2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 4月期初 在京オーケストラの来季展望 | トップページ | 落語家 立川談志師匠、逝く »

2011年11月20日 (日)

黛敏郎 歌劇『古事記』 東京文化会館50周年記念フェスティバル 11/20

【悪くなるはずのない舞台】
黛敏郎の歌劇『古事記』は1996年、ドイツのリンツ州立歌劇場の委嘱によって制作された。言語は、ドイツ語の古い語彙を使ったという。2006年におこなわれた東京文化会館主催の「日本オペラ絵巻」のときには、その理由を日本語による歌唱法が確立していないことからだったと解説していたのに、今回の公演に際してはそのことについては触れず、リンツ側からの要望だったことが理由に挙げられている。一体、どちらが正しいのだろう?

今回は東京文化会館の「50周年記念フェスティバル」事業の目玉として音楽監督の大友直人の肝煎りで実現し、これが国内では2度目の上演となるが、同氏が東響で初演した際には舞台装置がつかないコンサート形式だったため、今回が舞台上演による日本初演となるとの次第である。それなりにリソースも使われる公演だけに、贅を尽くしたプロダクションになっている。日本に現存する3つの主なカンパニー、二期会(関西二期会も含む)、藤原歌劇団、新国立劇場の歌手やコーラスを併用し、海外で歌う人たちも呼び入れて、オール・ジャパンの体制を整えた。演出の岩田達宗をはじめとする裏方陣も日本の舞台芸術を支える主要なメンバー、これに東京文化会館=大友直人(指揮者、同館音楽監督)=都響(同館のフランチャイズ・オーケストラにして東京都の所有オーケストラ)というリソースを注ぎ込んだ上には、能楽師の出演まで願って作り上げた舞台であった。

悪くなるはずはない。

【黛の抱いた原構想】
素材は『古事記』のなかでも、よく知られたエピソード4つに求められている。すなわち、イザナギとイザナミによる国づくりと、オルペイウス神話にも似た黄泉の国における2人の破局。アマテラス・スサノヲ姉弟の不和に端を発するアマテラスの岩戸隠れと、それを止めさせる神々の計略の顛末。改心したスサノヲによるオロチ退治の件。そして、姉弟の和解と、ニニギの天孫降臨である。これが全部で90分くらいの時間でまとめられているのだ。1970年代以降の保守運動への傾斜から、右翼・国粋的な思想をもつというイメージがある黛敏郎の作品だけに、このような素材を選ぶからには、なにやらきなくさい政治臭を感じさせたのだが、実際には、政治的な視点からみたときには、きわめてリベラルで、インターナショナルな中身をもつ物語にすぎなかった。

晩年に入った黛にとって、左右両翼の政治闘争など何ほどのものだったろうか。彼は1996年という時点で、もっと大きな思想に目覚めていたようだ。彼が『古事記』の制作を通じて得たかったものは、そうした小競り合いにはまったく還元し得ないような、我々、日本人の生きる原理であった。あるいは、「日本人の」という限定をつける必要はないかもしれない。人間が人間としてあるために大切にしなければならない原理・・・つまりは太古の精神を、日本の神々にまつわる物語のなかで描き上げようとした。神話の世界においては、洋の東西にかかわらず、それほど遠い発想で隔てられてはおらず、そこに国境を越えた共感が生じるはずである。

それが黛の抱いた原構想であったように思われる。

【プッチーニ的】
しかし、その「大きさ」は、完全には彼の掌中に入らなかったという気がしてならない。現代の作曲家は、3つのストリームのなかで、もがく。1つはシェーンベルクに端を発し、人間が新しい発想で、理知的に統御された未知の境地を切り開いていくという前衛的な視点(①)。もうひとつは、ワーグナーのように風土や人間と結びついた思想のなかで、超論理的に音楽が組み立てられるという視点(②)。最後に、そうした要素をすべて放棄しても、直感的に人間存在の真実を衝くことができるというプッチーニ的な視点である(③)。黛のこの作品は、①の視点を完全に排除し、②の視点をめざしているが、最終的には③の視点にまとまっている。

例えば、私が作品を聴きながら、やや後追い的に思い浮かべたのはプッチーニの歌劇『トゥーランドット』のことであった。似たような素材があるとかいう話ではない。音楽の味わいや、そのストリームに潜む滑らかな通俗性に、この作曲家との共通点を頻りに発見していたのである。黛は、この作品を書くにあたって、きっと、いろいろな先行の傑作を思い返していたにちがいない。モンテヴェルディの『オルフェーオ』をはじめ、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』、ワーグナーの『リング』や『パルジファル』、それに『トリスタンとイゾルデ』、そして、プッチーニの作品などである。音楽的教養がゆたかな方ならば、浅学な私よりもずっと多くのピースを見つけて、パズル遊びに興じることもできただろう。だが、それらの構想をまとめあげるのに、黛はワーグナーの手法を主に志しながら、実際にはプッチーニのそれになってしまったということを、私は指摘したい。

なにも私は、ワーグナーよりもプッチーニのほうが低俗で、劣等的な存在だと言っているのではない。たとえその作品が低俗であるにしても、その低俗には意味がある。そもそも『ボエーム』のミミの生涯と、『リング』のブリュンヒルデのそれを比べて、比較することには意味がないであろう。前者は感情や情緒の極点を示し、後者は理知性や社会性の極致をいくものだ。本来、人間はこれらの両方をともに備えているものだが、芸術的な視点からは、「二兎を追うものは一兎をも得ず」ということになりやすい。黛は多分、こうしたことをよく理解しており、理知や社会性の極点にまずは到達し、その鏡によって感情や情緒を照らすという構想を考えた。しかし、実際にできあがったものは、感情や情緒の鏡によって、理知や社会性を照らすということになっていたのである。

そうした点において、團伊玖磨の『夕鶴』と、黛敏郎の『古事記』は驚くほど似通っているのだ。

【この作品の弱点】
なるほど、『古事記』は優れた作品だ。しかし、いまからほんの15年前、制作の1996年時点において、世界に冠たる存在とまでは言いきれないのではなかろうか。もちろん、音楽的な新しさはない。そして、精神的な新しさも、視点の新しさもあまりない。そこにあるのは私たちが安心して見られるような、コンパクトな、既に完成した視点である。逆にいえば、黛はこの時代のなかで、臆せず、そのようにシンプルなメッセージに徹したと評することもできる。しかし、仮にそのような視点を仮定してみたところで、そこには黛の絶望しか感じられないのではなかろうか。

もうひとつ、私がこのオペラの弱点として感じたものは、エピソードが概説的になっている点である。それは黛の選択であり、いわば小さな場面をキビキビと鋭く、素早く切り取っていくことで、現代人特有のスピード感に古典のゆったりした時間の流れを合わせこもうとしたのであろう。アンチ・クライマックスでもなく、各エピソードには非常にプリミティヴな響きのヤマが設定されている。そのため、随所に聴きごたえのある音楽的な要所が輝く一方で、それらはなかなか連鎖的な関係に発展せず、そのことは人物の関係についてもあてはまる問題にもなっている。

この作品では一応、アマテラスとスサノヲの姉弟の関係が中心的な素材となっているが、しかし、第1幕は彼らの生まれる前の話が中心であり、第3幕にはスサノヲしか登場せず、第4幕では、今度はスサノヲのほうが登場せず、代わりに伝令が彼の意志をアマテラスに伝える。ここで伝令はグラール語りのような颯爽とした見せ場を演じることになり、名もない役柄のわりには、この幕で鍵となるような役割を演じるのである。このような大筋をみるだけでも、この作品がオペラとしていかに成り立ちがたいかを示すのに十分であろう。

【黛の想いと岩田演出の照応】
個人的なことをいえば、第2幕がいちばん面白かった。アマテラスはスサノヲの傲慢を赦すが、その愛情を裏切って放蕩の限りを尽くすスサノヲの所業に怒って岩戸隠れをする。その浅はかさを諌めるため、知の神、オモイカネは踊り子に舞いを踊らせ、祝祭を挙げさせて、驚いたアマテラスが外界を覗こうとするときに彼女を岩戸から引っ張り出す。ここでオモイカネはさらに一計を案じ、鏡に彼女自身の姿を映させて、その眩さに気づかせようとする件がじんと来るのだ。これは見様によっては国粋的な考え方にも通じるが、もっとユニヴァーサルに、己というものに対する絶対的な肯定の姿勢を示し、それを見えなくするのが自分自身であることを端的に物語るものであろう。これは日本中が自信を失っていると言える昨今、人間のこころの在るべき姿を示すような重いメッセージであると考えられる。

また、1996年といえば、既にバブル経済が崩壊し、日本は「失われた10年」の只中にあったときだ。現在、かつての事件を知らない若者たちが「アレフ」に入信する例が増えているらしいが、その前身のオウムが地下鉄サリン事件を起こしたのが1995年で、クニの精神状態が不安定な分裂症状を示しているのが象徴的だろう。黛はもはや右翼だの、国粋主義だのという以前に、人々が下を向き、もはや未来がないと嘆いているときに、このような作品を書いたのである。イザナギとイザナミは、彼らの「希望」において結びつく。アマテラスが過去を照らし、スサノヲは現代を平らげ、ニニギに未来が託される。この流れは、非常に重要だ。

しかし、重要なものを切り捨てるところにしか、芸術的な成功はあり得ないということを思い出してほしい。例えば、私が広瀬彩のモノ・ドラマについて批判したことも参照していただくとよい(リンク)。彼女がエピソードの羅列によってヤナーチェクと、その晩年の愛人、カミラの関係を描いたことに対し、これではその関係性に具体性が足りず、真に重要な関係の本質には至らないと批判したところである。黛についても、同じことがいえるのだ。第1幕と似たような関係(オルペイウスの神話)を描くのに、モンテヴェルディも、グルックも、相当の時間を割いている。黛は天地創造のところを含めて、僅かに40分だ。これで、関係が成り立つのならば奇跡というほかない。この問題が積み残しのまま、時代は次の世代に移っていくのだ。

演出の岩田達宗は、そうした流れをも「家族」という大河に組み入れることで、十分に具体性をもつだろうと考えたようである。しかし、そのような考えはどうも、実際の舞台からはまったくと言ってよいほど伝わってこなかった。それは音楽的に、演出家の考えと響きあう部分があまりにも少ないせいだ。また岩田は、『古事記』原文を読むと自然災害と闘ってきた太古の人々の姿と関係があるようだと述べ、黛の作品からもそのような視点を紡ぎだしたいという意図を語っているが、これもまた実際の舞台とはあまり関係がないように思えた。これもやはり、黛の音楽のなかには希薄な考え方だからであろう。後者の考えは、津波にやられた私たちに対して有効で、いささか「泣かせる」宣伝文句であるが、私はこういうところに、この演出家の浅薄さしか見出さない。

しかし、岩田のそのような考えがつまらぬ思いつきであるにしろ、彼の構想は、決して舞台をぶち壊しにするような性質のものではなかったのだ。それどころか、合唱の役割に注目し、ギリシア劇のコロスに擬せられるような表情ゆたかな演技を引き出すことで、作品の魅力の一端を浮き彫りにしているところなどは、なかなか感心させられたところである。もうひとつ、岩田がこだわったのは表現のシンプルさであろう。舞台装置も、中心の角度のついたせり上がり付きの回転舞台を終始、効果的に利用し、その高さや角度の巧緻な組み合わせで、舞台から様々な表情を生み出す技術をみせたのは技ありというところであった。このような表現のシンプルさは、黛の音楽にとって決定的な特徴を成すものでもあろう。

【キャストや管弦楽について】
さて、これに息吹きを入れる歌手たちのパフォーマンスは、適材適所とは言いがたい。個々のパフォーマンスは、決して批判すべきものではなかった。カーテン・コールではブーイングともブラヴォーともつかぬ、妙な掛け声がかかっていたが、私は全員がそれなりに役割を果たしていたとは思う。しかしながら、残念ながら適材適所ではないのだ。例えば、スサノヲはローエングリンが歌えるようなヘルデン的なテノールが歌うべきだが、高橋淳は以前よりもずっと成長したとはいえ、まだまだヘルデンに挑むには早すぎる。アマテラスを歌った浜田理恵も凄い歌手だと思うが、やはり、この役柄に相応しいドラマティコの声ではない。このキャスティングで納得のいくパフォーマンスを見せたのは、オモイカネの妻屋秀和とアシナヅチの久保田真澄で、いずれも藤原勢なのは偶然ではないのだろう。ほかに、伝令役の吉田浩之は彼こそがスサノヲに相応しかったのではないかと思わせる堂々たる仕事ぶりで、最後の幕を引き締めたものにしてくれた。

これに代わって、活き活きとしたパフォーマンスで全体を盛り上げたのは、新国合唱団+藤原合唱団(正確には日本オペラ協会合唱団)で、これをまとめ上げた合唱指揮の三澤洋史の手腕はさすがである。なお、プロンプターには、服部容子女史がクレジットされている。大友直人率いる都響はオペラ伴奏に慣れていない分、声との溶けあいに課題はあるものの、非常に芯のつよい響きと、多彩な情景の描き方には妙味があり、ドイツ的にマッチョな肉体性ではないにもかかわらず、堂々たるプレゼンスを見せつけて優秀である。あまり振る機会は多くないが、大友のオペラ指揮はなかなか鋭く、表現はシンプルだが、プリミティヴな味わいがあった。

そのような野性味は、黛のこの作品では非常に重要であり、例えば、第2幕の舞踏場面において、合唱団の拍手とともに、『サロメ』の踊り的な力強い肉欲の響きを、自然な高揚のなかで描き出すことに成功している。また、最終幕ですべての場面が片付き、エピローグとなる場面では、正に素材がまるきり解けて、弦の特殊奏法で蛇のような細長い響きができる場面が、とても上手に表現されている。この場面にも登場し、また、最初の場面でこの作品を覆う哲学を語る「語り部」には、能楽師の観世銕之丞が出演。この語り部の付け足しは劇場側からの要請であり、黛は消極的だったようだが、今回の舞台で唯一、後世の我々が黛に助力をした場面といえそうである。能楽師の口上は、すべての場面を貫いて印象的だった。久しぶりに、お能がみたくなったのは私だけではあるまい。口上はもとはドイツ語だったろうが、今回は能楽師に文語交じりの現代語でわかりやすく表現しているのはご愛嬌である。

いろいろ批判点もあるが、接することができて良かったと思える公演だ。23日にもういちど上演があり、できれば、多くの人たちに見てもらいたいものである。

なお、ここまで書いてきて、まだ食い足りないものが残っているので、もしかしたら、この記事はあとで加筆する可能性があることを付記しておく。

« 4月期初 在京オーケストラの来季展望 | トップページ | 落語家 立川談志師匠、逝く »

舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/53294104

この記事へのトラックバック一覧です: 黛敏郎 歌劇『古事記』 東京文化会館50周年記念フェスティバル 11/20:

« 4月期初 在京オーケストラの来季展望 | トップページ | 落語家 立川談志師匠、逝く »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント