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2011年10月 2日 (日)

クァク・スン シューマン 交響曲第4番 大邱市立交響楽団 アジア・オーケストラ・ウィーク2011 10/2

【はじめに】
アジア・オーケストラ・ウィーク2011では、3つの楽団が競演する。被災地の仙台フィル、そして、同じく地震災害で壊滅的な打撃を蒙ったニュージーランドのクライストチャーチ響、さらに、震災復興に逸早く手を貸してくれた隣国の韓国からは、3月につづき連続の来日となる大邱市立交響楽団が参加する。その初日、大邱市立響の演奏を聴いた。

私の期待は、このクァク・スン(郭昇)という指揮者に向けられていた。社会実験「エル・システマ」で有名なシモン・ボリバル・ユース・オーケストラを指揮した風景を動画投稿サイトで見つけ、なかなか活き活きとオーケストラの味わいを引き出していたからである。しかし、この指揮者はなかなか食わせモノであって、信用がならない。そういう理由は追々述べていくことにするが、一言でいって、このオーケストラに対して求める着地点が甘すぎるのだ。

【大邱市立響は可能性ゆたか】
その前に、大邱市立響に対する総評を先にする。まず、とても質の良いオーケストラであることは間違いないところだろう。あまりフレキシビリティはないが、透明で、清々しい響きをもつ。音色の面をすこしばかり割り引いてみれば、フランスのオーケストラのような感じだ。馬力もあった。指揮者に忠実で表現にも一体感があり、東アジア的に勤勉なオーケストラといえる。日本のオケでいえば「日フィル」にもっともちかい感じがしたが、それでも、私たちの国にはないタイプのオーケストラのように思われる。

【よく特徴の出たユン・イサン】
最初のユン・イサンは、さすがにお国ものでよかった(ただし、委嘱と初演は本邦のオケと合唱団)。以前、このシリーズで同国の光州響が『光州よ、永遠に』という政治的なテーマをもった作品を扱ったことがあるが、今回の作品『焔に包まれた天使』も民主化運動にテーマが求められており、そのなかで抗議のために焼身自殺を遂げた学生たちの御霊のために作曲されたということだ。ただし、その作品は厳しさのなかにも、魂の美しさを表現するかのように清廉な響きがときどき輝くほか、打楽器などの激しいリズムのなかには、ふっと韓国の民俗的な要素が潜んでいたりして、政治一辺倒ではないところに面白みがある。むしろ、ユン・イサンという作曲家にとっては、こちらのほうが本当の音楽的理想に近いのであって、その点は後続世代の同じアジアの代表者、武満徹とも接点のあるところだ。

そのせいか、あるいは、オーケストラのもつ特質のせいか、今回の演奏はとても透明で、静けさが漂うものだった。そこが印象づけられたことでも、この演奏の質がなかなかに優れたものであったことが知れる。

ただし、この作品の最後にエピローグとして付された主に女声合唱と独唱ソプラノのための部分(ヴァイオリン、チェロと木管楽器、チェレスタによる伴奏)は、主要な部分がおわり、アプローズを挟んで、まったく別の曲のように進められたのは疑問である。もともとこういう風な演奏が想定されていたのかもわからないが、本来は、すべての部分をつづけて演奏すべきなのではなかろうか。なお、合唱は、初演を務めた団体、東京レディース・シンガーズの面々が担当した。

なお、この日は別の会場で、ユン・イサンの弟子でもあった個性的な作曲家、三輪眞弘の「個展」も開かれていて、どちらに足を運ぼうか迷った末に、師匠のほうを選んでしまった。皮肉なものである。

【つづかぬ喜び】
最初の1曲を見るかぎり、日本のオーケストラもウカウカできないほど、優れたオーケストラだということに背中を寒くさせられた・・・というよりは、嬉しく思った。こうして東アジアの国々が、産業の面ではライバルであっても、文化の面ではしのぎを削って、欧米人の怠慢に弓を射かけていくべきだろう。しかし、私の喜びは1曲のみでおわった。次のモーツァルト『エクスルターテ・ユビラーテ』も、シューマンの交響曲第4番も私の大好きな曲目である。それだけに、点数はかなり厳しくなるものだが、特にシューマンは酷い演奏と思われた。

【動かぬオケがソプラノを見殺しに】
しかし、まずモーツァルトが先だったので、この演奏でオーケストラがまったく動かない(動けない)のをみて、韓国では、コンサート・オーケストラがほとんどオペラに関わる機会がないのではないかと疑った。もちろん、韓国におけるオペラ事情には、まったくもって無知である。トップ指揮者の張明勲が名うてのイタリア・オペラの達人であり、ベルカント系を中心に、韓国出身の歌手たちが欧米の劇場を席巻しているのも知っている。しかし、韓国国内ではどうなのであろうか。一応、このオケの地元、大邱市でもオペラ・フェスティバルが開かれていると紹介されているが、あのモーツァルトを聴くかぎり、優れた歌手たちの輩出にもかかわらず、国内の歌劇場での活動は盛り上がっていないと判断せざるを得なかった。

この演奏は、まったく論評に値しない。モーツァルトの形式をまったく理解しておらず、オケの動きにも全くフレキシビリティを欠いていた。そのため、歌手はいつも独りにされ、その結果、ソプラノのイ・ユンギョンもその能力を発揮しにくい状態だった。イはユン・イサンの曲では、なかなかに芯のつよい、爽やかヴォカリーズを聴かせていたのである。ただ、そのときにはオケはほとんど参加せず、数えるほどの奏者がサポートに回っただけであった。本格的なオケ伴が加わって、イのパフォーマンスは明らかに硬くなってしまう。それには彼女自身の問題もなくはないが、より責任が大きいのはオケの演奏があまりにも貧弱で、歌いやすいフォルムを整えていなかったことだ。

【韓国では古楽が培われていない!?】
メインのシューマンを聴いて、オペラに慣れていないのではなく、古典派以前の音楽への適性が薄い点が多く感じられた。きっと10年前の日本のオーケストラも、こんな感じだったのではないだろうか。そのなかで(というには年代が合わないが)、バッハ・コレジウム・ジャパンが生まれ、リベラ・クラシカが独立し、寺神戸亮のグループが頑張ったり、トラヴェルソの有田正広、オーボエの三宮正満、古典四重奏団、アントネッロなど、多くの古楽関係者が努力して培ってきたものが、韓国ではまだ薄いのかもしれない。これまた韓国の事情には暗く、実際には、そんなことはないのかもしれない。とはいえ、あのシューマンを聴くかぎり、私のように誤解する人がいても申し開きはしにくいだろう。

シューマンの交響曲第4番は近年、ピリオド派の喚起した古典音楽との対峙のなかで、かつては重すぎると批判されたところから、急速に地位を回復してきたところがある。シューマンの交響曲はメンデルスゾーンと同様、バッハ以前の古典作品との対峙に悩む作曲家の姿をイメージするところから、より多くのものを得ることができるようだ。クァク・スンのドライヴは、このような点においてまったくもって大時代的であり、そのなかでも表現があまりにも直球的なことで、作品のもつ良さからは大きく後退している。ピリオド派に膝を屈しないのが悪いのではなく、これから述べる点において、あまりにも表現が淡彩なのだということが言いたい。

例えば、序奏のバロック的な謎めいた部分であるが、このなかにおいて、クァク・スンは響きやテンポの押し引きをまったくつけず、呼吸感に欠けていた。そのため、響きに立体感がなく、響きの盛り上がりも直線的で、面白みに欠けるという結果になっていたのである。主部に入り、急速な流れを絶ち切って、再びバロック的な謎めいた展開をみせるとき、その切り替えポイントに置かれる3つの音。多くの指揮者はここでぐっと踏ん張り、ためをつくってから次の展開に移るのがよさそうだ。しかし、クァクはその弾力性を拒み、響きの空白をすぐに埋めたがる。それを聴いて、私は以前、一緒に働いたソウル出身の韓国女性のことを思い出し、彼女の話し方を思い出していた。

彼女は大抵、まくし立てるように言葉を継いだ。それは無意識的なもので、彼女の性格云々という以前に、彼女自身の内側に書き込まれていたカンヴァッセーション(会話)のリズムのように感じられたものである。もちろん、彼女はイイ人だったし、相手とのコミュニケーションにも問題ない人物であった。きっと、韓国の人たちのアタマのなかでは、こういうリズムはきわめて自然なものなのにちがいない。私は敢えて、こうした部分を批判するのは悲しいと思った。このような要素が、ある種の語りくちの特徴のようなものとして「味わい」になるのであれば、それもよいと思っている。この場所は、「アジア・オーケストラ・ウィーク」の機会のためにあるのだから。このことは、前回のバレエ・オーケストラの記事で申し述べたこととも矛盾しないだろう。

【私を苛立たせるクァク・スンの指揮】
しかし、クァクの音楽づくりは以後、私を徐々に苛立たせることになった。

緩徐楽章。オーボエに、独奏チェロのオブリガードがつく形で、私の考えでは、追々、チェロの味わいが深まっていくところに、この楽章の面白さの半ばがある。しかし、クァクの演奏では初めからチェロが主張しすぎる。このオーケストラのなかで、このチェロ奏者は「名物」なのであろうが、それを示すために音楽があるのではない。正にこれはバロックの手法であり、シューマンがどのように音楽を構成していたかを考えさせる絶好の材料である。それなのに、クァクの演奏は、あまりにも素っ気ない。

スケルッツォは全体の構造がいびつで、弦が跳ね上げるような響きのところでは、あまりにも響きが軽佻浮薄である。ひとつひとつの音の響きに弾力性がなく、あまりにも硬い。そのせいか、トリオでは必要以上に響きが優しくなり、気もちが悪かった。この動と静の対比は、厳しさと優しさの対照でも構わないが、骨組みまでがダラダラと弛んではならないはずである。コンマスによるヴァイオリンのソロはきれいだが、レガートが強すぎる。トリオの繰り返しから第4楽章に入るが、その間の流れにもアイディアを得なかった。終楽章のラルゴ部分は、オペラとバロックの両方にアイディアのない、この指揮者の演奏で聴くと、何をやっているのだかわからないほどだ。この音楽は、ワーグナーの出来損ないかと見紛うばかり。弦のトレモロなど、勘違いも甚だしかった。

ニ長調の主部は、一応、見かけ上の響きは立派である。しかし、響きやテンポ、強弱に相変わらず押し引きが感じられず、構造は雑然と積み上げられ、整理されないままに残る。金管だけが、宙空に漂うような響きのデザインにもセンスがない。フガートはまったくもって形を成さず、そのため、あとの構造は俄かに組みあがってしまうように聴こえてしまうのだ。このような過ちだらけの要素が組みあがったコーダほど、醜いものはなかった。私は口をきわめて、このような演奏には反対を表明する。

演奏会がはねるのが早かったため、私は念のため、自宅に戻ってから信用できるいくつかの録音を聴きなおしたが、古いものでも新しいものでも、このような雑然たる解釈は見られなかった。

断固として、私はオーケストラにはポテンシャルがあることを強調しておきたい。もっと細かい動きをつけ、押し引きを演じることは可能なはずだ。しかし、この指揮者はそこまで求めないのである。まるでオーケストラの真の良さを理解せず、あるいは、故意に無視して、表面的な響きの強さとか、華々しさだけを強調しようとしているかのようだ。私は、こういう指揮者をまったく信用しない。

【指揮者の怠慢は明らか】
アンコールにまでケチをつけるのも蛇足みたいだが、このロッシーニの歌劇『ギョーム・テル』序曲こそ、クァク・スンの愚かさをハッキリ示すものはなかった。最初のほうに述べたとおり、大邱市立響はフランス的な特徴をもっている。そして、この作品はロッシーニがフランスのために、フランス語で書いたオペラである。この作品は、大邱市立響にとっては、とても相性の良い作品でありそうなのに、クァク・スンは音楽の整理を怠り、オペラ的な押し引きに少しもこだわりをみせることもなく、ただ響きの雪だるま式な積み上がりのみに注目していた。この作品をよく知る指揮者ならば、絶対にこんなことはないはずだろう。

私のような素人にさえ気づくことに、指揮者が気づかない?

そんなことはあり得ないとすれば、オケがあまりにも下手なのか、指揮者が怠慢なのかのいずれかである。私は前者であるとは思えないので、後者のほうに理由を求めるしかない。「怠慢」が言い過ぎならば、音楽づくりのセンスがあまりにも悠長だと言っておこうか。この人に率いられている限り、可能性ゆたかな大邱市立響は、これ以上を目指すことはできないだろう。私も批判は好きでないが、そのことがなんとも惜しくて、このように詳細な攻撃的記事を示すことにしたのである。

【プログラム】 2011年10月2日
 1、ユン・イサン 交響詩『焔に包まれた天使』とエピローグ
  (S:イ・ユンギョン chor:東京レディース・シンガーズ)
 2、モーツァルト エクスルターテ・ユビラーテ
  (S:イ・ユンギョン)
 3、シューマン 交響曲第4番

 コンサートマスター:ユン・シンザン

 於:東京オペラシティ

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コメント

長文ご苦労様です。まあ、随分と大雑把な演奏だったかな?という印象を持ちました。
私自身は古楽以前の人間で、ホグウッドなどの活動を「面白い実験」と見ていた人間ですから大指揮者然とした演奏もすっと受け入れてしまうのですが。
ま。これもアジア・オーケストラ・ウィークの楽しみといってしまえば楽しみでしょう。
あの音圧で、表現豊かだったら逆に日本のオケは背筋が寒いと思いますよ。

コメント、ありがとうございます。ただ、ハッキリ言っておきますが、私は通りすがりだの、通りがかりだのというハンドルでの投稿は好んでいません。今後、こういうのがつづくなら、私はこうしたハンドルによる投稿を原則、認めないこととします。

また、音楽に接する姿勢も、私はもっと真面目です。高みの見物はイヤです。向こうさんだって、「楽しみ」を提供しようとして来ているわけではないと思っています。真剣勝負には、真剣勝負で臨むべきだ。私は、ゲージュツをおもちゃにしたくない人間です。ということは、自分のページもできるだけ真剣な目でみてほしいし、そういう人しか読む気が起きないようにつくってあります。

投稿の内容にはすこしの反発もないのですが、私はここで、すこし大げさな話ですが、自分の生き方や哲学をぶつけているつもりでいます。そのことを踏まえて、通りがかりさんの投稿が誠実なものなのか、ご自分で考えて頂きたいのです。

別にハードルを上げるつもりはないのですが、まず、名乗りもせずに投稿するのは、いかなる相手に対しても失礼だろうと思う。次に、私にとって音楽とはこころであり、それが単なる娯楽だと思うような人とは到底、わかりあえないと考えること。この2つのことを、ハッキリと申し上げておきたいと思いました。

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