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2011年11月12日 (土)

ヴォルフガング・ボージチ 家庭交響曲 都響 定期 (A/B) 11/10、11

【ボージチ詣で=2夜連続】
現在では毀誉褒貶も激しいオペラ演出の鬼才、ペーター・コンヴィチュニーの仕事で今日、もっとも声望が高いのはハンブルク、そして、それよりも前のグラーツあたりでの仕事である。そのグラーツにおいてピットから舞台を支えたのが、この日の客演指揮者、ヴォルフガング・ボージチだったことは、日本ではあまり知られていない。地元グラーツでは大学の教授も務めるアカデミシャンとしても活躍し、つい最近まで、ハノーファー歌劇場のGMDとしても実績を残してきた。正に、劇場叩き上げのカペル型指揮者である。

2008年にコンヴィチュニー演出の『アイーダ』を輸入し、セット・演出とキャストは直輸入、管弦楽はオペラに疎い都響、コーラスは二期会、会場は舞台芸術では特に響きの悪いオーチャードホール(関東公演)、主催はどこかよくわからない(調べなかっただけだが)という不思議な組み合わせの公演があったが、私は無論、このガチャガチャなプロダクションに興味を示さなかった。しかし、そこでどうやら好評をとった指揮者が3年ぶりに登場し、リヒャルト・シュトラウスの『シンフォニア・ドメスティカ』で再共演するということで、私は少なからず期待を抱いていた。前半はフレディ・ケンプ(pf)の弾くモーツァルトの23番だったが、先日、同じ演目をチッコリーニの演奏で聴いたばかりとあっては耳に毒だと思われた。そのため、「おそ割」の半額で聴いてきたので、演奏会の全部を語るわけにはいかないのだが、それでも喋りたいことが次から次にフツフツと沸いてくるような、豊富なインスピレーションに満ちた舞台であった。

その結果、私は2夜、同じ行動を繰り返すこととなり、結局、通常の1回分の料金とはなったのである。

【日用品】
まず、今回の演奏に接して真っ先に思ったことは、リヒャルト・シュトラウスの作品は派手好みで、豪華ではあるが、それでも、「日常品」として書かれているということだ。当時、ウィーン国立歌劇場ではスタジオーネ・システムからレパートリー・システムへの移行期に当たっていたらしいが、シュトラウスほど、その流れを積極的に受け止めた作曲家はいないように思われる。それは彼の創作が、コンパクトな『カプリッツィオ』や『インテルメッツォ』によって終わっていることからもわかるし、それらの作品のテーマをみても同じようにわかるであろう。

管弦楽編成についていえば、今日の音大の作曲科にもっていけば、大いに無駄が多いとして批判されそうなほど、膨れ上がっている印象はある。その響きは既に述べたようにゴージャスで、遠慮がない。贅を尽くした音楽だ。シュトラウスの音楽は、どうみても、財力や貴族的な豪奢を抜きにして考えることはできない。しかし、実際には、そのような財力なり、貴族的な豪奢を誇り得るような環境など、彼の生きた時代には、世界のどこにもなかったはずである。況や、ウィーンやドイツともなれば・・・。それは、歌劇『ばらの騎士』の終幕にもさりげなく描かれているとおりで、つまり、リヒャルト・シュトラウスのみせてくれる豊かさとは、実に盆栽的な美しさでしかないということだ。しかし、そうであればこそ、人々は「日常品」として、彼の作品を等身大で受け止めることができたのかもしれない。

私は以前、チューリヒ歌劇場の『ばらの騎士』の公演に寄せて、この作品は潔く身を引いていくマルシャリンの格好よさを描いているのではない。オックスやマルシャリンといった中年の男女が、もうすこし早ければ・・・と失われた過去の青春=若さを懐かしむ格好の悪い作品なのだと述べたことがある。それだからこそ、私たちはこの作品に深い共感を抱くということを、再度、強調したい。マルシャリンが颯爽としているのも悪くはないが、そういうのはトレンディ・ドラマ的、もしくは韓流ドラマ的で、一時的な娯楽性を越えた真の共感には至らないのである。リヒャルト・シュトラウスは後者の要素を外面にちゃっかりと設えながらも、その内側にあって、こころある人々だけが辿り着くことができる現実というオアシスをも、同時に掘り当てていた作曲家なのだ。ときに、ここでいう「こころある人々」とは選抜された、一握りのインテリだけを指すのではない。すべての人に、こころはあるのだから。そして、そのこころにアクセスするために、暮らしというものを取り上げたのだ。必要ならば、自らの暮らしを晒しもした。もちろん、奥さんは良い顔をしなかったろうが!

ボージチの解釈はこうした「日常性」を響きのレヴェルで、的確に穿つものだったと評するべきだ。盆栽的な美しさ・・・しかし、その爆発的な美しさを堂々と力づよく押し出しながら、「日常品」としての響きのシンプリシティをどのように得るべきか。ボージチはこのテーマを解くのに、そんなに複雑な手法は使わなかった。もちろん、その「手法」とは完全に、シュトラウスの音楽のなかに仕込まれているものから抽出したものにすぎない。つまり、バロック的な奏法と対位法である。

【シュトラウスの古典趣味】
この作品の管弦楽法をめぐって、特徴のひとつとしてよく挙げられるのは、「子ども」のモティーフとして用いられるオーボエ・ダモーレの使用である。この時代、声量の少ないダモーレは既に廃れた楽器であって、シュトラウス以外で、これを用いた作曲家はほとんどいないはずだ。では、なぜ、そのような楽器を用いたのであろうか。それは多分、思ったよりも単純な理由によるのではなかろうか。1つは、オーボエやイングリッシュ・ホルンよりも響きがまろやかで、優しく、身近な音色がするから。2つは、管弦楽法の達人である彼にとって、ダモーレを生かしきることなどは簡単だったから。以上であるが、もうひとつシュトラウスの古典趣味を抜きにして考えることはできない。この交響曲も、古典趣味をこれでもかと詰め込み、凝縮したような作品だ。

ボージチの演奏で、とりわけ印象的なのはこの部分である。子守歌の部分で響く木管楽器の響きは艶消しがなされ、素朴なバロックの響きで演奏されたからだ。直前の不穏なトゥッティとの対比で、この部分の甘さが、かえって不気味な雰囲気を呼ぶのだが、このボージチの工夫により、作品は非常に堅固にフォルムを構築するかのようにみえた。粘りづよく、かすれた響きを大事に維持しながら、全体がその木管の響きを盛り立てるように静かな情熱を注ぐと、そのシーケンスのおわりに出る独奏ヴァイオリンのところまで、不思議な緊張感がつづくのであった。

リヒャルト・シュトラウスは代表的なワグネリアンでありながら、同時にニーチェの熱心な支持者であり、『ツァラトゥストラ』を交響詩にするなど、反キリスト教的精神の持ち主としてもしばしば評されてきた。しかし、この作品では、いま書いたような古典的な要素が自然と神的なイメージを導くだけでなく、何度も印象的に現れるダモーレによる子どものテーマからみても、まったくちがった角度から観察し得るのである。ここに描かれる「家庭」は最初のシュトラウス一家の日常を晒すプライヴェートな意味合いから徐々に進化し、さも「聖家族」を描くかのような神聖さを帯びてくることになるからだ。ダモーレとは「愛の」ということであり、「愛」はキリスト教的にもっとも重要なキーワードのひとつでもある。「バロック的な響き→神聖さ」という変換原理を明確にイメージし、ボージチはシュトラウスのもつ古典的教養から、宗教や家族に対する深い愛情を合理的に合成して表出せしめたといえるであろう。

【戦争と平和】
対位法の響きは、2日目の演奏において特に強いインスピレーションを与えてくれた。全体的に、その用法が鍵となる作品ではあるが、特にそれとわかりやすいのはフィナーレの冒頭部分であろう。初日はその部分の響きが各パートでやや硬く、細切れで、リアリティのある像を結ぶまでに時間がかかった。しかし、その問題は2日目にはきれいに解消し、力づよく軍隊マーチ風の響きが再び不穏の混沌に陥る寸前に至るまで、理路整然として、情熱的に膨張していく。これ以降に描かれているのは、シュトラウスなりに考察した「戦争と平和」についてのユーモア溢れる見解である。

フィナーレの前半部分では、強かったドイツ陸軍のように整然と算を乱さぬ組織がほとんど遊びの要素もなく、生真面目に繰り返されるばかりだ。そこでは中途に現れる僅かな美しさなど問題にもならず、もはや黒く塗りつぶされたこのシーケンスにおけるクライマックスのように、蟻の這い出る隙間もないようなアンサンブルがさらに凝縮して、もはや為す術なく膨れ上がっていくにすぎない。この響きは正に「戦争」の範疇に属するものであって、もちろん、シュトラウス本人の抱く理想からは遠い。「そうではなくて・・・」とシュトラウスは、すぐさま代替案を提示する。その結果、後半ではルバートなどが効果的に取り入れられ、同じ対位法の構造に表現上、重要な隙が生まれていくのである。この隙に、これまで出現したテーマがきれいに流し込まれることで、ついにコーダの煌びやかなサウンドが生じるというわけなのだ。これこそが、「平和」である。

その平和のメロディはその直後、3本のフルートを主体とした和やかなアンサンブルによって象徴されるが、より広範にわたって利用されているのは、ルバートの技法である。これも、2日目の演奏のほうがわかりやすい。しかも、このルバートは終盤にいくほど呼吸が大きくなるという特徴を示していた。ここで気づくべきなのは、リヒャルト・シュトラウスにとっての日常性=平和=ルバートという筋道である。このことを示せば、ボージチがいかに巧妙なロジックで、アンサンブルを導いたかを端的に示すことができるはずだ。ルバートというと、装飾的な「無駄」のイメージがあるが、実際には、その本体は響きの呼吸、息づかいにある。ボージチがなによりもこだわったのは、その点なのであった。

 (②につづく)

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