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2011年11月 6日 (日)

ビントレー振付 ブリテン パゴダの王子 福岡雄大 & 小野絢子 (+湯川麻美子) 組 新国立劇場(バレエ部門) 11/6

【導入と全体的な印象】
デヴィッド・ビントレー振付によるブリテンの『パゴダの王子』の舞台、千秋楽の模様をリポートする。終演後はセットに緞帳が引っ掛かり、破れてしまうという珍事に見舞われたが(最終日でよかったネ!)、舞台そのものはビントレーらしい特徴に満ちたファニーなもので楽しめた。この日はサラマンダー(火とかげ)と化した王子に福岡雄大、その妹のヒロイン役、さくら姫に小野絢子。そして、継母役、エピーヌに湯川麻美子というキャスティングである。いま「継母」としたが、本来は「姉娘」のはずであり、王子と姫の関係も「兄妹」ではなく「婚約者」のはすだが、ビントレーの意趣変更に基づくと思われる劇場発行のリーフレットに従って、そのように書く。このことは若干、プロット上の問題を含んでいるが、それについては後述する。

まず、舞台全体の印象を書くと、いささか微妙な後味が残っている。新国立劇場のために、ビントレーがつくったオリジナルの舞台としては『アラディン』に次いで2作目だが、その作品や、”Still Life at Penguin cafe” と比べて、若干、完成度では劣るように思われたのだ。そのわりに、舞台をみての満足度はかなり高いと来ている。不思議な現象だ。つまり、私の知性、それに、舞踊に関する教養やセンスが、ビントレーのつくった世界観に追いついていないということなのであろうか。逆説的な言い方であるが、私はやっぱり、ビントレーの表現センスに魅せられているのであろうと思う。

【ビントレーの特徴】
コリオグラファーとしてのビントレーの特徴はいくつも指摘できるが、そのなかでも私にとって印象的なのは、次の2点である。1つは、娯楽性と批評性(社会性)のバランスが素晴らしく、それら両方が分離的にではなく、共時的、相互連絡的に融合している点である。もう1つは、異文化やそこに住む人々の性格のちがいを統一的に糾合し、表現として高めていく点にある。単純化していえば、いずれも「混ぜる」ということに主眼があり、そのセンスの良さに共感が集まっていると考えられるわけだ。我々は「個性」という言葉が大好きだが、ビントレーの場合はネーションや習俗のちがい、あるいは、娯楽と芸術というちがいを乗り越えていくところに、よりワイドな個性を築いていくのが面白い。

この作品も、またそのような作品の典型であった。ビントレーにとって、この『パゴダの王子』は彼にとっての先達から随分と以前に勧められた作品であったといい、トラディショナルな素材であるようだ。しかし、その開花には、日本という体験が必要であった。浮世絵が、彼にヒントを与えたということである。

まったくの門外漢による素朴な思考であるが、浮世絵の凄さというのは、平面と立体が同時に存在しているような独特の感覚・・・もっと正確にいえば、平面のなかに閉じ込められたがゆえに、いよいよ輝きだす立体性の力づよさに求められるのではなかろうか。印象派の画家たちはそこに、彼らが一生懸命に開発した遠近法の手法や、陳腐なリアリズムの手法をはるかに、素朴に越えている超越的な感覚を発見し、それを梃子にして彼らの絵のなかにある生理的な弱点を克服しようとした。しかし、21世紀に生きるビントレーはもちろん、そのような視点のみに飽き足りるわけはなくて、その感覚の中心にある、「日本」そのものに注目したようである。

さて、ビントレーは、どこまでそれに成功したのであろうか?

【4人の花婿】
舞台は最初の王子の葬送場面のあと、さくら姫の婿選びの場へと転換される。和装で扇子の舞が煌びやかに展開され、明らかに祝祭的である。浮かれているのは、しかし、王妃だけである。ひととおりのシーケンスのあと、年老いたような王様がこける場面があり、これを助け起こそうともしない王妃の無慈悲さに、人々は呆れるであろう。この感情のなかで現れる花婿候補の4人の王たちは、もちろん、観客の歓心を得られようはずもない。北の王様はノーブルで豪華、帝政ロシア的。南の王様は象牙を携え、アフリカ的でもあるが、衣裳はサンバを踊るときのもののようでもあり、南米的なものとのチャンポンだ。東の王様はエキゾチックな格好で、トルコやエジプトの雰囲気か。清代の「中国人」という説もあり、私が水パイプと思ったものは、アヘンだという人あり(なるほど!)。そして、西の王様は米国の象徴「アンクル・サム」そのものであった。

これらの王様が自己アピールのために踊りをすることで、男性ダンサーの見せ場を手際よく組み立ててしまおうとするコリオグラファーの意図は、もちろん、まことにわかりやすい。あわよくば、これらのダンサーと王女を絡ませれば、4通りのパ・ド・ドゥとその組み合わせが拝めるわけである。4人の王様はそれなりに役割を果たしたが、感心したのは彼らの踊りそのものというよりは、音楽の特徴をよく捉え、それを手際よく4方向の王様に振り分けたビントレーの機知の鮮やかさだ。こうしてみると、なるほど、ブリテンの音楽はきわめて合理的である。第1幕は特に、ブリテンがいかに熱心なワーグナーの信奉者であり、同時に批判者であったかがわかるというものである。

4人の花婿、エピーヌ王妃、さくら姫、サラマンダー(王子)には、それぞれわかりやすいモティーフが設定されており、それらの絡み合う風景は、そのまま踊りの交わりによって表現されていた。ここで予想外だったのは、4人の花婿と一緒にパ・ド・ドゥを演じるのが、王女ではなく、エピーヌのほうだったことである。白い神聖な着物を脱ぐと、権力の象徴である紫の和風ドレスに身を包んだ王妃が、活き活きと踊りはじめる。ここで見せた湯川の鋭い踊りのエネルギーは、終盤まではっきり印象づけられて観客の胸のなかに生きるであろう。一方、この踊りによって、4人の花婿たちの踊りは色を失う。新国立劇場の男性ダンサーは、世界のどこに出しても恥ずかしくない女性ダンサーたちに比べると、やはり遅れをとっていることは否めなかった。

【音楽を見事に視覚化するビントレー】
それはともかく、ビントレーの音楽に対する批評センスは、指揮者も顔負けである。上に示したようなモティーフの絡み合いについては既述のとおりだが、第1幕でもうひとつ鋭かったのは、悲しみのモティーフのなか、三部形式の音楽に合わせて踊る部分である。この主部においては王女はリリックに、彼女の置かれた孤独や不安の感情を表現するが、トリオにおいては幻想のなかで彼女と手に手をとって踊る兄の姿をイメージし、実際に、王子とのパ・ド・ドゥとなる。この2つの場面の対比を、ビントレーは見事にダンスで視覚化しているのであった。

終盤、響きの昇華に応じて、ダンスをキビキビとまとめ、キレのいいアッチェレンランドをつくる手法は、既に『アラディン』などでも体験してきたところだ。この幕の最後では、姫が婿たちを押しつけようとする母親の手を逃れ、サラマンダーと、寸胴型でアタマと腹がやたらに大きい宇宙人のような姿をした部下たちに導かれ、雲に乗って逃げていくまでの様子がテンポ良く描かれる。雲は平面的で、日本の大衆的な芝居などで用いられるセットを髣髴とさせるが、これが劇のなかではいやに上手に嵌り、これにまたがるサラマンダーの姿は、つい先刻までの違和感をスッキリ忘れさせるほどにキリッとしている。『アラディン』の魔法の絨毯の場面を思わせるが、あれよりは、すこし直覚的な感じである。

【姫の積極性についての問題】
第2幕は王女が様々な困難を切り抜けて、サラマンダーのいるパゴダをめざす件である。多分、『オデュッセイア』やオルペイウスの故事を下敷きにした試練の場だが、その実、王女の絡みはさほどではなく、洞窟の場におけるアラディンと同じように、彼女が積極的に試練に対して絡まないのには違和感があった。ただし、1つ1つのヴァリュエーションは見事に訓練されており、その要所に試練の主として現れるエピーヌ王妃と思しきキャラクターの使い方などもドキッとする。こうして本来は、第1幕のあと終幕における帰還後まで、本来は絡まない姫と王妃の対立が手際よく、別のエピソードのなかに描き込まれているのは興味ぶかい発想だ。

だが、それだけに、その要素と、姫の絡みをどのようにうまく組み立てるかは、大きな課題として残ったように思われる。姫は結局、深海魚をモティーフとしたキャラクターにつかまって、ジェットコースターのように弄ばれ、疲れ果てて、パゴダの浜に打ち上げられる。正に、オデュッセウスである。これでは、あまりに、王女は受け身なのではなかろうか。

ただ、そのシーケンスの最後のほう、フレイム・ダンスのコーダで壮大なコール・ド・バレエとなる場面は物凄かった。これは、ドミニク・ウォルシュによる『オルフェオとエウリディーチェ』の舞台の一部でみられたのと同じくらい、壮麗な動きのドラマになっており、この一場面をみるだけでも十分に券面の価値はとれるというほどのものだッたことを強調しておきたい。

【ブリテンの音楽の深い襞に隠されたもの】
しかし、この幕にはもうひとつ重大な見せ場がある。それは目隠しをした王女にサラマンダーが優しく近づき、そっと昔の思い出を語ることで、自分が彼女の兄であることを気づかせるシーンだ。この場面には子どものダンサーによる助演がつき、そこで響くシンミリしたか細い音楽ともども、ブリテンの厚い音楽の壁の向こうに隠されていた、ノスタルジーに対する優しい共感に包まれる。それに気づいた会場は、シンとなってしまうのであった。

そもそも、この作品はなぜ書かれたのであろうか。作品は1957年、英国ロイヤル・バレエのジョン・クランコの委嘱に応じて書かれたものというが、20世紀も半ばになって、なにゆえ、こんなフェアリー・テイルのような珍妙な素材が選ばれて、バレエとして制作されたのであるか、私はその答えを知りたくて観劇に出かけたのであった。

否、英国といえば、アーサー王を助けたという魔法使い・マーリンの話が格好よく脚色されて、歴史ものともファンタジーともつかないTVドラマとして制作されていたり、魔法学校のかわいらしいハリー・ポッターがバシリスクなんていう怪物と闘ったりする映画(つまらなかった!)が大ヒットするような国であって、別段、そのことに驚きを感じる必要もないのかもしれない。サー・アーサー・コナン=ドイルは少女たちが生み出した「妖精」を本気で信じ、大騒ぎしたというし(映画『フェアリー・テイル』にもそのあたりの顛末が描かれた)、幽霊騒ぎを描いたヘンリー・ジェイムズの怪奇小説も大きく当たり、『パゴダ』と同じブリテンが今度はオペラ化しているのだから、英国人はこうした神秘的なものに惹かれやすいという陳腐な結論を導くこともできるだろう。

しかし、1957年といえば、欧州では連合国の戦勝の喜びも既にスッカリと覚め、今度は東西冷戦の脅威に世界が凍り始めたときであった。東西南北の文化が政治色に汚染され、非文明国の・・・あるいは、原始的平和の思想への回帰が重んじられた結果、このようなフェアリー・テイルに託して「希望」が語られているとするならば、これもまた、ブリテンや、その背後に生きる英国の人たちにとっての、平和への願いが込められている作品だと評価することも可能なようである。一方、気に入りの娘に多くの土地を与え、無慈悲な娘に残りを与えるというモティーフは、シェークスピアの『リア王』とネガ/ポジ的な展開である。ただ、無慈悲な娘は無慈悲な娘にすぎず、こころ優しい愛娘に多くを継がせたところで、かえって恨みは深まり、パニックを生むという皮肉が描かれてもいる。これはやはり、欧州における天使と思われたイギリスやフランスが犯した失敗を、いささか批判的に描く試みかもしれないと思う。

【ビントレーの独特な解釈】
ビントレーはいま言った最後の部分は省略し、エピーヌを王妃の立場に上げることで、筋をすこしばかり単純化させた。彼女を継母にすることで、私たちのイマジネーションは『シンデレラ』の世界や、リムスキー=コルサコフの『サルタン王物語』のような世界へも羽ばたくことができる。さらに、『オデュッセウス』やオルペイウスの故事にみられるような世界観もまた存在することは、前に述べたとおりだ。こうしてビントレーは、原作品においてみられるような世界観の、大胆な拡張を試みたのであろう。

また、彼が排除したものに代わって、次のような視点を導入したことも重要である。彼の振付ではエピーヌは単なる性悪で無慈悲な女というよりは、非文明国による、文明国に対する憧れの象徴として逞しく描かれているようだった。エピーヌは人々にとって当然の願いであって、それに対して、さくら姫はネーション・・・彼女の場合は日本という要素(個性)を背景に立ち向かうことになる。ただ、ビントレーの持ち味に合わせて、さくら姫の代表するのは単純なるネーション=日本ではなく、より広範に統一されたアジアのなかでの日本である。そして、彼女は世界を拒否し、得体のしれないサラマンダーの世界に希望を託すのだ。

このアイロニーは、かなり厳しいものであるように見受けられる。一見、姫の選択はアフガン人が米国人への不信から、結局、タリバーンを頼みにするようなことに通じているかのようにみえる。そのようなコリオグラフィーをジャーナリスティックに組み立てることも可能だったろうが、実際にはそうではない。ビントレーの見方は結局、王女が卑しいとみたもののなかにしか現実は存在しない、という真実を冷静に観客へ向かって突きつけているからだ。とはいえ、その解決が殺陣における武力的勝利のみによって印象づけられるような、そのことには強い反発を感じるところもなくはない。

いずれにしても、目隠しをしながら、こころの原風景を自らの脳裏に描き出してみよう、とビントレーは観客に訴えたかったのであろう。目隠しをして踊ることには相当の困難がつきまとうだろうが、そこから先は間違いなく素晴らしい場面がつづく。我々の目にみえるのは大体の場合、過去へのノスタルジーのようなものであろうし、その視点は、明らかにブリテンのなかにあって音楽として顕在化しているものでもあった。このような美しい解決、音楽の深層部への果敢な切り込みは、終幕においては十分でないようだ。つい先ほどまで要介護状態であった王様が娘と息子の帰還に歓喜して、今度は元気に殺陣にまで加わるなど、いささか首を傾げる表現が多いのだ。

しかし、スローなグラン・パ・ド・ドゥのあと、各人が見せ場を共有し合う、いかにもバレエ的な最後のヴァリュエーションなど、もちろん、楽しめる要素も少なくない。傘を使ったライン・ダンス、そして、大団円のあとは、開演前、ピットに腰かけて奇術を披露していた道化役を前に出し、同じように舞台端のピット間際のところに座らせて幕を閉めるなど、シンフォニー的な要素の視覚化がさりげなく為されている点も面白かった。その最後の部分は、第1幕の最後と同じように急速なテンポの尖鋭化があり、ビントレーが日本の劇場のダンサーたちをみて、もっとも効果的な特徴としては「機動性」という要素を重視していることが明らかである。

 (②につづく)

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