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2011年9月18日 (日)

森川栄子 with アクセル・バウニ pf. ライマン & クジェネーク 現代歌曲フルコース 9/18

【森川栄子の素晴らしい歌唱】
このコンサートは、本当に驚くべきものだった。日本を代表する技巧派歌手の森川栄子が、アリベルト・ライマンやエルンスト・クジェネーク(クシェネク)を中心に、現代歌曲のみで組んだコンサートである。さぞかし居心地の悪い衒学的な響きばかりがオペラシティの地下ホール(リサイタルホール)に響いたのであろうと考える人は、現代歌曲の世界にまったく無知なのであろう。私も、そうした無知から一歩も出るものではなかった。ただ、歌劇『ジョニーは演奏する』などでクジェネークの歌は好きだと思っていたし、ライマンの歌曲もわりに美しいものだと理解はしていたつもりである。

しかし、こうして森川が集めたプログラムを実際に耳にしたとき、単にそこそこ聴けるというようなレヴェルを越えて、もっと多くのインスピレーションを得ることができたことが驚きであった。まずは、森川のその堂々たるパフォーマンスに敬意を表すべきだ。高音が厳しく集められた歌ばかりを、こんなにもタフに、ふくよかに歌い上げることのできる歌手は、日本国内に留まらず、海外でもそう多いとは言えない。しかも、単に高音を出せればいいというのではなく、多くは作曲家のもつ言語(発語)センスと結びついた複雑なフォルムのなかで、理知的に配置されている響き。その意味をはっきりと示しながら、かつ、直感的にも鋭く動く響きを身体全体で捉えるというパフォーマンスに、私は芯から揺さぶられる想いがしたものだ。

実は、かつてはフィッシャ=ディースカウの伴奏者として鳴らし、現在では作曲家としても(欧州では)著名なライマンは、森川のベルリンでの師匠に当たる。伴奏で来日したベルリン芸術大学の教授、現代声楽曲の伴奏で講座をもつアクセル・バウニは、ライマンのアシスタントも務めた。これら直系の弟子たちによって演奏されたということもあり、作品は驚くほどに輝き、単に響きが良いというに止まらず、作曲家のこころを映すようなパフォーマンスであった。そのことについては、もうすこし詳述する。

意味がわかるかと言われれば、もちろん、完全にわかるとは言いきれない。特に、森川自身がプログラムに書いているように、音楽よりは、主に現代詩によるテクストのほうが難解だ(一応、日本文学科だった私にも)。しかし、歌曲においては幸い、歌手や伴奏者こそが、いちばんわかりやすい翻訳者なのである。その翻訳を通じて、私の掴み得たところを書き残しておきたい。

【テクスト、音楽というものの溶け合い】
まず、総体的な感想であるが、これらの作曲家たちの作品を聴くかぎり、海外における歌曲の流れは、単に響きや構造の新しさ、それらの味わいのみにこだわるのではなく、はっきり、それらの間の関係に注目しているように思われる。歌曲は当然のことながら、テクスト+音楽(声+伴奏)によって構成される。その響き自体は、例えば、ベートーベンの時代から比べて、そんなに圧倒的に変化しているとは言いがたい。それはベートーベン、シューベルト、シューマンぐらいしか歌曲を知らない人が、いきなりライマンの音楽に接したら、すこしは驚きも感じるであろう。しかし、この間に、ブラームス、R.「シュトラウス、シェーンベルク、ベルク、レーガー、ヒンデミットなどを置いてみたとき、ライマンやクジェネークが突然、お化けのように降ってわいたものではないことがわかるだろう。

それよりも、彼らの歌曲で驚くべきなのは、「テクスト+音楽」という枠組みがハッキリと崩壊し、たとえ、あとから既存の詩に付曲する場合でも、それらの関係はドロドロに溶け合ってしまうということである。これは、明らかにシューベルトの歌曲には見られない性質だ。現代歌曲は、テクストと音楽を「融合した」というようなきれいな言い方はできず、多分、それらは否応もなく溶け合ってしまうだけなのだ。そして、その溶け合い方に、ある種の形式(あるいは、センスや直感)をみているのが現代作曲家なのである。クジェネークは12音を使うという。しかし、実際には、この雁字搦めのような形式の重みが、言葉によって逆支配されているように感じられる。

私はこれらの作品に形式の重みや厳しさではなく、その崩壊のみを感じる。それだけに作曲家は自由であり、そして、かつて一瞬でも、芸術らしいことに手を染めたことがある人ならばよくわかるように、自由であることは芸術家にとって、なによりも恐ろしい拷問なのである。

【涙の日】
森川はまず、クジェネークの『おお、涙の日よ』で始めた。リルケの詩に基づき、1925年に発表した。雲に覆われた空を、ラクリモサに沈む聖母の姿とダブらせて表現した寓意的な詩作。森川はプログラム中の「ごあいさつ」のなかで、この暗い雲が東北だけではなく、日本を広く覆っているという寓意的な表現を投げ、第2曲で涙を流し、それを打ち払って春が来るというイメージを打ち出している。それはともかく、作品自体はとてもドッシリした重みのある歌曲であり、1つ1つの言葉が私たちの上に、絶えず降り積もっていくような感じを抱かせる。第2曲では早くも内部奏法などがみられるが、それはボヤボヤしていると気づき得ないほど、爽やかに仕込まれているにすぎない。表現はあくまで、ソプラノの張りつめた声の響きのなかのみに閉じ込められているようだ。

【ヴェクセルラーメン:枠を変えること】
同じクジェネークでも、次の『ヴェクセルラーメン』は題名どおり、示唆的な作品である。このあまり聴かないドイツ語=ヴェクセルラーメン wechselrahmen とは、枠(フレーム)を変えるという意味であり、作品では第5曲に、そのままの形で登場する。先に述べたように、この作品にはごく初期的なものと思われる、12音技法の整然とした基本構造がみられるが、森川の歌う声楽部分から受ける浸食により、その響きは基本的な12音構造からはヴェクセルラーメンされ、ある種の弾力性を帯びて聴き手の耳へと届く。その関係は、この作品が12音という(当時としてはまだ新しい)イディオムを使っているという以上に、新しいフレームとして、私たちのイメージを掻き立てるのである。

声楽の表現はソプラノの高音を強く押し出すスタンスが中心となっているが、2曲、3曲とつづくうちに、本来であれば、そのような表現には聴き手の嫌悪感が貼りついてくるはずである。ところが、我々はそれらの表現が積み重なれば積み重なるほどに、その表現に順応してくる。その秘密のひとつには、森川の発声の柔らかさということがあるにちがいないが、より重要なのは、作曲家の表現手法のなかに求められるはずだ。それは多分、ある種のずらしや揺れ、いわばヴェクセルラーメンともいえる要素によって、響きが理知的に切り替えられているところからくる、ひとつの帰結なのである。

エミール・バルトによる詩は、なかなかユーモアのセンスに富んだものであるが、クジェネークはそれを正面から炙り出すという手法には満足せず、非常に遠回しなやり方でアプローチしている。既述のような構造的なトリックを用いながら、そのなかにテクストの味わいをいったん回収してから、腹の底からそれを絞り出すという具合で、ソプラノに歌わせている。聴き手はそのような歌い手の苦労に容易に寄り添うことができ、そこに、このような難解な作品であるにもかかわらず、愛情というものが生まれ出るのは自然なことである。

【ライマンにおけるヴェクセルラーメン】
そのヴェクセルラーメンの思想は、次のライマン『庭園のアマリア』では、詩の形式へより直接的に関係している。原詩はベートーベン『第九』で有名なシラーのものであるが、その古風な調和を、ライマンのセンスが新しいフレームのなかに移動してしまう。この作品でより明らかなのは、1つ1つの言葉に対する作曲家の単に批評的ではない、全人格的な衝突である。私はこの作品を聴いていて、先日、目にしたラグビーの風景が浮かんできた。ソプラノが一歩、言葉を進めるだけでも、もう向こうから幾多のタックルが来て、ようよう進むこともままならない。そのような言葉の抵抗をライマンは引き受け、一枚一枚、古いパピルス写本のページを繰るようにして、響きを置いていく。そのようなきれぎれの動作にもかかわらず、こころの連結は、いつもポエジーとともに寄り添っているのが凄いところだろう。

声楽とピアノ伴奏の関係も、いささか複雑である。しかし、私が捉えたのは、歌い手の言葉に反応して、ピアノの響きが揺動し、そこからシャボン玉のように形が生まれるというような、流動的なスタイルであった。もちろん、「流動的」といっても、それはバロック的な自由さとは無縁なものであるが、かといって、予定調和的にプログラミングされたような、ファンクションは感じさせず、ひたすらに直感的であることろが醍醐味である。このピアノのスタイルに声楽が自由に存在するのは、ライマンらしい特徴のひとつで、それは最後に演奏された1曲にも共通するところだろう。

【一服の清涼剤:涅槃】
6曲のなかで、木下牧子の『涅槃』は一服の清涼剤のようだ。ただし、私がかつてやっていたような下手くそな合唱団が知るような作品からは、『涅槃』のイメージは浮かんでこない。特に森川の歌う『涅槃』はとてもスピリテュアルであり、その実態は知らないが、木下がまるで熱心な仏教徒でもあるかのような印象を抱かせる。そのような意味では、森川は木下の曲を介してではあるが、弦楽四重奏曲の萩原朔太郎とより親密なように思われた。しかし、森川の表現でさらに印象的なのは、この歌のなかに出てくる植物や笛の音といった、「手触り」のあるものだ。むしろ、こちらのほうが木下らしいところであり、菩提樹、密林、合歓の花、蓮華、笛の音といったキーワードに、森川が注ぐふかい情愛は、もちろん、木下の書いた曲の美しさを鏡のように反映するものだ。

その高貴で、理知的で、かつ、情熱に満ちた歌いくちは、この木下牧子による佳品を、ライマンやクジェネークといった作曲家たちと同じようなフレームに置く。

【言語のオークション】
次の『9月のアルバム』を書いたフィリップ・マインツは、1977年生まれで、今回、演奏された作品を書いた作曲家たちのなかではもっとも若い。その詩は4年先に生まれたロン・ヴィンクラーという詩人によるものだが、倒錯的で、意味内容だけによって読み解くことはもはや簡単ではない。それがまた、クラスタ的な響きのなかに出現するのだから、もはや、言語の意味内容は引き千切られ、枝から落ちたひとつひとつの果実のような感じになっている。

ただ、その響きはクラスタ的とは言っても、相当に控えめなものであり、言語世界を完璧に破壊し尽くすような方向性には向いていない。そうではなく、ひとつひとつの言葉を慎重にオークション(そういうのに抵抗があるなら、オーディションと呼んでもよい)にかけるようにして、大事に積み上げていくのである。言葉はこの上もなく尊重され、ときには、無伴奏でソプラノが独白(独唱)するという技術的な見せ場すらも存在する。それは器楽曲のカデンツァ的な見せ場でありながら、ほとんどメンタル的には「見せ場」というには当たらず、不可解な危機のようなものであろう。歌の内面を捉まえられず、ただ、技術だけで乗りきるような歌い手には、この独白を乗り越えることは難しい。森川がこうした部分で圧倒的な印象を示せたということは、彼女がどれだけ深く、この作品の内側に喰い込んでいたかを証明するものなのだ。

【凄まじいイメージと音像】
最後の1曲、ライマンの『ナイトピース』は、とても凄まじい作品だ。字面を追っていくと、確かにダイナミックなポエジーの構築こそ感じられるが、そのような凄絶さまで感じさせるわけではない。ここに登場する天使セラフィムと、その軍勢をイメージする精神的なリアリティが、作曲家私の間でこうも違うとは、絶望的な気分になる。なお、原詩は20世紀で最高に個性的な文学者、ジェイムズ・ジョイスがアングロ・アイリッシュの方言を用いて書いたものだというから、なおさらのことである。

さて、作品を強烈に印象づけるのは、中盤から出てくる猛烈なピアノの特殊奏法である。「内部奏法」については知らないわけでもなかったが、このライマンの作品では、途中からピアノはもう、ピアノでないものへとヴェクセルラーメンさせられる。アクセル・バウニは立ち上がり、この奇妙な硬質のハープに向かい合うからだ。その響きは初めはまだ秩序立っているが、そのうちにポエジーからも、声楽からも独立し、暴走してしまうのである。ただし、ディス・コミュニケーションとは言えない。ピアノのカデンツァとなる部分はともかく、共演部分では、森川の声とバウニの放つ硬質ハープの響きは、微妙なところで瞬間的に接点を築き、非常に幅広い意味で重なり合うからである。

それは原詩に基づく天使の軍勢の神秘的な巨大さを示すばかりではなく、途中からは、もう、この作品の書き手、つまり、ライマン自身のによる止むに止まれぬようなこころの叫びとして聴こえてくる。常軌を逸したようなピアノの奔流に接して、私たちは否応なく、この作曲家にとって、何がこうさせるかのかを考えることになる。もちろん、その答えはどこにも見出せない。ジョイスの詩は森川の翻訳を見るかぎり、やや硬質で怜悧である。その冷たさのなかに、ライマンは傷つき、苦しむ者の不思議な情熱を感じ取っている。それは例えば、ベルクの『ヴォツェック』やヴォルフガング・リームの『狂っていくレンツ』の世界を思わせる。ただし、それらよりも、幾分、ライマンは楽天的だというにすぎない。

【まとめ】
私のこのような解釈が、どれぐらい妥当なものであるのかはよくわからない。きっと、専門の方からみれば、相当に的外れな面もあるだろう。しかし、私は思う。そう思わせたのも作者の責任だ。私たちは、もちろん、正しい答えを求めるべきであるのは当然である。しかし、そもそも「正しさ」など、こうした場所に存在するのであろうか。そして、作者の求める「正しさ」など本当に存在し、逆に、その「正しさ」を受け手に要求するなどという傲慢があり得るのであろうか。世界観や、もっともらしいひとつの帰結に受け手を導かねばならぬとは、アプリオリに(自明に)、結論があるべきだという古い考え方であろう。もちろん、答えはあるように書かなくてはならぬ。しかし、その幅はあとの時代ほど、広くなる。その幅に、作者が寄りかかることは許されない。しかし、受け手にとっては、そのような揺らぎだけが、このような作品において唯一の安らぎである。

ヴェクセルラーメンとは、そのような揺らぎのことなのかもしれない。

なお、ライマンの作品は日生劇場で歌劇が2作品連続で取り上げられる予定になっているなど、今後、日本でも触れることができる機会があるのはありがたいことだ。クシェネークはもう欧州の劇場では当たり前だが、まだ、日本ではあまり上演される機会に恵まれない。

【プログラム】 2011年9月18日
 1、クジェネーク おお、涙の日よ op.48
 2、クジェネーク ヴェクセルラーメン op.189
 3、ライマン 庭園のアマリア
 4、木下牧子 涅槃(1995年改訂版)
 5、マインツ 9月のアルバム より、Ⅰ、Ⅱ、Ⅳ、Ⅴ
 6、ライマン ナイトピース

 pf:アクセル・バウニ

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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