァルトの影響もはっきり感じさせながら、ベートーベンらしい構造的特徴や、響き、3連符の構造などをバランスよく散らしていく。

濱が自分と同じカルスルーエに住む作曲家としてシンパシーを抱くヴォルフガング・リームの『見知らぬ風景Ⅲ』(Ⅰ-Ⅲがあって全体で40分強/Ⅲは単体で10数分)もその題名からして、ラフマニノフと同様、大震災との対峙からプログラムに並べた曲目であろうと思う。だが、作品はリームのなかでも、リズムや快活な構造に恵まれた作品で、その点を活き活きと浮き彫りにする演奏だ。ここでは、濱はピアノのイニシアティヴを主張することを決して躊躇わない。多くの作曲家がそうであるように、リームもピアノの名手であろうし、そこに重い役割をのせているのは明らかだから。

しかし、この作品から特に感じ取れることは2つある。それはリームが自分の音楽作品のなかで、特にリズムに強いこだわりをもっている点と、さらに、楽器や響きの間の関係につよい関心を抱いているらしいことである。そして、後者の要素はなんといってもドイツ音楽の中心的な位置にある。この日の演奏では序盤、古い民謡のような素材がうっすら浮かび、それを手がかりに3つの楽器が関係を探り、そのうちに、リズム動機が発展して響きの関係が力強く育っていくようになっている。これらの構造観をトリオはよく捉えており、粘りづよい表現で特徴をはっきりと描き出した。とりわけ、ドイツ音楽の要諦である「関係」についての、深い洞察には感服した。

【忘却】
アンコールのピアソラは、トリオの前回来日時のプログラムを思い出させる。既に、彼らの演奏を聴いている私たちには、その曲を知らなくとも、彼らが響きを出したとき、直ちに、ハッと思い出すことができる。それぐらい、彼らの演奏は特徴的だ。曲名の『オブリヴィオン』は「忘却」という意味のようだが、この曲を聴くと、反対に「忘れてはならぬこと」「忘れられぬこと」を感じさせる。そして、それがやはり、震災への想いに重なってくるのだろう。忘れたいこと、しかし、忘れてはならぬこと。

ベートーヴェン・トリオ・ボンのこの日の演奏も、決して忘れはしないだろう。

【プログラム】 2011年9月1日
1、ベートーベン ピアノ三重奏曲第1番
2、ラフマニノフ ピアノ三重奏曲(第1番)「悲しみの三重奏曲」
3、W.リーム 見知らぬ風景Ⅲ
4、ブラームス ピアノ三重奏曲第1番(改訂版)

 於:浜離宮朝日ホール

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