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2011年10月 9日 (日)

ペーター・レーゼル ベートーベン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 ほか ピアノ協奏曲全曲ツィクルス 10/7

本物のピアニストの弾くベートーベンの協奏曲は、かくも凄いものかと感嘆した。昨年のチッコリーニ、そして、ことしはペーター・レーゼルだ。紀尾井ホールを舞台とした、ソナタと協奏曲のツィクルスでの出来事である。ツケは紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)で、指揮者は先日、父親のクルトを98歳で喪ったシュテファン・ザンデルリンク。父親譲りの正統派のドイツ的・・・否、ウィーン的な演奏を貫いたザンデルリンクのサポートも、レーゼルの力を発揮させるに功があったが、そのことはあとで改めて触れることになるだろう。

【納得いかない過去の記憶】
実は、このオーケストラとレーゼルによる「皇帝」は、以前にも聴いたことがある。ドレスデンでのKSTとの共演後、30年ぶりに日本でリサイタルをおこなった彼の演奏に感服し、2008年の協奏曲の演奏にも期待を抱いて席に着いた。しかし、フィンランド人、ユハ・カンガスの指揮によるリードはこの楽曲をあまりにも単純化しすぎており、ピアノが共鳴する余地もあまりに少なかったのである。あの日の演奏は、私にとってガッカリな体験のひとつだが、ソロでのパフォーマンスからみて、あんな貧弱なパフォーマンスはあり得ないと信じていた。先日のクァク・スンや、以前に批判したマリン・オルソップなど、単純化による素朴な演奏効果にしがみつく指揮者たちを、私はどうしても許す気になれない。こと協奏曲の場合は、彼らのような演奏姿勢はソリストのもつべき表現の幅や可能性を、ぐっと小さく限定してしまうことになろうと思う。

【レーゼル&S.ザンデルリンクによる演奏の特質】
そこへいくと、父親の年齢からすれば信じられないほどに若い(後妻の子であるため/1964年生まれ)シュテファンだが、コンサート専門で、その地味なキャリアと比べると、相当に音楽性は高く、クルトの知っていた秘密を見事に引き継いでいる。

このシュテファンと、レーゼルによる「エンペラー」は、その威容や迫力といったものだけに還元されない、神々しさを備えていた。これこそが、ベートーベンの本質なのだと思わせるものだ。バッハにも比すべき「宇宙」の感覚が、そこには垣間見えている。作品の構造はたっぷりとした振幅に彩られ、しかも、その造形はくっきりと輪郭が整って、響きから感じられるメッセージが明瞭である。弱音から強音まで、すべてのレンジで輝かしい響き。特に、弱音における響きのゆたかさというものには、何度もこころを揺さぶられた。見かけ上のクライマックスよりも、先にやってくる演奏上のクライマックス。その余韻をたっぷりと引いて豪華な天井をつくったあと、エレガントに降下していくときの構造上の爽やかな感覚。こうした総論的な特質を、まずは列挙しておこう。

【ひとりひとりの群衆の上に立つ皇帝】

しかし、その感動は既に、ピアノによる弾きだしにおいてハッキリと予言されていた。あまりにも有名な、装飾を連ねた序奏の響きのなかに、多くのピアニストがあらゆるイメージを溶け込ませたが、ひとつひとつの音をこの上もなく明確に描き分け、活かそうとするレーゼルの筆致からみえてくるものは、「皇帝」を取り囲むひとりひとりの民衆の姿だ。そこにひとつひとつスポットが当たっていき、伴奏のアクセントが伴うところで、ガーンと英雄にスポットが当たる。これは数度繰り返されるのだが、そのときごとにスポットが同じ人物に当てられているのか、あるいは、複数の人物を照らしていたのか、その点は多義的である。「中心」=「皇帝」がひとりであるかどうかはともかくとして、ベートーベンはその群衆のなかに生きる英雄の姿を描きたかった。レーゼルの演奏は、そのことを如実に語るのである。

オケのトゥッティがガーンと鳴ったあと、レーゼルの描く人間たちの姿を追っていくとき、私は思わず、ピアニストを睨みつけるようにして、そのドミノ倒しのような奏法に注目しきっていた。「ドミノ倒し」というのは全体が連鎖的に倒れていく様を思い浮かべさせるが、同時に、それら個々のドミノがあくまで「個」としての存在感と、それによって占められる空間とを、倒れてしまうその一瞬まで、厳しく保持していることが前提になければならない。私が言うのは、その点である。

このイメージは、全体的に多用されるわけではない。主部に入ると、楽曲はその選り抜かれた英雄の凄まじさに、ハッキリと表現を変える。しかし、要所で、この冒頭部分の要素はしっかりと押さえられ、作品に奥行きをもたせることにつながっているようだ。

【ピアノと伴奏の溶け合いについて】
そして、これは第5番よりは、第1番の演奏に関していうべきであるが、弱奏、もしくは、それよりも少し強いような表現・・・もっと言うならば、頑強な強奏となる部分以外のすべてのパートにおいて、アンサンブルはピアノの響きに従属し、きれいに溶け合っていくようにイメージされている。

ただし、その要素において、第1番と第5番のちがいは生じている。つまり、第1番においてはそれは室内楽的、もしくは、古典音楽的に、完全に溶け合う方向で演奏されているのに対し、第5番においては、場面によって溶け合う部分とぶつかり合う部分が相半ばしているのだ。「ぶつかり合う」というのが正確な表現でないなら、「並立する」とでも言っておくべきか、要するに、単に響きが溶け合うというレヴェルから、より高いレヴェルでの関係へと響きが発展しているのである。しかも、こうしたちがいは、単に「ちがい」としてあるのではなく、第1番におけるスタンスを前提に、第5番におけるスタンスが上積みされる感じで表現されていた。

レーゼルのピアノの響きを最大限に活かすという方向では、いずれのスタンスにも大したちがいはない。しかし、その響きを内部化するか、外面化するかで、大きなちがいが出てくるわけである。ただし、この「外面化」においてレーゼルとザンデルリンクは、大げさなあらゆる要素を捨て去り、実にさっぱりとした表現の爽やかさを貫いている。また、ピアノのほうのテクニックとしては、非常にルバートが柔らかいのと、オケの響きをよく聴き、それとアジャストした音色を様々に工夫して出しているのがわかる。これは特に第1番において効果的で、ピアノとオケは室内楽のように親密に響きあい、この音楽がまだ、モーツァルト・ハイドンと近接している音楽であることを窺わせた。

【一期一会】
第5番においては、いま述べた第2の要素(響きのアジャスト)が、一期一会の感動を深めることになる。レーゼルにおいては、これだけは守らねばならぬという伝統の重みと、そうはいっても世界にひとつ、その瞬間にひとつしかないバックとの対話によってしか生まれない、ある種の即興的な要素がある点がともに強く意識され、その双方がせめぎ合って、絶妙なバランスを構成するようにできている。そのため、同じKSTを相手にしても、カンガスのときには淡彩の一辺倒であり、ザンデルリンクの場合には伸縮自在で、柔らかい表現を随所に繰り出していく。レーゼルは単にひとりのピアニストという以上に、オーケストラのめざすパフォーマンスを映すための鏡でもあるわけだ。

【左手の能弁な響き】
もうひとつ、どうしても書いておきたいことは、左手の能弁な響きである。レーゼルにおいては、右手と左手の機能以上に、響きそのものが大いに異なっている。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが同じ楽器をもちながら、まるで異なった響きを要求されるように、レーゼルは同じ1つの楽器をシェアしながら、右手とは別の楽器を弾くように左手の響きをつくり、空間に響かせることができていた。例えば、右手が高音で玉のような響きを連ねてメロディを歌うとき、左手は弦楽器の爪はじきのような響きを事もなげにこなしているのである。

しかも、その左手の響きは同一のピアノ線と、その張られた筐体の空間から響いてくるはずなのにもかかわらず、まるで、右手のそれよりも遠くから響いてくるように、どこか離れたところに、別の楽器が置いてあるかのように響いてくるのであった。これには、まったくもってタマげたとしか言いようがない。

これについて思い出すのは、メナヘム・プレスラーのことだ。彼とトリオを組んだ人たちは、プレスラーが弦楽器のような響きを出すことに共鳴を感じていたという。レーゼルの響きの場合は、これと同じような意味あいをもちながら、若干、性質が異なることを付け加えておきたい。つまり、プレスラーにおいては、それは氏の謙虚な音楽性そのものを示す象徴となっており、弦楽器のためのダイナモとして、いつも支えに徹してきた表現の奥ゆかしさを語るものであったが、レーゼルの場合はもうすこし積極的である。彼はピアノの機能を完全に活かしきることで、ゆたかな響きを実践的に生み出していくという特質をもっている。

プレスラーが弦楽器的な響きを「醸し出す」というならば、レーゼルの場合は、弦楽器的な響きを「つくる」のである。

【ベートーベンの神秘性】
ところで、第5番のアダージョ楽章などは俄かに解釈しがたいほど、神秘的な部分が多い演奏であった。一応、複合三部形式になっているが、そのような構造論を乗り越え、ベートーベンはどこか別の次元に聴き手を引き込んでいく。「皇帝」の内面というにはあまりにも繊細にすぎ、柔らかい天国のイメージのなかで、私たちはベッドに横たわっていくようだ。そして、この楽章のブリッジ部分において、最終楽章の主題が予告されるとき、我々は本当に天国の入口に到達するかのようでもあったのだ。この部分は、のちの『ミサ・ソレムニス』などを予言するかのように神々しい。これから華麗なアレグロではなく、清らかな聖歌が響いてきそうなほど、空間は神聖さに包まれた。この作品において、レーゼルが描きだした実質上のクライマックスは、この部分であったろうと思う。

つまり、最終楽章のロンドーは古典の形式に倣い、ベートーベンなりの天国を描いたものにほかならない。ここではもう、あらゆる小細工は必要なく、また、通用しないとレーゼルは知っている。誤解を生む可能性もあるが、レーゼルはここではじめて、モノ・トーンに徹した。しかも、その響きはあらゆる複雑な転調によって変容されるが、あくまで、トーンは一定で、あらゆる揺さぶりにも動じない。それは最後、近藤高顕の叩くティンパニとの朴訥なまでのやりとりで象徴される。シュテファンはここで、太鼓の響きをしっかりと位置づけ、ピアノの響きと合わせてアーチ状につなぐ構想を整えている。その構想が100%成功だったのかどうかは判じにくいが、上記のような演奏姿勢にとっては、とても象徴的な部分とはなった。

【まとめ】
第1番も天晴な名演であり、この曲がベートーベンの室内楽、そして、その基底にへばりついているモーツァルト・ハイドンの世界と分かちがたく存在し、しかも、堂々と独立しているのを聴くとき、我々は驚きをもってレーゼルのパフォーマンスに感謝した。

終演後は、両曲のパフォーマンスに対して、フロアから惜しみない称賛が贈られた。レーゼルは指揮者のシュテファンや、この日、臨時のコンマスとして迎えられたケルンWDR響の第1コンマス、ホセ=マリア・ブルーメンシャイン(まだ20代半ば、ダブル・バスの河原泰則の所属するオーケストラと同じ)とガッチリ握手。その手堅いサポートに敬意を表した。チッコリーニのときも、やはり指揮者のハウシルトが重要な役割を果たしたが、こうしてみると、やはり、協奏曲においてはオケ伴のサポート如何によって、ソリストであるピアニストのパフォーマンスも変わってくる。

レーゼルのベートーベン・ツィクルスは、12日のソナタ32番ほかで最終回となる。しかし、来年度以降も、今度はロマン派の独奏曲、室内楽、協奏曲で手厚いシリーズが用意されていることが発表され、ファンには嬉しい情報となっている。

【プログラム】 2011年10月7日
 1、ベートーベン ピアノ協奏曲第1番
 2、ベートーベン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」

 cond:シュテファン・ザンデルリンク

 コンサートマスター:ホセ=マリア・ブルーメンシャイン

 於:紀尾井ホール

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