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2011年11月 1日 (火)

アルド・チッコリーニ ベートーベン ピアノ・ソナタ第31番 ほか ジ・アート・オブ・チッコリーニ 第2夜 (リサイタル) 10/31 ②

【編曲ものはリストの批評】
後半は、リストの編曲もの2曲で始まった。すなわち『アイーダ』と『トリスタンとイゾルデ』だが、これらの曲目は、コンクールで弾く若手のピアニストのレヴェルでも、技術的には上手にこなすようになってきた昨今の情勢である。しかし、当然のことながら、チッコリーニの演奏はそれとは次元がはるかに異なるというべきだ。技術的なものでないとするなら、どこに若手とチッコリーニの差があるのであろうか。それは、その響きを何のために使うのかという問題に対して開かれる、内面の驚くべき豊富さに求められるように思うのだ。リストの編曲ものなど、所詮は見せびらかしの曲芸にすぎないものだと、これまで、私は思いなしてきたが、この日、その認識はハッキリと過ちであったと理解するに至った。

リストにとって、この曲芸は一種の批評めいたものではなかろうか。シューマンが音楽家でありながら、敢えて言葉で為したところのものを、リストはあくまでピアノの響きによって表現したのだ。それは副次的に、表立って劇場通いもままならないサロンの奥様方の需要にも見合っていたかもしれぬ。しかし、リストの本意は、自らのもつ作曲と演奏のスキルによって、同時代の音楽家たちの志を試すことにあった。編曲、もしくは、パラフレーズというヴィルトゥオーゾ的手法を使って、また同時に、優れた作曲家でもある彼にしかできない批評のあり方を試みたのである。

チッコリーニの精巧な演奏のせいか、『アイーダ』にしても、『トリスタン』にしても、非常に分析的な手法によって、細かく解剖された音楽のように聴こえた。前者はヴェルディの音楽のなかに静かに隠された、響きの複雑なメカニズムを明らかにしようとするものであり、この演奏を聴くと、新ウィーン楽派も真っ青になりそうな先進性が見て取れるのだ。私は従来、ロッシーニに比べれば、ヴェルディは一般的に言われるようには新しいわけではなく、そうした音楽内容よりは、プロットや人物などの意味内容のレヴェルにおいて、イタリア・オペラをリードする存在であると見做してきた。しかし、この考えも、どうやら間違いだったのかもしれない。

この編曲にみるリストの「批評」は、ヴェルディのつくる響きが、これまでまったく構想されることのなかったような独特の響きのシステムによって、構築されていたことを示すものだからである。それが当たり前の舞曲のリズムのなかでさえ、丹念に骨組みを与えられて、さらに高次の詩情を導いているらしいことも、チッコリーニは・・・つまりは、リストはよく示し得ているように思う。

一方、『トリスタン』のなかに浮かぶのは、ヴェルディよりもずっと古くさい音楽上の保守主義にすぎない。イゾルデの「愛の死」の旋律のクライマックスで起こるルバートの構造など、絶望的に古い。しかし、その古さのずっと深いところで輝いている絶対的な新鮮さ・・・それは多分、この編曲のいちばん最初の部分に凝縮されていた。それかあらぬか、チッコリーニは2曲をあまり間を置かずにつづけて演奏し、その2曲目の冒頭は厳しい打鍵でくっきりと描き出していたものである。

2つの作品ではピアノの音色からして、まったくの別物だろう。リストはいわば、2つの「文体」によって、批評を書き分けたのである。『アイーダ』においては、その玉のような響きが新緑の葉の上を滑り落ちる水のしずくのようであり、あるいは、私の盟友、plisner 氏が以前、同じピアニストについて述べたように、「磨き抜いた象牙の玉のよう」な美しさをもつともいえるそれが、贅沢にもピアノの筐体から溢れてこぼれ落ちるのを私たちは目のあたりにした。オーディエンスはねずみ小僧、次郎吉のばらまく小判に群がる人たちのように、慌てて響きの宝玉を拾い集めねばならなかった。一方、同じヴィルトゥオーゾ・プログラムであっても、『トリスタン』のほうでは、そのような極度の輝きは抑えられている。むしろ、そこではずっと計算高いような、あるいは、もっと素朴で飾り気のない表現が、まず何よりも打鍵のレヴェルで採られている。

これらの特徴はソックリそのまま、リストの批評センスを示すものとなっている。ヴェルディには宝石のような輝きを、ワーグナーには素朴さを当て嵌めるあたり、並大抵の批評家とは異なるところを感じさせた。

【日本へのメッセージ】
最後はリスト『詩的にして宗教的な調べ』から、「眠りから覚めた御子への賛歌」(S173-6)、「パレストリーナによるミゼレーレ」(S173-8)、そして、「祈り」(S173-1)を選んで、壮麗なフィナーレをもつ3曲で1つの作品のようにして演奏した。2008年のリサイタルでは、チッコリーニはこれらのナンバーを含む全曲を演奏して、その演奏は私にとっても衝撃的なものだった。当時とのちがいをハッキリ論理的に述べられるほど、私の記憶も知性も頼りになるものではないが、今回、「宗教的」な要素よりは「詩的」な要素が浮き彫りにされた印象を抱かせたのは、ひとつの事実だ。これら3曲は例の未曽有の災害に見舞われた日本の復興を信じている・・・というチッコリーニのメッセージにちがいないであろうし、もしもそうならば、ここではむしろ宗教的な要素を押し出すべきようにも思われるところではなかろうか。しかし、チッコリーニはかえって、詩的な部分を強調することで、音楽のもつ前向きなエネルギー性を高めようとしたのかもしれないとすれば、その真心に私はふかく胸を打たれるような想いがする。

いずれにしても、そのときから3年の月日を経て、チッコリーニの演奏はより若々しくなったことは間違いないところだろう。指揮者のエリシュカにしろ、このチッコリーニにしろ、もちろん、肉体的な衰えだってないはずはないのに、その音楽に接する限り、年を追うごとに若返っていくようにみえるのは不思議なことだ。

アンコールは、①の記事で述べたように3曲。特に、エルガーの『愛の挨拶』の演奏はゆっくり、たっぷりとした演奏で、滋味はゆたか。私たちを勇気づけるような、温かいメッセージがハッキリ伝わるものだった。ヤシンスキではないが、チッコリーニのコミュニケーション能力も相当なものだ。つまり、師匠のアンジェイ・ヤシンスキについて、もちろん、クリスティアン・ツィメルマンとも同門になる高弟のひとり、クシシュトフ・ヤブウォンスキが言っているのだ。自分の師匠が凄いのは、その傑出したコミュニケーション能力である。そのメッセージの図太さからは、誰も逃れることはできないのだと!

さても偉大な、2人の大巨匠の名前が並んだところで、長々しい駄文を締めておくとしようか。

なお、第1夜もそうであったが、第2夜はそれを上回り、ほぼ言葉どおりの「会場総立ち」でのアプローズが起こった。会場の空席も以前より減り、チッコリーニの人気は来日ごとに高まっていることが窺われる。なにしろ、会場の照明が明転しても拍手は止む気配がなく、なお一度、チッコリーニは舞台袖から呼び戻されたのである。ダ・ロック・ダンテロンの映像が効いたのかもわからないが、その映像にみられるフランスの音楽祭と同様の大騒ぎであった!

【プログラム】 2011年10月31日
 1、クレメンティ ピアノ・ソナタ op.34-2
 2、ベートーベン ピアノ・ソナタ第31番
 3、リスト 神前の踊りと終幕の二重唱~歌劇『アイーダ』
 4、リスト イゾルデの愛の死~歌劇『トリスタンとイゾルデ』
 5、リスト 詩的にして宗教的な調べ S173-6、8、1

 於:すみだトリフォニーホール

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