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2011年11月13日 (日)

ヴォルフガング・ボージチ 家庭交響曲 都響 定期 (A/B) 11/10、11 ②

【シンフォニア・ドメスティカ】
前回の記事では、リヒャルト・シュトラウスの音楽の「日常性」について中心的に書いたが、次に注目すべきなのは、この作品が『アルペン』のように「シンフォニー」ではなく、「シンフォニア」・ドメスティカ Sinfonia domestica であることの意味である。なぜかイタリア語でつけられた題名のうち、’domestica’は「家庭的な」という意味であり、一般的な『家庭交響曲』でもよいが、私にはこれでは硬すぎる感じがして、『わが家のシンフォニア』とでも呼ぶほうが適当と勝手に思っている。ところで、私がここで注目するのは「ドメスティカ」のほうではなく、「シンフォニア」のほうである。なぜ、’Sinfonia’なのか?

これについてはいろいろな要因が考えられるが、いまはそれらのほとんどを割愛して、1つの論旨に絞りたいと思っているところだ。

その前に整理しておく必要があるが、’sinfonia’はイタリア語で、「交響曲」のことを指すと多くの辞書に書いてある。しかし、ことイタリアでは、ハイドンやモーツァルト、ベートーベンが確立したような「交響曲」の伝統は浅いように思われる。単に「管弦楽」的な意味であったやもしれぬが、伝統的にイタリアで「音楽」といえば、やはりオペラのそれでなくてはならない。シンフォニアはまず、オペラの冒頭などに置かれた短い前奏的なものというイメージが先行する。そうだとすれば、(これは間違っている可能性も大いにあるが、)シンフォニアは「シンフォニーよりもコンパクトな作品」というイメージになり、どちらかといえば、「シンフォニエッタ」にちかい意味になると私は考えるものだ。

【なにがコンパクトなのか?】
仮定に仮定を重ねるような話で恐縮だが、そうだとすれば、一体、なにが「コンパクト」だというのであろうか。少なくとも、曲の長さや編成の大きさのことでないのは自明である。ズバリ、その答えを示すとするならば、それは主題とその関係についての話といえるのだと思う。この作品の独特なところは、複数の素材の混合である夫の主題、情緒的な妻の主題、動的でアイロニカルな子どもの主題が近接して登場し、この手のライトモティーフ的な素材の扱い方に厳粛な考えをもつ人たちにとってみれば、いかにも「軽薄」なスタンスでそれが用いられるところにある。いま「軽薄」といったのは言葉のアヤで、そのような表現はいま述べたような条件の人たちからみた偏見に基づいたものにすぎないのであるが、これを逆手にとって開きなおる論法もまた、ここでは効果的かもしれない。

つまりは、次のようなことなのだ。リヒャルト・シュトラウスは、なるほどワーグナーの音楽を参照しているし、題名を偉大なるベートーベンの名曲=”Sinfonia eroica”と対応させていることからもわかるように、伝統的な古典派の形式を踏襲してもいる。しかし、それらを取り入れるときに、彼は敢えて、それらの手法をより軽く加工することを忘れなかったのだ。交響曲の大構造のなかに、無数の交響曲的形式の小片を含み、近接的な3つの主題グループをフレキシブルに組み合わせ、あるいは、剥がしていくことで、作曲者は「家庭」のなかのあらゆる細かなエピソードをきれいに描き分けることができた。そのため、多分、クラシック音楽のなかでは初めて、ベッド上の出来事までを丁寧に描写することもできたのである。

ボージチはこのような特徴を正面から扱い、きれいに整理することにかけては天性の資質をもっている。

人間の生活とは、決して思想では表現し得ないものであろう。ときには思想を越え、またときには、思想よりもずっと緩いもので構成されるからだ。優れた文人たちがしばしば、その私生活においては、その思想からは考えられないほど幼稚な行動に出ることを思い出せばよい。「20世紀最高の知性」などと評されるポール・ヴァレリーでさえ、ヴィシー政権下のフランスでは政治的、文化的ないかなる知恵も発揮していない。ハイデッガーは、ナチスに入党した。そんな高尚な例でなくともよい。三島由紀夫の芝居めいた切腹騒ぎや、歩きながら思案に暮れているときに、溝に躓いてトラキアの女たちに嘲笑されたタレスの例でも結構なのだ。天才数学者のガウスは、無益な決闘に死ぬ。孤独な詩人、ランボーは砂漠に行ってしまった・・・。

ボージチは、そのような逸脱をも堂々と物語る大胆さを知っている。それは上に示したような端整な音楽づくりのなかでも、各パートを自由に歌わせ、アンサンブルの組み合わせも大らかに組み立てて、奏者たちのアイディアに従うという「技術」を的確に用いていることからもわかる。多少、アンサンブルに軋みが出たとしても、そのときこそは指揮者の出番なのだということがわかっているし、実際、そうなったときにどういう手練手管があるかということにも十ニ分に通じているのだろう。

【2日間の演奏のちがい】
そのため、2日間の演奏は総論的には同一の特徴を示していながら、1回1回の演奏に、ハッキリと別々の印象を示すことができる。10日は初日の緊張感やサントリーホールの響きの特性もあり、彼の端整な音楽づくりの特徴が特に目立ち、キビキビとした素材の組み合わせや、その鋭いずらしに何度も新鮮な驚嘆を味わった。一方、2日目はその緊張感がやや和らぎ、都響のアンサンブルは自分たちの自由さをよりハッキリと意識して、大胆な表現をめざそうとしたのであろうか。その結果、響きは初日より逞しく、開放的となり、特に、フィナーレの対位法の部分が良くなったのは既に述べたとおりである。全身に神経を行き渡らせるボージチの指揮(しかし、煩くはない)もこころなし、控えめになって、相手に任せる部分が増えた。初日の成功で、ボージチは都響の備えるアンサンブル能力に対して、つよい信頼感を抱いたのであろう。結局、このような調節が巧い指揮者というのは、実戦向きである。

もちろん、エリシュカもいうように、演奏が日毎にブレるのはいいことではない。しかし、中心線がしっかりと筋立っているのであれば、多少の揺らぎはあって当然だ。特に、このようなシュトラウスの難曲では、そもそも毎回、同じ結果が出るというようなことを作曲者は期待していなかったであろう。

【まとめ】
今回、このようなオペラティックなところのある曲目を組んだのは正解だし、ボージチが持てる能力をハッキリと発揮することができた演奏会であったことは幸いだった。ベルティーニ、サヴァリッシュ、エリシュカ、スクロヴァチェフスキ、スダーンなど、プロフェッサー型で、実践的な経験を積んだ指揮者と日本のオケの相性は素晴らしいものがある。今回も、そのような例のひとつとなった。2日間、連続して足を運んで、半分だけの演奏会だが満足感も高い。同じ演目で2回も出かけたのは、私にとっては珍しいことで、ロジェストヴェンスキー&読響によるシュニトケのヴァイオリン協奏曲(+オラトリオ『長崎』)、新国バレエ”Still life” などの限られた機会だけである。そのようなことから、私の大きな共感を感じ取っていただければと思う。

かつて愛していた都響をきくのも久しぶりで、前回がいつだったか思い出せないほどのご無沙汰となる。四方コンマス、店村特任首席ともにはじめてだが、ずっと昔からいたように馴染んでいる。特に、店村の溶け込み方はさすがである。四方コンマスのソロは、特に初日の張りつめた感じが良い。これを店村がグリッサンド(?)をかけながらオシャレに受ける部分があるのだが、この部分の柔らかさにはもう、うっとりとなったものだ。一方、弦ではヴァイオリンに次いで出番の多いチェロのソロは硬く、若干の不満を抱かないでもなかったことを付言しておく。

都響は両定期とも、終演後のアプローズはきっかり4回の入退場のみで切るようにしているようだが、それには収まりきらない称賛の温かさが感じられた。再びの登場を願いたい。

【プログラム】 2011年11月10-11日

 1、モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 *聴いていない
  (pf:フレディ・ケンプ)
 2、リヒャルト・シュトラウス 家庭交響曲

 コンサートマスター:四方 恭子

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