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2011年10月23日 (日)

下野竜也 團伊玖磨 交響曲第6番「広島」 ほか 読響 みなとみらいホリデー名曲シリーズ 10/23

【ドクター・アトミック・シンフォニー】
今回の読響の演奏会は原爆をめぐる二題であり、日本人として、どうしても聴いておきたいコンサートであった。本当ならば翌日のサントリーホール公演のほうがいいが、都合が許さないので横浜まで出かけた。会場の音響も含めて、24日のほうが充実した公演になるだろう。

前半は、ジョン・アダムズの歌劇『ドクター・アトミック』の交響曲版である。これは原爆制作側の責任者で、天才的な科学者ともいわれるオッペンハイマー博士を主人公にしたオペラの編曲だ。オペラは、人間が完全には制御できない領域、神の領域に手を突っ込むことへの葛藤を越えて、この超越的な武器の開発によって戦争をなくすという理念に向かい合ったファウスト的人物への、アイロニカルな視点で描かれている。広島・長崎の現実からは、一見、すこし離れたところにテーマが置かれているが、昨今、私たちを苦しめているフクシマの問題と重ねて考えてみれば、この作品がより幅広い問題を串刺しにしていることがわかるだろう。

大震災を経験したあとの8月6日の広島で、意外にも、原発に対する批判は埒外にされた。それとは対照的に、アダムズはこの武器の抱える問題の原点に遡ることで、広島が控えたような問題にも手が届くようにした。これは核兵器に限らず、環境破壊やテロリズム、欧州の財政破綻危機、自由主義経済といった、その他の現代的な問題を広くカヴァーする視点でもある。ウォール街を占拠する米国のワーキング・プアー層を支持すべきなのかどうか、明らかに彼らのいう99%に属する私にもよくわからないところだ。しかし、彼らを衝き動かすもとになっているアンバランスな経済の仕組みについて、すこしも怒りを感じないといえば嘘になる。一方、欧州中の知識人が集っても、欧州の財政危機を乗り越えるための道筋は見えてこない。私たちは自分たちの首を絞めるために、国際経済市場を構成しているのであろうか?

それはともかく、交響曲化されたこの作品は、より冷徹な視点で、オッペンハイマーたち、科学者の面影を客観的に描くことに主眼がある。声やストーリー、さらに舞台装置というものを取り去ったニュートラルな空間のなかで、私たちはアダムズの思い描いたサウンドのみとフェアに向き合うことになるのだ。下手をすれば、派手な映画音楽のようにも組み立てられる作品を、下野は脇をしっかりと締めて厳しくつくろうとした。久しぶりに訪れた横浜みなとみらいホールのもつ艶消し的なサウンドもそれに輪をかけることになったが、そのセットは不幸にも、私を食い足りない思いにもさせたものだ。

【サウンドの不思議な活力と苦々しさ】
しかし、徐々に下野の考えた演奏意図が開いてくると、その透徹とした響きのなかに、聴き手は少しずつ没頭していくようになる。序盤のクラスタ的なサウンドは、こうして整然と響きを掃き清めたところでは、アダムズの意外と保守的な現代音楽のなかでの立ち位置を明らかにする。そこでは、明らかにライヒの世界を超越したポスト・ミニマルの技術的な新味も、さりげなく響きのなかに溶け込んではいるようだし、その味わいはなかなかに清爽である。トリニティの爆発シーンのように、グロテスクな素材もなかにはあるが、総体として、サウンドは清澄で、透きとおったものでしかない。もしもチャイコフスキーの未発見のバレエ作品だと言われても違和感がないほど、その味わいは舞踊的に活力があった。

そのあたりを、下野はうまく描き分けている。オッペンハイマーの悩みが爆発するかのような、終楽章の嵐を思わせる場面の緊張感が、核心をついているように思われる。そこには、テンペストのなかでさまよう我らが「英雄」の姿が活写されているが、英国人からみて原爆とは、リア王を気狂いにし、悪辣な南イタリアの王侯たちを難破させた、あの混沌たる嵐と同じものだったであろう。もちろん、アダムズは日本の被爆を無視しているわけではない。最後の「ミズヲクダサイ」によって、オッペンハイマーは断罪されるだろうし、現に彼は後世、反核の動きに自ら参加することにもなっている。

この作品で、下野はティンパニを除く打楽器群を下手奥に寄せ、サウンドのコアとなるホルンを通常よりも中央寄りにすることで、センターラインにつよい響きを集めている。この効果は絶大であるが、その主たる効能は響きを強めることではなく、むしろ、柔らかくすることにあった。その柔和さで奏でられたトランペットの旋律が、悲劇ともなんともつかぬ凄烈なフィナーレを導くと、会場はシンとなる。私はその作品の美しさに圧倒されながら、その冷徹な批評眼には、どうしても共感することができなかった。

結局のところ、この人たちは確信犯なのだと思うと、なおさら絶望的な想いにもなるというものだ。演奏は素晴らしかったが、どこか苦々しい想いが残った体験である。

【西洋音楽を解体する能管師】
後半は、1時間弱にも及ぶ團伊玖磨の大作、交響曲第6番「広島」であった。この作品は1985年の初演、原爆の40年忌に当たって作曲されたものだという。しかし、既に多く作曲された薄暗い原爆の悲劇をうたう作品ではなくて、もっと祝祭的な広島への賛歌である。交響曲として、なるほど堅固なフォルムをつくっているが、その外面的な特徴は能管/篠笛協奏曲という感じでもあった。重要無形文化財、一噌幸弘の妙技がなにより印象的で、圧倒されてしまう。

サウンドの特徴は、それほどインディペンデントなものとは言えないかもしれない。それらの大部分は、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ときにはシベリウスなどのサウンドのつよい影響下にあり、新しいテクノロジーだからこそ新しい響きで描くべきだ・・・とでも言いたげなアダムズの作品と比べると、あまりにも古くさい響きは、私をすこしだけ幻滅させる。だが、面白いのは、その響きを「たわらの ねずみが こめくって ちゅう」という感じで、篠笛が響きを発するとたちまち西洋の響きは解体し、本邦の民俗的な素材と拮抗するようになることだ。

【異形の作品】
これに関係するように、ひとつひとつの素材は確かに強力で、揺るぎのない魅力を放つ。ただ、全体的にはやや取り散らかした印象で、アダムズの作品ほど凝集した傑作とは言えないであろう。最後のほうに挿入されるソプラノ独唱なども、効果的とは言えない。能管師の妙技は凄いけれども、ときどき音楽が止まってしまうのだ。このような欠点を解消するためには、もうひとひねりが必要なのであるが、実際には、これほどの壮大な音響空間において、これ以上のひねりが効くものとも思えない。だから、最終的に私は、異形の作品としてこの交響曲をイメージすることに決めた。

ソプラノが歌いおわり、そのままサウンドが高揚しておわるのかと思いきや、その後、再び篠笛のソロが浮かび、より深めにエピローグが用意されていている点には感じ入った。響きは非常に昂揚的に、明るくなり、マーラーのシンフォニーのような壮麗さを湛える。

白眉は、第2楽章の第2トリオ「音戸の舟歌」のところであろうか。日本の民謡的素材を(クラシック音楽の素材として用いることを)あまり好まない私であるが、実は、その分野からはもっとも遠そうな一噌が篠笛を歌わせ、もとの民謡からメタモルフォーズした正に異形のパフォーマンスで、私たちの度肝を抜いたときである。だが、それを支えるようにバックから立ち昇る管弦楽の背景にこの響きが溶け込んでいくのが、さらに、なんとも面白いのであった。

そのほか、弦管ともに非常に好調な響きが聴かれ、下野の統率で隙なく整えられて、多分、いまや日本一のオーケストラに成り上がった読響サウンドの凄みを久しぶりに堪能させてもらった。しかしながら、終楽章の独唱が入る部分には相変わらず、サウンドの硬さがみられたのは指摘しておかないといけない。読響のオペラへの対応能力は少しずつ上がってはいるものの、まだまだ東京フィルや東響といったライバルに及ばないのだ。また、独唱をオルガン席のところで歌わせたため、客席との距離が非常に遠くなり、管弦楽とのバランスがとりにくかったのも生煮えの原因のひとつだ。そのため、歌い手と管弦楽との対話は必要最小限のレヴェルに止まってしまったのである。

【満足と不満足】
2つの音楽をきいて、とにかく満足ではあった。だが、いずれの作品も、ダイレクトに原爆の惨禍と向き合っていないところに、多少の喰い足りなさも残ろうというものである。團の作品はそうしたものよりも、広島の復興に驚嘆する作曲者による賛歌だという説明だ。このテーマは今日の「復興ブーム」にもよくあっているが、本当にそうだろうか。仮にそうだとしても、私はそこに、團伊玖磨という作曲家の甘さをみないわけにいかないのだ。40年経った当時、恐ろしい悲劇を生きるエネルギーに変換していくことは、人々にとって必要なことだったのかもしれぬ。だが、一方で、その時点ですこしも核兵器がなくなりそうな気運がなかったのも事実であろう。実際、それから20年もすると、むしろ核拡散の動きは進んでいくことになっていた。そして、今年、核兵器ではなく、その平和的利用のなかで、無惨な悲劇が繰り返されたことも思い出してほしい。

そうした意味で、思ったほど感動的ではなかった面もある。しかし、このような作品は、やっぱり日本人にしか書けないものであり、生煮えではあれ、團伊玖磨という作曲家が残した精神の苦悩・・・それこそ、オッペンハイマー的な天才の苦悩として、この作品を記憶に留めておくことは必要であろうと思った。

【今後の邦人作品演奏会】
11月には東京文化会館で、黛敏郎の歌劇『古事記』が上演されるという。これにも、私は接しておきたいと考えるようになった。神田慶一の指揮した同館による企画「日本オペラ絵巻」で、そのさわりを聴いたことがあるが、サウンドだけをとればなかなか味わい深いところがあったと記憶している。今後、国立音大のフィルハーモニカーで八村義夫の作品が取り上げられたり、若い指揮者にして作曲家、平井秀明の歌劇『かぐや姫』の上演、日生劇場での『夕鶴』上演など、邦人作品への再評価の機運がつづく。これらの複数に、私はつよい関心を示しているものだ。

【プログラム】 2011年10月23日
 1、アダムズ ドクター・アトミック・シンフォニー
 2、團伊玖磨 交響曲第6番「広島」(*)

 * 能管/篠笛:一噌 幸弘
 * S:天羽 明恵

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

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