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2011年10月13日 (木)

ペーター・レーゼル ピアノ・ソナタ第32番 ほか ベートーヴェンの真影 最終回(第8回) 10/12

先日のコンチェルトの演奏で、再びレーゼルへの熱を点火した私は、この日のリサイタルにも勇んで足を運んだものの、帰り道、私はどうも演奏会というよりは、ミサに行ってきたような気がしてきたものだ、無論、信徒でない私がミサにいくはずはないが、ペーター・レーゼル神父のありがたい法話を聞いて、帰ってきたような感じが本気でしていたのも事実だ。このシリーズの初回に「ハンマークラヴィーア」を聴いて、このピアニストの凄さに驚嘆し、その後、全部を聴いてきたわけではなかったが、この日、いよいよ最終回となる場所に帰ってきて、過ぎ去った時間を激しく惜しんだ。

【ソナタ第2番】
こういう言い方は実のところ、あまり好きではないが、レーゼルは尻上がりに調子を上げた。最初の第2番(イ長調)の演奏も決して駄演ではないが、メカニカルな面においてはもう一息という印象である。序盤はモーツァルトのような軽妙さが目立ち、第2楽章はラルゴでアパッショナートという矛盾的な指定をどのようにクリアするかが課題となるが、装飾音の弾き方にその真髄を見せつけた。終楽章はのちの「ワルトシュタイン」を思わせる高音部の旋律/音型が気を惹くが、ここではもっと単純で、素朴なものにみえる。レーゼルは表向きぶっきらぼうに、初期ベートーベンのアイディアの面白さを爽やかにかわす。

【31番~奇跡のフーガ】
第31番(変イ長調)は、作曲者が、「ソナタ」という堅固な構造を内側から蕩けさせるような試みをしたのではないかというイメージが感じられる演奏だった。3つの楽章はあたかも1つずつの小品のように自立し、堂々と完結している。レーゼルほど、その完結性に注目したピアニストを、私は知らないのだ。しかし、一方で、厳然としてソナタの形式は生き残っており、ベートーベンを支配しつづけている。レーゼルの清らかなフォルムの表現が、そのことを明確に語っているのだ。しかし、このころのベートーベンはもう、それに苛立つという感じもなく、こころのうちがカラッとしている。レーゼルは力を抜き、だんだんと響きだけに聴き手が注目するように視野を絞り込んでいくことで、その内心の冷たさにイマジネーションを向ける。

一方で終楽章、アダージョに寄り添う歌ごころは何とも言えないものがある。だが、その甘みに引きずられず、動的な部分に入っては表現を削って、ゆったりと構造の水路のなかに聴き手のイマジネーションを流し込んでいくあたりが、とても見事だ。この水路の先に、美しいフーガの楽園が待っている。

いつも言うように、ベートーベンは自分が納得のいく作品を書けたときには、ほぼ例外なく、しまいにフーガを書いて神さまへの祈りを捧げるものだ。この第31番でも、そのような印象は感じられる。ところが、レーゼルの演奏によってこの作品を聴くと、いささか趣がちがうように感じたものだ。この作品では、例の3つの独立した「歌」が、このフーガのために書かれたという感じがするからである。それは前楽章までの素材を回想→否定しながら、第4楽章のコーラス付きの部分のために、表現の焦点を積み上げていく交響曲第9番の構成と似通っている。ただ、交響曲の場合は、完全にインディペンデントなコーラス付きの破天荒なフィナーレであるのに対して、ソナタ第31番においては、より内省的で、エレガントに形式的である点が異なっている。

その優雅さを醸し出す精確で、澄みきった打鍵、そして、ギリギリまでインテンポで通す粘りのスタンスは、簡単なようで、なかなか真似のできないものだろう。ところが、終盤に入って、レーゼルは厳しいアッチェレランドをおもむろに示して、作品を見事に浮揚させるところが圧巻である。このダイナミックな加速による凄まじいリズムの飛翔は、これを耳にしたもの以外には説明しにくいところだが、ひとつだけ付記するとすれば、この飛翔に終始、関係するのは左手のゆたかな響きであったということだ。

【1番~ロマン性の萌芽】
後半は、最初にソナタ第1番を弾く。私は初期の作品では、この第1番に意外な愛着がある。その作品はベートーベン以前の時代と緊密に関係しあいながらも、結局のところ、どこをどう切り取ってもベートーベン以外のものではあり得ないという個性を、ハッキリと示しているからだ。レーゼルの演奏を聴くと、そのことはより明確である。ベートーベンは最初から最後まで、ベートーベンなのであって、これまたいつも言うように、天才は成長しないのだ(その代わり、開花する)。この作品のなかには、ベートーベンのすべてがある。例えば、第1楽章の簡潔で、鋭いメッセージのつくり方。第2楽章における、丁寧な素材の積み重ねによる響きの膨らませ方。一見、型通りな舞踊楽章の、驚くべき表情のゆたかさ。プレスティッシモの頑強なアイロニーと、対位法を最大限に引き伸ばしたロマン性の萌芽となる表現の艶やかさ!

【32番~拍節感の破壊】
そして、神父の説教が始まる。ソナタ第32番の演奏だ。

私はこれまで、レーゼルの演奏を保守的で揺るぎない解釈と、そのなかでも最上級の鋭さを伴った演奏ということで印象づけてきたものである。そして、ベートーベンの32番といえば、ブリュッヘンの ’up’/ ’down’ という考えを借用すれば、’down’ の典型的な作品であって、つまり、それは形式的、精神的な革新性の有無という以外に、バッハ以前の古典作品への回帰、あるいは、その忠実な模倣ということを意味しているはずだった。ところが、レーゼルはこの作品を徹底して新しさに満ちた作品として、大胆な解釈をみせたのだ。

まず、レーゼルが打ち壊してしまったもののうち、もっとも衝撃的なものは、ドイツ音楽本流の伝統のなかには是非ともなくてはならぬと思われる「拍節感」である。このタマげた発想に戸惑いながらも、私はしばらく判断を保留して、耳を澄ますことに努めた。その演奏はベートーベンの演奏としては、未だかつて、聴いたことがないようなものである。強烈な打鍵で、荒々しく叩きつけられる和音のブレーキの部分で否応なく感じられる以外、このピアニストはすべての拍節感を消失させ、レガートともなんともつかない響きのマジックを展開した。彼の演奏からは当然、期待できた対位法の典雅なフォルムも敢えて前面に出すことはない。その結果、ショパンの変ロ短調ソナタの最終楽章のように、ピアノの響きは謎めいた形で中盤まで運ばれる。繰り返すが、これには面食らった。

その分、展開部から始まる神々しいフガートの流れはいっそう揺るぎなく引き締まる。だが、第31番の終楽章でみられたような上(=天国)へ向かっての浮揚性はまだ出現しないところが面白い。その代わり、それは第2楽章のアリエッタの冒頭で、いきなり印象づけられる。その響きの柔らかさは、これまで隠されてきたものだ。

【風刺→神々しさへ!】
そうしてはじまった第2楽章は、相当、アイロニカルな表情を見せる。主題はいま述べたように柔らかく、かつ、適度に荘重であるが、重すぎはしない。このテーマに含まれる舞踊性が、少しずつベートーベンの鋭いイロニーに浸食されていくことになる。その「浸食」は在りし日のグルダを思わせるジャズ的な即興性を飛び越えて、レーゼルの場合は、さらにロック的な世界へと飛び出していく。こうしてベートーベンが描いたものは、『会議は踊る』のおかしなウィーンの世相だったのではなかろうか。この時代にはまだないはずのジャズ的な要素を演奏のなかに溶け込ませることは、なにもレーゼルによる独創ではないが、それをさらに一歩進めて、この作品のなかで、ベートーベンのアイロニーをハッキリと捉えた人は、これまであまりなかったのではないだろうか。

もちろん、それだけではない。この空騒ぎを通ったあとは、レーゼルの筆致はいっそう厳しくなる。打鍵の精度はこの上もなく高まり、弱々しくもハッキリと奏でられるトリルにおいては、正確な深さで均一な打鍵が守られ、その鍵盤が打楽器のようにその底部に打ちつけられる音までが神々しく客席に届いてくる。そのトリルをチャーム・ポイントに、レーゼル神父の法話は妙な言い方だが、冷たく熱を帯びていくのである。適度な強さと、もう誰も文句の言えない絶妙のテンポをゆったりとキープ、そして、いつの間にか復活したさりげない拍節感にもとりつかれ、フロアでは身じろぎもままならないほどの緊張感が走った。その音楽の変わり目では、ドキンとさせられるような神秘的な気持ちに包まれ、心臓がバクバクする。インテンポでギリギリまで粘り、コーダも大詰めになって、再び第31番でみられたようなアッチェレランドが僅かに解放されると、響きは自由に精霊化して立ち昇っていくのであった。そのまま、響きは煙のように空間のなかへ溶けていく。

【自分を消したレーゼル】
この演奏には、もう、そこにいたほとんどすべての人が胸を打たれたにちがいない。正に、「ベートーベンの真影」はそこに姿を現した。協奏曲のときと同じく、私たちはそこに、ベートーベンらしい威容でも迫力でもなく、また、強烈な「精神性」でもなく、清々しい神々しさをみた。だが、「神々しさ」とは一体、何であるのか。それは実に、「自分が消える」ことである。少なくともバッハ的な神々しさとは、そのようなものだ。レーゼルは最後の瞬間、スタインウェイの前に座ってはいなかったろう。煙のように消えた響きのなかに、彼の存在のすべてが映り込んでいただけだ。

【付記】
演奏後は、さすがにこのシリーズの最終回とあって盛り上がった。フロアには、KSTのコントラバス奏者である河原泰則などの姿も見えたが、彼をはじめ、多くの人たちが最後はスタンディングでレーゼルを讃えたものである。

既に協奏曲のところで触れたように、来年度以降、レーゼルはロマン派の音楽で再びプロジェクトをもつことになる。そのときに、このベートーベンの演奏は、是非ともアタマのなかに入れて置かなくてはならない。もはや徹底的な新しさを示したベートーベンとの対峙のなかで、ロマン派の天才たちがいかに自分たちの世界を切り開いていったのか、彼は私たちが既に知っていると思っていたものに新鮮さを与え、ひとつひとつ謎を解き明かしてくれるにちがいない。

今月末には、チッコリーニの演奏を聴く予定だ。私の場合、キーシンは無視。それでも、ピアノ・ファンには堪らない秋、10月の東京!

【プログラム】 2011年10月12日
 1、ベートーベン ピアノ・ソナタ第2番
 2、ベートーベン ピアノ・ソナタ第31番
 3、ベートーベン ピアノ・ソナタ第1番
 4、ベートーベン ピアノ・ソナタ第32番

 於:紀尾井ホール

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