2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 下野竜也 團伊玖磨 交響曲第6番「広島」 ほか 読響 みなとみらいホリデー名曲シリーズ 10/23 | トップページ | 第5回定期演奏会 「ドイツのオケで聴きたい音楽」 »

2011年10月30日 (日)

アルド・チッコリーニ モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 ほか ジ・アート・オブ・チッコリーニ 第1夜 (協奏曲) 10/27

【南国の雰囲気】
坂口安吾は『富山の薬売りと越後の毒消し』という紀行文エッセイのなかで、薬売りの本拠である富山の陰鬱さに比べて、豪華な邸宅の建ち並んでいたという毒消し売りの本拠、新潟県南蒲原郡の角田村(現在は新潟市=巻町に合併)を訪ねて、雪の深く積もるような真冬にもかかわらず、そこに南国をみたと書いている。その前月、安吾は正に南国である宮崎県の高千穂村を訪れ、そこに伝わる夜神楽の伝統を供してきたような、その土地の民衆の人間性を「芸術家」の気風をもっていると評していたが、越後の毒消し売りについても同じような気風を見出して、それを南国的と評したのだ。

「それが日向では自嘲とかデカダンを感じさせず、純粋に人生の幸、生きることの幸を感じさせるところに明るさや大らかさや清潔さがにじみでてくるのかも知れない。しかも、日向の男の感覚や神経は案外女性的で、開放的ではあるがデリケートであり、そんなところにも古い世からの遊芸人の血筋をみることができるような気がするのだ」(坂口安吾『高千穂に冬雨ふれり』より)

さて、チッコリーニの演奏に接して、なによりも印象的なのは、やはり南国の雰囲気である。いまやフランス国籍を取得した彼の生まれ故郷、南イタリアの人々がもつ陽気さや明朗さがはっきりと浮かび、響きの温かさとして、私たちを捉える。そのことは既に短文のツィッターやブログにも多く指摘されているところだ。しかし、忘れてはならないのは、こうした要素をチッコリーニほど厳しくコントロールしている音楽家もいないということであろう。その効能はひとつには、響きや和声を明確にし、その動線を整えることにあると思うが、それにはもうひとつ重要な役割があり、これこそがチッコリーニの現在の住所と関連してくるのである。

【関係性を示すチッコリーニのピアノ】
そのことを述べる前に、イタリアといえば、やっぱりオペラだということを先に述べてしまうべきだろう。モーツァルト演奏において、鍵盤に限らず、交響曲、室内楽の分野においても、オペラ的な表現を取り入れることが重要であることは、広く主張されるようになってきた。しかし、チッコリーニおいては、そのレヴェルに止まらない。なぜなら、彼は外面的なオペラらしい響きから遡行して、オペラとは何かというところまで潜り込んでいくからである。この議論を突き詰めていけば、チッコリーニどころではなくなってしまうので、結論めいたものを一挙に押し出してしまえば、それは人・・・あるいは、それらの関係についての表現というところに求められるはずだ。

これは小説でも演劇でも、なんでも同じようだが、私はその中心になにがあるのかを考えたい。例えば、小説では、文体である。現代人は内容ばかりに目が行き、それは評論家さえも例外ではないが、小説を論じる場合、私たちの優れた先達はなによりも、その書き方や口調に注目して表現を競ってきた。永井荷風の文章は、誰がみても荷風の文章と即座にわかるような質のものだ。先の坂口安吾も、その点では強烈な個性を放っているだろう。音楽の場合、それはもちろん、響きのなかに隠れている。オペラが小説よりも不得手なことは、描写や説明である。一方、圧倒的にアドヴァンテージをもつのは、人と人との関係についての表現することである。言葉だけなら覆い隠せるはずのものが、音楽となってしまえば、その嘘は容易に白日の下にさらされる。トリスタンとイゾルデが愛し合っていることはマルケ王に対して内証のはずでも、オペラの観客にとっては公然の秘密なのだ。

要するに、チッコリーニの表現でもっとも重要な要素を論じるためには、関係ということについて考える必要がある。それは幸い、特に23番の演奏に関しては、目立って特徴的に響いていた。プレスラーやレーゼルが同じようなことをやったように、チッコリーニもピアノを時には弦楽器や管楽器、打楽器に変容させた。しかし、チッコリーニの場合、これは音色というものへの深い洞察や、こだわりに基づいたものである点が異色である。

【モーツァルトと音色】
のちのフランス音楽とはちがい、モーツァルトは音色を主要な課題とは考えていなかった・・・と書けば語弊が多いが、多分、当時、音色に関しては楽器が豊富な役割を演じてくれたことから、多くのアイディアを注ぐ必要もなかったのは事実であろう。しかし、一方で、そこには色の三原色のように、すべての要素が出揃ってもいるのではなかろうか。

音色とは、何なのか。チッコリーニは、それを「変容」だと言っているかのようである。現代ピアノでは、鍵盤のキーをひとつひとつ慎重に4分音符ひとつ分だけ同じ強度で叩けば、その音色は一定になるだろう。ここから、人々が音色と呼ぶような要素は一体、どのようにして生まれるのか。それは打鍵のつよさ、音の長さ、ペダリングなどにより、次々と響きが揺らぎ、変容していくところに生じる僅かな差によるのであろうと思われる。このギャップのつくり方が、チッコリーニはきわめて巧みであり、かつ、さりげない。協奏曲ではバックとのユニゾンなどをゆたかに強調し、かつ、それはわざとらしくないのである。コンマスのヴァイオリンの左手の動きと、響きの揺らぎをリンクさせて音階を動いたときなど、そのあまりの精妙さにヴァイオリンの弾き手が思わず表情を崩したほどだ。これに類する体験が、特に23番においては随所に感じられた。

かつて、ラ・フォル・ジュルネの公開マスタークラスでブリジット・エンゲラー女史が言ったように、現代ピアノは、古い鍵盤楽器がもっていた音色のゆたかさを奪って、代わりに、ダイナミズムやフレキシビリティを高めたのだ。チッコリーニの演奏は、後者の良さを極限まで突き詰めるものでもあり、厳密に「ピリオド的」な見方から適正なものかどうかは、私たち素人には判別しにくい。しかし、古い楽器がもっていたような要素への感覚や、アイディアの核心ということについていえば、いま申し述べたことによって、しっかりと踏まえられているのは間違いのないことであろう。

【音の保持】
ところが、第23番のアダージョ楽章を論じるには、いま述べたことだけでは対応しきれないような要素が確かにある。そこでは第1楽章の越後の毒消し的芸能人の南国性から逸脱した、モーツァルトの深い孤独しか感じ取ることはできない。とはいえ、そこにはなお南国的な、温かみの要素も完全に消え去っているというわけではない。だが、その温かみは、彼の打つ一音一音への容赦ない厳しさのうえに生じるものである。ここでチッコリーニが印象づけた最大の要素は、音の保持に関する圧倒的なこだわりだ。単に響きの長さや感覚を維持するに止まらず、そこに載せられるべき響きや感情の重みというものが、ずっしりと聴き手の感覚を捉えるのである。しかも、そのためにあまりにもセンシティヴになるようなことはなく、むしろ、感情よりは、理性の部分がつよい刺激を受けるのが面白いところだろう。

結果として、私は先日のレーゼルの場合と同じく、やはり、ありがたい法話を聞くような感覚で音楽の幸を味わったのだ。

チッコリーニはこうして感情から理性へ漸次、移動していくモーツァルトの音楽性の神々しさを身を以て示しているわけである。第3楽章では、もはやこれまでに感じたチッコリーニのピアニズムの味わいを確かめながら、聴いていけばよい。オーケストラの響きがゆたかであるこの楽章では、ピアノの変容力はなおさらゆたかで、多彩であるように聴こえた。しかも、その分、チッコリーニのコントロールの凄まじさがヒシヒシと感じられるというわけである。盛り上がるロンド形式で、最後は情熱的なサウンドでぐっと響きが持ち上がるのだが、終演後、ほんの一瞬、観客のアプローズは控えられた。そこには、無言の感嘆詞(!)が挟まっているように思えたものだ。

【20番はカデンツァが鍵に!】
これと比べると、第20番のほうは、コミュニケーションがやや甘い印象はぬぐえず、余裕残しという感じもなくはない。しかし、両端楽章で見せたチッコリーニのカデンツァの凄まじさは、80歳をはるかに超した老齢のピアニストのものとは思えないほど強靭で、かつ、潤いに満ちてもいる。特に第1楽章のカデンツァは、前回のベートーベンの記憶を呼び覚まし、2つの「ジ・アート・オブ・チッコリーニ」を結びつける役割を果たした。

【まとめ】
アンコールのD.スカルラッティに至るまで、完璧なサウンドを聴かせてくれたチッコリーニには、客席もスタンディングで応じた。しかし、私は敢えて立ち上がらない。なぜなら、これは序章にすぎないはずだから。第2夜の独奏会では、これだけでは収まらない深い衝撃を与えてくれることだろう。

指揮者はドイツの中堅、トーマス・カルブ。ときどきアイディアをみせてくれたが、基本的にはいてもいなくても変わらない存在であった。紀尾井シンフォニエッタ東京とちがい(重なる団員もあるが)、指揮者がへこくても、しっかりブリュッヘンとともに培ったものや、オーケストラとして積み上げてきたものを感じさせ、立派にチッコリーニの可能性を引き出したのは感心だ。コンマスは、髪の毛もじゃもじゃではなくなったものの、今度は茶髪に染めた崔文珠である。

チッコリーニはアンコール演奏のあと、オケに向かって拍手を献じ、これは「あなたたちのためです」という感じにする。最後に下がるとき、彼はステージ側に身体を傾けていたコンマスの肩を軽く叩いて、チッコリーニのためにスタンディングで讃える聴衆の姿を見つめながら、これは君たちの成功でもあると呼びかけるように、「ほら!」と客席を指し示していたのがこころに残る風景とはなった。

なお、ピオトル・アンデルジェフスキやミシェル・ダルベルトというピアニストも、客席を埋めていた一員だったという。私は、客席まで眺めている暇は到底なかった!

31日も、私はもちろん足を運ぶ。18:00ごろ、多分、「北斎茶房」(駅からホールを通り越して200mほど先)で釜飯を食っている男が私である。

【プログラム】 2011年10月27日
 1、モーツァルト ピアノ協奏曲第20番
 2、モーツァルト ピアノ協奏曲第23番

 cond:トーマス・カルブ

 コンサートマスター:崔 文珠

 於:すみだトリフォニーホール

« 下野竜也 團伊玖磨 交響曲第6番「広島」 ほか 読響 みなとみらいホリデー名曲シリーズ 10/23 | トップページ | 第5回定期演奏会 「ドイツのオケで聴きたい音楽」 »

ピアノ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/53118631

この記事へのトラックバック一覧です: アルド・チッコリーニ モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 ほか ジ・アート・オブ・チッコリーニ 第1夜 (協奏曲) 10/27:

« 下野竜也 團伊玖磨 交響曲第6番「広島」 ほか 読響 みなとみらいホリデー名曲シリーズ 10/23 | トップページ | 第5回定期演奏会 「ドイツのオケで聴きたい音楽」 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント