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2011年11月 9日 (水)

ビントレー振付 ブリテン パゴダの王子 福岡雄大 & 小野絢子 (+湯川麻美子) 組 新国立劇場(バレエ部門) 11/6 ②

【重なり合うブリテンとビントレー】
ブリテンの舞台音楽というのは、非常に独創的である。私は年代順にいって、オッフェンバック、ヤナーチェク、レハール、リヒャルト・シュトラウス、ブリテンの舞台作品を特に愛するものであるが、このなかでも、ヤナーチェクとブリテンは際立ってインディペンデントな作風をもっている。ブリテンはバッハを尊敬し、オーソドックスな対位法の手法にも十分な価値を見出していたが、そのことは、『パゴダ』においても最後のほうのシーンで明らかに示されている特徴だろう。最初の幕の4花婿の踊りにおいて、2番目に出てくる東の王の踊りなどはもっと古く、バロック・オペラなどで(オルペイウスなどが赴く)地獄を表すときのような響きをもつ。一方、この作品の下地にもなったというガムランの響きが、パゴダの象徴となっているように、新しい素材への関心も実に新鮮で柔らかかった。

ブリテンとビントレーの特徴は、よく重なり合うものである。2人は異文化の価値を真正面から肯定し、自分たちのもっているものとの結合を図る。そして、そういうところにこそ、自分たちらしい味わい=個性を見出そうとするのだ。伝統的なものを重視しながらも、その自分がつよく愛するフォルムへの執着を、むしろ、ひろく解放することで、より均整のとれた発想の秩序を取り出そうとしている。つまり、それは旭山動物園が動物の行動特性に合った独特の展示方法を考えることで、言い換えれば、動物の自由で合理的な生態をうまくコントロールすることで、より高い展示効果を得たのと似たような話である。

例えば、来季は新国オペラ部門で上演予定という『ピーター・グライムズ』の最初の部分などは、対位法丸出しの素朴な構造によってつくられている。しかし、管弦楽法上の機知や、声楽との間の独特な距離が、それだけで作品をなにかみたこともないような新しい境地に導いていくように感じられる。このバレエ作品ではブリテンの音楽のそのような特徴が、より端的に表現されているが、一方ではバレエ・ファンが例えばミンクスやドリーヴの音楽について感じるように、正しくバレエ音楽の典型として見られるような特徴もハッキリと織り込まれている。フィナーレの多彩なヴァリュエーションも、そうした作品の大団円に設定される華麗な饗宴シーンのように観察できるだろう。

音楽については、古典的教養からベートーベン、ベルリオーズ、フランスのグランド・バレエの伝統、ワーグナー、そして、ジャズや、中国・インドなどアジアの音楽のテイスト、とりわけガムランなど、実に広い守備範囲が立体的に組み合わされ、ブリテンという唯一無二の構成力によって、それらは絆を保っている。正に、このような多様性のなかにも、前の記事で述べたような世界平和の理念が隠れているようにも思われるのだ。そして、ブリテン自身は己が「唯一無二の構成力」であるとは露ほども思わず、ガムランに代表される「パゴダ」音楽こそがその役割に相応しいものと感じていたであろうし、そうであれば、これがアクのつよいエピーヌの貪欲をわけなく打ち破るのに、何の迷いもないはずであった。

【ビントレーと日本】
ビントレーの場合、ブリテンにおける「パゴダ」は、明らかに日本に置き換えられたのである。彼は日本という体験によって、そして、歌川国芳という一風変わった浮世絵師の作品によって、ブリテンの衝撃を追体験したのだが、その素朴な反映がこの作品であるのは言うまでもないことだ。国芳の絵には当時の政道を皮肉るようなモーツァルトの『フィガロの結婚』的な視点もあるのだが、ビントレーがどの程度まで国芳について深く理解したのかは定かではない。作品を見るかぎり、国芳の特徴は表面的なところにしか表れていないし、逆にいえば、その皮相のレヴェルで捉えるところに、舞踊としての味わいがあるようにも感じられる。

ただ、これがビントレーにとっての「日本」であると言われれば、現にそこに住んでいる私たちにとっては、いささか鼻白むところもないとは言えないだろう。当初はその点を危惧してか、能楽師の津村禮次郎を皇帝役にクレジットし、演出にも加わってもらう構想であった。その影響は小さな動きばかりを組み合わせるのではなく、むしろ、大きな動きをゆっくりとおこなう踊りが多いことでよく表現されている。例えば、フィナーレのコール・ド・バレエでも、音楽の高揚に合わせて西洋的には動きを増やしたいところで、かえって動きを大きくし、表現を大きくする工夫がみられるのであった。

そのような謙虚な姿勢がみえるとはいえ、ビントレーにとっての「日本」経験は、まだまだ少なすぎると言わざるを得ない。私は能楽師や歌舞伎役者、日本舞踊の先生といった典型的な和の「芸術家」よりも、お座敷に出る舞妓さんや、祭りに関わる市井の人たち、民間の民俗舞踊に携わる人たちなどに教えを乞うたほうが、ずっとよくビントレーの特徴を表現し得たのではなかろうかと感じる。何度も述べるが、そのためにもっとも納得のいかないシーンは、最後の幕で、兄妹と王様、道化師たちが4王を殺陣によってのしてしまうシーンなのである。例えば、あそこで『アラディン』に登場した獅子舞や龍の舞のような象徴によって、パゴダの王子らが国を守ったとするなら、ブリテンの想うような作品のイメージに、もうすこし近づけたであろう。

つまり、世界の安定や平和がテーマである作品の最後が、結局、暴力で締まっているのは具合が悪いからである。その部分は音楽的にもいまひとつ噛み合っているようには感じられず、踊り手の工夫によって、いくら殺陣が良くなったとしても、カヴァーできない問題を含んでいるようだ。アメリカ人など銃をもっているのに、それをぶっ放すことはなく、銃剣のようにしてかかっていくのだから意味がわからない。

【小野と湯川~新国きってのプリマ】
ダンサーたちは、よくやっている。特に小野と湯川のパフォーマンスは、この2人が、現在の新国バレエ団において双璧のプリマなのだと思わせる充実のパフォーマンスを披露している。ダンスのフォルムの美しさももちろんのことだが、各々が自分の役柄のなかでベストを尽くせるように、考えられる最大限の努力が尽くされているのがよくわかるパフォーマンスである点が、観客にプラスαの感動を与えるのである。小野は踊りのつくり込みが丹精で、踏み込みが深く、特に舞台のうえで「成長」していく役柄は彼女自身のいまとピッタリ重なるせいか、この上もなくリアルな感覚を抱かせるのだ。一方、湯川は豊富な経験が身体のなかに染み込んでいくようなタイプの踊り手であり、その迫力ある表現の特性には磨きがかかり、ここにきての充実ぶりには目を瞠るばかりである。

こうした個性が、さくら姫とエピーヌの特性には正しく一致するのであって、この2人が舞台をみる観客の共感を分け合うのは当然であるが、カーテン・コールでは、特に湯川に対する女性客からの声援が多く、小野に対しては男性客の称賛がつよいということで、さもありなむというところであった。

その他のダンサーもみな、このプロダクションに賭ける想いは一方ならぬものがありそうだったが、例えば、第2幕でみられるようなヴァリュエーションにおいては、『アラディン』の洞窟の場におけるようなパフォーマンスとは異なり、個の力よりも、アンサンブルの意識が重視されているように思われる。その物凄さが爆発したのは、既に述べたように、フレイム・ダンスのあとのコーダにおけるパフォーマンスだろう。その分、個々の良さをどのように出すのかは、もっと研究の余地がありそうだ。

【マーフィー指揮東フィルは好パフォーマンス】
また、このようなアンサンブルを生かすも殺すも、音楽次第というところもあるけれど、その点、ビントレーの盟友、ポール・マーフィーの指揮ぶりには隙がなかった。東京フィルはロイヤル・バレエのオーケストラもかくやというような柔らかいパフォーマンスで、ビントレーの音楽的な部分・・・その表面的なフォルムの美しさに傾いた解釈に、つよい説得力を与えていたものである。金管等、いつも問題になるようなパートもわりによく踏ん張っており、要所に配置されたオーボエも響きがやや痩せているものの、息の長い聴かせどころを粘りづよく吹いていて、決して悪いパフォーマンスではなかった。イングリッシュ・ホルン(コール・アングレ)は秀逸。王子のモティーフを支えるトランペット、さらに、チェロ・バスも良い。ガムランを支える打楽器群のパフォーマンスも鮮やか。東京フィルはいつも、こうした演目には力を発揮するようだ。

音楽面については既にいろいろと書いたが、それを受け止めるコリオグラファー(=ビントレー)のセンスで面白いと思ったのは、彼のなかでは、この作品を書いたブリテンと、例えば、”Still Life” のサイモン・ジェフズとの間に、それほど大きな差を見出していないということである。2つの作品は、私には兄弟のように似ているように思えたのだが、それはデヴィッド・ビントレーというコリオグラファーの個性がとてつもなく強いせいなのであろうか?

【まだ始まっちゃいねえよ!】
舞台装置や衣裳のことなど、いろいろと書きたいこともあるが、キリがないので割愛し、ここでいったん中締めとする。

とにかく、『アラディン』もそうだし、日本版 ”Still Life” もそうだが、このような演目は時間をかけて、繰り返し上演することで、ドンドン磨きがかかっていくものだ。今日、アシュトンだの、ベジャールだの、マクミランだのといったコリオグラファーによる伝統的な作品が十分に熟成した・・・完成したプロダクションとして演じられるのは、長い歴史のなかで、そのような磨き込みが継承者たちの情熱によって厳しく守られ、発展をみたからにほかならない。その点、ここで示された新国のダンサーたちの情熱は、もっと長く、粘りづよく育てられるべき性質のものなのだ。そういう意味では、北野武監督の映画『キッズ・リターン』のなかに出てくる有名な台詞を思い出す。

「俺たち、もう終わっちゃったのかなあ・・・」「バカ野郎、まだ始まっちゃいねえよ!」

観客としても、また次が観てみたいという想いをつよくする舞台であった。

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