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2011年9月12日 (月)

井上喜惟 & 蔵野蘭子 ワーグナー イゾルデの「愛の死」 ほか ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ 特別演奏会 9/11

9月11日は、アメリカの「9.11同時多発テロ」発生から10年目、そして、東日本大震災発生から半年という悲劇に関係する祈念日が重なったことで注目される。こんな日であっても、私たちは自分たちの一日を送らなくてはならない。私は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ(JMO)の演奏を聴きにいった。その理由のひとつは、先日の『あさくさ天使』で出演した蔵野蘭子が、イゾルデの「愛の死」を歌うからであり、もうひとつの理由は、この演奏会が復興支援を目的としたものだからである。このコンサートは無料公演として行われ、会場で集めた募金は、被災地でその活動を取り戻そうとする学校の支援のために行動する、全国高等学校オーケストラ連盟へと寄付されるのだそうだ。

それだけに、成功してほしいコンサートだった。わざわざそう書くからには、高い共感には至らなかったということだ。指揮者、井上喜惟の演奏を聴くのは実は二度目のことだが、そのときも蔵野をひとつの目当てに、彼の率いるもうひとつのオーケストラ、ジャパン・シンフォニアの演奏会に足を運んだのだが、お寒い印象しかなかった。そのときの私の印象が、更新されるのを期待していたが、いつも、私の思いどおりにいくとは限らないものだ。

【口舌の徒、井上喜惟】
井上は弦を押しつけ、楽器のふくよかな響きを犠牲にして力強さを得ようとする日本のオーケストラの弱点を克服し、師匠筋のチェリビダッケ、シュタインらに倣って、ドイツ本流の響きに近づけるようなオーケストラを組織すると意気込みつつ、2つのオーケストラにおける活動を始めたらしい。同じ「ピリオド主義」といっても、いわゆる「原典主義」を重くみた考え方と、そうではない演奏伝統の清潔さを狙ったものの2つがあるが、さしあたって、井上はその後者のほうだった。しかし、私は彼のいうところの革新性を、彼らの演奏に見つけることはできなかったものだ。言うほどできていない・・・その代表格に、私は井上喜惟と内藤彰の2人を挙げる。彼らはホンモノではない、口舌の徒である。私のような口舌の徒が仲間だというのだから、間違いないはずだ!

【素晴らしい構想と痩せた響き】
それでも今回、前半のワーグナーは悪くはなかった。否、意外にも良かったのである。『ジークフリート牧歌』は、コジマが目覚めるまえに全部がおわってしまった感じで、やや頼りなく思われた。あまり起伏がなく、馥郁たるコクに欠け、なんとも無愛想な演奏に聴こえる。なるほど響きはきわめて清潔で、無駄な押し込みを感じない点は、この作品が早朝の一時、目覚める誕生日の妻のために、マーラー邸の階段で演奏されたという故事を思い起こさせる。

しかし、私はこの曲が好きだ。どの指揮者の録音を聴いても、これほど淡彩ではなく、ずっと味わいがふかいように記憶していた。何がいけないのだろう。ひとつにはテンポ、ひとつには響きの厚みの問題がありそうだ。このことについては、敢えて詳述しない。井上の演奏はそれでも、弦と管のラインをシンプルに描き、これら2本の糸をより合わせて、ジークフリートよりも、マーラー夫婦の関係を先に置いている点には納得させられる。この揺るがぬ関係のなかに、子どもたちの姿がひょこひょこと現れてくる。これは面白いのだが、それにもかかわらず、響きのうえで著しくつまらない印象が残った。

【一粒の小石から宙天を描くワーグナー】
蔵野蘭子が登場し、お目当ての『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」を歌うと、そこからは多くのインスピレーションを得ることができた。相手がお気に入りの蔵野だからといって、大目に見ているのではない。まず、「前奏曲」だ。アマチュアだけにいろいろな瑕は見られるものの、そのイメージは堅固で壊れない。彼らはまず、小石をひとつ、足もとに置いてみる。最初のチェロである。この響きが、独特の構造と、軽い膨らみで溜め息のモティーフをつくる。まず、これが見事な実感に満ちている。

ただし、どの曲でもきわめてテンポが遅いのは、チェリの悪影響かもしれず、この冒頭部分ではやや不自然だ。

各々の素材を丁寧に展開しながら、ひとつひとつ別の小石を置いていくような筋立ては、完全に道理のあわぬものでもない。全奏になり、ようやく拍節感が動き出す。そこから、ワーグナーは宇宙に広がる音楽を書いている。あっという間に、夜天に星を描きだす手際の良さは、これはこれで感服するばかりだ。このように、舞台音楽におけるJMOの意外な可能性については、どう説明してよいかわからない。彼らはアマチュアであるし、劇場での演奏に慣れているというはずもない。しかし、音色と音色、楽器と楽器の距離感が良く、響きは絶妙なバランスを保って広がり、かつ、その響きにはリアリティがあったのである。しかし、それ以上に感嘆したのは、最後、宙天のスケールの大きさから、虜囚の船の疲れきった女囚人たちの場面に戻ってくるところで、ここではもう、彼らは音の響きだけで、完全に場景を描き出していたといってもよい。

これがもし、もう一段、高い完成度で演奏されていたら、私はあとの蔵野の歌と合わせて、このオーケストラの艶やかな可能性について、もっと力強く主張したであろう。

【蔵野蘭子の見事な歌唱】
さて、ここに蔵野の歌が加わってくる。最初の一音から、蔵野が言葉にかける重みが、ミシッと音を立てるようだ。しばしばソプラノは高音だから、言葉は聞こえにくいのも当たり前だといわれる。しかし、その言い訳は蔵野のような歌い手をまえに、完全に通用しない。蔵野はドイツ的な唱法のテクニックを無理なく身につけている、日本では数少ない歌い手のように思われるが、言葉をはっきり伝えるという点では、完全にベルカントの境地にも至っているようだ。

私は声楽の専門家ではないので誤謬は承知のうえだが、、イタリアのベルカントは(どんなに遠くで歌手が歌っている場合でも)身近に、赤ん坊が母親に子守唄を歌ってもらうときのように聴くことができ、本質的に、言葉とふかく結びついた優しく、ときには、毒気のある表現だと認識している。一方、ドイツ唱法の枢要はファンクションであり、発声の点では「遠くから届く」というイメージで捉えられる。歌詞はファンクションに付加され、やがて、密着し、最終的に歌手の意識のなかで関係ができあがってからでないと、よく表出され得ない。そのため、イタリア・ベルカントでは直情的で、表面的な表現の起伏の組み合わせで、作品が深まっていくのだが、ドイツ・オペラでは理知的で、深い内面性に基づいた表現が粘りづよく維持されることで、聴き手を内側から揺さぶることができる。

蔵野の場合、こうした両方の特性をはっきり意識し、それぞれの良さを損なわない範囲で、ハイブリッドな表現となっているのが独特だ。しかし、そうしたものよりも、まず何よりも先に蔵野を特徴づけるのは、青いサカナ団の公演でも示したような、内面への没入の異常なまでの深さであろう。正に、彼女は一声歌い出したときから、完全にイゾルデそのものであった。そこから出てくる、奇跡のような ’Mild und leise(穏やかに、静かに)’の歌い出しに、私は陶然となってしまう。そこには傷つき、愛の力のみで立っているひとりの女がいた。彼女は清廉な歌声と、真心によって、辛うじて自分を支えている。彼女の歌のなかには、確かに「まだ生きている」という実感と、いま、正に死にいくことが矛盾なく寄り添っているようだ。オーケストラの響きは、嘘のように透明で柔らかい。まるで、イゾルデに導かれるかのように、響きはこの日、予想もつかなかったほどに美しくなった。

響きが徐々に、盛り上がっていく。しかし、ここで死にいくイゾルデのために、蔵野はすこしずつ退いていくことも忘れない。並の歌手ならば、「もっとわかってほしい! 私はここで頑張っているのだから!!」と、声を張り上げたくなるところで、彼女はそれをしない。彼女のやるのは、2つのことだ。まずはポジションを改めて正し、オーケストラとの関係を整えること。そのために、彼女は一歩前に出る。オーケストラの響きはいつも、蔵野の半歩うしろを追い回す。厳しいせめぎあいに、イゾルデへの共感は自然、聴き手のなかに呼び起される。

蔵野はそれを感じながら、次に、言葉を一際、ハッキリ歌おうとするのである。それは、私たちのレヴェルで明確に感じられるほどだ。そのため、確かに弱って死んでいくイゾルデの姿が、彼女の声には紛れもなく描写されているにもかかわらず、歌の力は決して弱まることがないようだ。これこそ、井上がやりたがっているような、ドイツ音楽の秘密の、本当の実践なのではなかろうか。

【あらゆる意味で大切なものが欠けているブラームス】
2つの秘密に包まれた、蔵野の退き際の見事さ。これと比べれば、もう、あの煮えきらないブラームスを語る言葉などない。拍節感に欠け、構造がゆるみ、だらだらしたボケたリンゴのような響きに、誰も実感など抱きはしない。第4楽章など、フルネ最後のコンサートを思い出すような遅いテンポ設定だが、井上のそれはもっと腑抜けているのだ。のんびりしすぎていて、ブラームスらしい気取りのようなものがまるで欠けていた。それまでの楽章に表れた素材などは、ジグソーパズルのピースがあまりの暑さでふやけてしまったように、第4楽章の再現ピースに嵌らない。対位法の部分もラインの彫琢が十分でなく、鋭さに欠けるため、その後の要所で構築される鋭角なフォルムのためのヒントになっていかないのであった。

私は技術的ないろいろなアヤには、それほど厳密に批判することもないと思う。しかし、なにもインスピレーションを感じないという演奏には、決してぶつかりたくはない。その高い志にもかかわらず、ブルーメン・フィルや新響、オーケストラ・ダスビダーニャのように、もういちど聞いてみたいと思わせるような楽団ではなかったのは残念なのである。

【プログラム】 2011年9月11日
 1、ワーグナー ジークフリート牧歌
 2、ワーグナー 前奏曲とイゾルデの「愛の死」~歌劇『トリスタンとイゾルデ』
  (S:蔵野 蘭子)
 3、ブラームス 交響曲第2番

 コンサートマスター:山本 幸一

 於:パルテノン多摩(大ホール)

【補足】
後刻の報告によれば、募金額は50万円を超えたとの次第。恐縮至極。もちろん、私も多少は献じさせていただいている。

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