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2011年12月13日 (火)

レジス・パスキエ & 金子陽子 フォーレ ヴァイオリン・ソナタ第1番 ほか @海老名市文化会館 12/11

【震災から9ヶ月】
震災から丸9ヶ月が過ぎたこの日、北風は収まり、うららかな冬晴れの東京であった。この9ヶ月で私たち日本人が、被災地のために為し得たことは意外に少ない。にもかかわらず、電力や物流といった私たちにダイレクトに関わる問題が薄れた今日では、被災地の生活に対する報道もぐっと少なくなった印象がある。そして、私たちの関心事も震災直後からすると急速に狭くなり、最近ではどこにホット・スポットが出た、何の商品に放射性物質が混入していたという話題に限られるようになっている。これは民主党が悪い、誰が悪いという問題ではなく、マスコミを含めたすべての権力機構、そして、その権力の源泉である我々国民がいかに腐敗しているかということを示している。

我々の国が、ギリシアやイタリアよりも優れているようにはとても思えない。もちろん、それは私自身に対する反省も含めて言っていることだが。

【海老名市文化会館】
それでも、私は1時間以上をかけて海老名を訪ねた。ヴァイオリンのレジス・パスキエとピアノの金子陽子によるリサイタルを聴くためである。高速のSAで有名な海老名だが、小田急の駅を出てみると、この日の気持ちの良い陽気のせいか、なかなか空気が清々しく住みやすそうなところに思えた。文化会館のある西口はJRの駅との狭間で、広大な駐車場が広がっている。駅から5分ほどの何もないところに、ぽつんと文化会館は立っていた。大ホールではちょうど太鼓の大会が開かれており、あるいは場所を間違えたのかと慌てたが、案内板にはめざすコンサートに名称がしっかりクレジットされていた。

小ホールは築地の浜離宮朝日ホールによく似た構造だが、空間が広くとられ、規模も1Fのみ120席で、2F/バルコニー席はない。天井が高くとられ、適度に響きが拡散して聴きやすく、見かけ的にもこぎれいなホールである。気に入った。小田急線の遅れにあわせ、開演時間はフレキシブルに10分繰り下げられた。これも都内の主要ホールではあまりない配慮で、さらに気に入った。そして、いちばん気に入ったのは演奏である。

【名技性も凄い】
プレヴューにおいて、パスキエは堅実なヴァイオリニストだと書いたが、実際には、私の想像をはるかに超える名技性の持ち主でもあった。いきなりアンコールのことから書くのも問題だが、あの見事な『ツィガーヌ』の演奏はこのよく知られた名曲の価値を、私たちに再検証してみせるものであった。深々と彫り込まれ、腹の底から発されるコクのつよい響き。中低音から高音まで隙なく、丹念に鍛錬された厚いヴァイオリンの音色。フランス音楽=音色や色彩の音楽と位置づけられるが、その音色やら色彩というものを成り立たしめるのが、揺るぎない響きのベースであることは、パスキエの演奏を聴けばよくわかるというものだ。

レジス・パスキエは、20世紀の後半を代表するタイプのヴァイオリニストで、高い機能性を誇り、そこにおいて音楽を語ることのできる数少ない演奏家である。パスキエの演奏を聴いて、フランス音楽の「本丸」を言い表すには、この機能性というキーワードに尽きると思った。ときに、ここにいう「機能性」とは一体、何なのであろうか。それはこれから、順次、述べていくことになるはずだが、一言でいえば、音色、リズム、アーティキュレーションといったようなマテリアルを、楽曲の表現に対してどのように生かすかということだ。例えば、右半身が不随になり、左半身だけで暮らす人がいたとしよう。この人にとって現存する機能は、左手や左足の動く部分を、いかに生きるために生かしきるかということに尽きるはずである。音楽家が、それもパスキエのような天才的な音楽家のもっているリソースでさえ、無限ではないが、その楽曲の表現のためにそれをいかに生かしきるかということで、演奏の良し悪しは決まってくる。

仮に10もっているアーティストが6しか出さないで満足していたとしたら、いかに完璧な演奏であったとしても、私たちはいかなる感動も味わうことはないだろう。パスキエの場合は逆に、10のうち10を出しきるのは当然として、それが段々と、12、13・・・と拡張されていくような印象を受ける。聴くほどに、惹き込まれていくヴァイオリニストなのだ。こういう人はなかなかいないものだが、アーヨ、ルセヴ、ケラス、今井信子といった数少ない、特別な弦楽器奏者に出会うと、ピアノやオーケストラの非ではないほどの喜びを聴き手に与えるものである。この日が、正にそうであった。

【ラヴェルとドビュッシー】
演奏会は、いきなりアンコール・ステージのようなサン=サーンス『ハバネラ』に始まった。開口一番、こういう曲を弾かれるとディナーの最初にデザートを食べる感じで気持ちが悪いものだが、パスキエの演奏には品があって、徐々に違和感も吹き飛んでしまった。

しかし、私にとっては、あとの2曲の弾き分けがとても深く印象に残っている。すなわち、近代フランス音楽を代表するドビュッシーとラヴェルのソナタである。この2人はよく対比的に論じられ、ラヴェルは都会的で、ドビュッシーは田園的などと評されるものだ。この2人の音楽は語法的にはよく共通点があるものの、内的な部分で差が激しいため、ドミニク・メルレなどはそれらを同時に弾くことの難しさをよく心得ているようだ。彼は浜コンに際するインタヴューで、2人の曲目を同じコンサートで取り上げたことは一度もないと言っていた。その困難を、パスキエは上手にクリアしたわけである。

パスキエの描くドビュッシーの音楽は「田園的」どころか、事に依ると、ラヴェルよりも破天荒である。彼の音楽には、いかなる自然さもない。あるのはたっぷりの皮肉と、音楽を内からぶち壊すような強すぎる波動である。かといって、パスキエはなにか目新しい演奏スタイルで、そのことを強調してみせたというわけではない。冒頭のガツンと来る音色のあと、彼の奏でた音楽は中庸のテンポで、ガッチリした構造を丁寧に辿ってみせるだけのことなのである。しかし、その堂々とした筆致が、かえってドビュッシーの音楽がもつイロニーを強めるのであろう。

その本質に来るのは、ひとつには楽器の使い方の問題である。

バロック時代の古楽器では、弓のアップとダウンで明確な差があり、その差を利用して多彩な響きを導き出し、音楽の修辞法として言葉のように扱うことが可能であったという。ところが、ロマン派のころ、より性能の高い弓が出現すると、アップとダウンの差は解消し、より安定して美しい響きが出せるようになった。ロマン派以降の音楽はそうした楽器を前提に書かれているが、ラヴェルやフォーレの作品では、その違いがまだ強く意識されている印象を受ける。そういう面でいえば、フォーレもラヴェルも伝統を重んじる保守的な作曲家であるが、あとで述べるように、彼らは彼らで、その自縄自縛を破るための独特の語法をもっていた。一方、ドビュッシーの場合は、機能の合理性のためならば、七面倒くさい決まりごとには拘泥しない。パスキエにとって、ドビュッシーはより野性的で、平易な音楽だと思えるのではなかろうか。

この日の演奏を通じて、ドビュッシーのソナタはもっともパスキエの表現にぴったりと来るもので、その音色の素朴な味わいが、ピアノとの柔らかい対話のなかでごく自然な輝きを放っていた。物語めいた曲想も感じさせながら、パスキエは作品を立体的なイメージで彩っていく。五嶋みどりはHP上の楽曲解説で、この曲について「本質的に2つの楽器がお互いを伴奏しサポートしあうことは殆どありません」と述べているが、パスキエはその反対のことを考えている。確かに、「面」で2つの楽器が支えあう局面は、あまり感じ取ることができないが、無数の「点」で2つの楽器は親密に寄り添っている。パスキエは、いつも耳を傾けていた。その耳の鋭さがもっとも異彩を放つのが、終楽章の冒頭であるように思われる。

ここで、第1楽章に現れた旋律がソナタ的に回顧されるのはわかりやすい。だが、それは一瞬の夢のように消え去り、下手な演奏では、ドビュッシーがまったく別の発想で作品を展開させるようにも見えてしまう。そうなれば、ドビュッシーの仕込んだイロニーなど吹き飛んでしまうはずだ。だが、それを会話に見立てて表現することができれば、構造的にガッチリとした凝縮をみせることになろう。ハーモニーや、その集積や再配置による構造ではない。象徴と対話による、より緻密で、壊れやすい構造なのである。終盤、2つの楽器が役割を分け合い、音階を上がり下がりしてスリリングな構造を示す場面をみるとよい。そして、ピアノの低音から導かれる、アイロニカルな短いコーダである。この面白さを、パスキエほど上手に語った人を私は知らないのだ。もちろん、その傾聴に足るピアノのふくよかなメッセージがなくてはならない。その点、金子のピアノは多くの味わいを含んでいるのだから、パスキエは、それを存分に活用するだけでよいのだ。

もちろん、ドビュッシーに負けず劣らず、ラヴェルのほうも破天荒ではあるだろう。とはいえ、ドビュッシーが放擲したものを、ラヴェルは「まだ使えるもの」として大事にした。時代的にはフォーレ→ドビュッシー→ラヴェルの順に現れるが、フォーレ→ドビュッシーの間に鋭く切り替わった音楽の基本形式を、ラヴェルはいったん元に戻すところからスタートした。ベートーベンの9つの交響曲に対して、ブリュッヘンが言ったことを応用するならば、フォーレ→ドビュッシーはアップ、ドビュッシー→ラヴェルはダウンだ。もちろん、ブリュッヘンはむしろ「ダウン」の時代で生きてきた人なので、この「進歩」の方程式はアップが必ずしも上位とは限らないことは前提条件といえる。

既に述べたようなボウイングの面で、ラヴェルは古典的な伝統を引き継いでいる。アップとダウンにはまだ何がしかの差が明確に意識されているようであり、ドビュッシーの場合と同じように、響きの機能性にだけ注目して音楽をつくることは誤謬につながるであろう。フォーレとラヴェルは、ドビュッシーよりも繊細な、マニエリスティックな構造美を否定していない。それを示すかのように、パスキエはドビュッシーの曲よりも細かくボウイングを工夫して、細々としたアーティキュレーションを組み立てていた。今回の曲目のなかで、私はこのラヴェルの演奏にもっとも深い共感を抱いたが、それはこのようなデザインのアイディアがもっともゆたかで、かつ、精緻に実施されていたと思われるからである。

これを「機能」というキーワードでいえば、ドビュッシーの場合のそれと、ラヴェルにおける場合とでは、すこし意味合いがちがってくるということになる。ラヴェルの場合の機能とは、とりもなおさず、このようなマニエリスティックなアイディアを成り立たしめるためのすべての構想や実施、つまりは形式=構造の美というものがそのほぼ全てであるのに対し、ドビュッシーにおいては、その実施の面が重くみられ、響きの合理性(いかに強く、輝かしく、効果的に響くか)ということのほうが優先するからである。

【パスキエと金子の描くブルース】
ところが、ラヴェルの中間楽章「ブルース」においては、この機能の差がまったく取り除かれてしまう。これこそが、ラヴェルの破天荒さの秘密である。そこでは響きの合理性と、技術や形式のマニエリスムが、見事に手を結んでしまう。その媒介として、ラヴェルはジャズの要素=ブルースを選んだが、実のところ、その媒介はなんでもよかったはずだ。それにしても、パスキエと金子はそのあたりをうまくやった。ブルースの自由さを損なわず、しかも、それを形式のなかに上品に漂わせたからである。「上品に」とは、「シャッキリ」という意味だ。新大陸のそれと、ラヴェルの思い描いたものは、まったく同一というわけではない。2人は、そのことを明確に物語っている。

つまり、2人のパフォーマンスは我々の知っているブルースから逆算したような、つまり、確からしい「答え」が先にあって、そこから帰納的に演奏法を編み出したようなものではなく、最初からラヴェルのアタマのなかにあったはずの、「ブルース」の結論(イメージ)に寄り添っていたのである。それはとりもなおさず、スコアに書かれたことと誠実に向き合うという態度にほかならないが、イロニーという観点からみれば、それは伝統音楽に対するつよい批判精神から来ているのも間違いないところだろう。いま書いたことの前半部分と後半部分が、演奏の前後半にそれぞれ対応するのは言うまでもない。ピアノとヴァイオリンの声部は徐々にセパレートし、つよい毒性を伴って頂点を打つと、最後、おもむろにガス抜きされておわる。

1つ1つが生き物のようなピッチカート、ヴァイオリンの力強い生命感に対して、ピアノのプレゼンスの確かさもやはり目立つ。しかし、この問題については、次のフォーレのためにとっておきたいと思う。このラヴェルにおいては、第3楽章を単なる名技的な見せ場と捉えず、むしろ、悠々と進んでいくことで、楽曲のもつ響きの威容を捉えていたことに注目したいのだ。

【ピアノの味わい目立つフォーレ】
さて、メインは、フォーレのソナタ第1番である。印象的な渦巻くような旋律を大木のように堂々と打ち立て、特に、装飾的なフレーズのほうに重点を置いている。そこに至る論理的な音楽の運び、繰り返しにおける理知的な差のつけ方などに、パスキエらしい手堅い音楽性を見つけることができる。フォーレの名前を冠したガブリエル・ピアノ四重奏団の創設者だけに、金子の弾くフォーレというのも、なんとも味わいぶかいものであった。燃え盛るような情熱的なラインのつくり方と、1つ1つの打鍵の末広がりの柔らかいフォルム、その色彩感の充実など、日本ではほかにいないタイプのピアニストだ(敢えていえば児玉桃がいるが、金子はそのレヴェルとは比較にならないほど豊かな音楽性の持ち主である)。フォーレでは、そのピアノがヴァイオリン以上に味わいを発揮したという面もあった。

パスキエの場合、もちろん、名技的な部分でも舌を巻かせられるのだが、より静謐な響きをじっくり聴かせる部分がなんとも魅力的である。そういうとき、金子がさりげなく音楽を運び、パスキエの音楽を海辺の涼やかな波のように押し流していく様子が、また堪らないのである。白眉は、スケルッツォであろうか。特に、トリオにおけるヴァイオリンとピアノの音色の対話の深さ。そこから再び主部に戻るが、慌てずじっくりした音楽づくりで、肝心要のポエジーを逃さない。フィナーレも、ピアノのリードが美しい。特にフレーズの後半でふうわりと浮かび上がり、柔らかく膨らむ響きの涼やかさがなんとも言えなかった。これに乗ってつくるヴァイオリンのラインは、ごくシンプルで、質素なもので良い。パスキエは、そこをハッキリと割りきって弾いているようだ。

この作品における機能は、ズバリ、詩情というところに向けられている。ドビュッシーは純音楽的、ラヴェルは響きと構想や形式の綜合というところに主眼があったが、フォーレでは、まず作品の湛えるポエジーが重くみられている。それは音色や響き、技術、構造、形式といったものの綜合であり、その集大成をかける位置に、ドスンと世紀の名匠、ガブリエル・フォーレが陣取っているといういるわけだ。その後の音楽は、ラヴェルのような省略や凝縮(印象派以降の絵画にも顕著な傾向だ)、あるいは、ドビュッシーのような新即物主義的な機能主義へと展開する(絵画ではキュービズム)。

まあ、ナントカ主義という美学的な分類が正しいのかどうかという議論はひとまず置いても、要するに、フォーレという作曲家に対して、2人が印象づけたイメージは完璧な均整と、それにもかかわらず、それをはみ出しかねない表現の本丸、言葉では「ポエジー」としか言いようのないものへの情熱的なアプローチである。あの温厚なパスキエのヴァイオリンが、これほどまで自由に振る舞えるのも、ひとえに金子陽子というパートナーのガッチリした支えあってこそのことである。この2人のパフォーマンスは、本当に素晴らしかった。東京で公演がないのは、どうしてなのだろう。多くの人に聴いてもらいたいだけに、残念である。ただし、こと私にとっては、こんな素敵なパフォーマンスを僅か120席のホールで聴けたのは、幸運なことだったのかもしれないが!

【あとがき】
上機嫌で文化会館を後にするとき、上空を耳をつんざく轟音を残して軍用機が飛び去っていった。そういえば、ここから米軍と自衛隊による共用の厚木基地はほど近いのである。私の母の故郷、旭川のことを思い出す。また、文化会館の敷地には、防災用の備蓄倉庫が置かれている。そういえば、私たちの街の備蓄倉庫はどこにあるのだろうか。なお、被災地での物資不足は未だ解決しない。寒冷地である東北ではこの時期、新しい需要に直面している。例えば、リンクのページでは、被災地で本当に必要とされているものが書かれているのでご参考までに。例えば、多く寄せられている古着などは、震災直後には需要もあったかもしれないが、いまはもう必要とされていないとのことである。

なお、この日本ツアーより売り出しとなる金子陽子の新譜、フォルテ・ピアノによる演奏で、モーツァルトの「ゴールデン・エイジ」に書かれた作品を弾いたCDも買い求めてきたが、これがまた素晴らしかったことも報告しておきたいと思う。

【プログラム】 2011年12月11日
 1、サン=サーンス ハバネラ
 2、ドビュッシー ヴァイオリン・ソナタ
 3、ラヴェル ヴァイオリン・ソナタ ト長調
 4、フォーレ ヴァイオリン・ソナタ第1番

 於:海老名市文化会館(小ホール)

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コメント

パスキエ先生が読んだら、仰天するような感想、興味深く拝読しました。
バロック弓からモダン弓への「進化」の「方程式」を、ドビュッシーやラヴェルに当てはめる。
ドビュッシーが「アップ」で、ラヴェルが「ダウン」・・・・。

次回、パスキエ先生が来日された時、尋ねてみます!

書いたことがちゃんと伝わってないのは、私の不徳と致すべきところでしょう。アップ・ダウンは、2つの意味で使っています。1つはフランス・ブリュッヘンが新日本フィルのベートーベン・プロジェクトで、まず、ハイドンからベートーベンの1番で飛躍的な革新を起こしたことを言って「アップ」、2番ですこし後戻りして「ダウン」、3番でまた革新を開いて「アップ」・・・というように、アップ・ダウンを繰り返して全人類的な革命ともいえる『第九』に至る道のイメージを説明したことと関係しています。

もう1つはボウイングに関する問題で、パスキエの演奏に対する印象から、ドビュッシーはもう、完全にアップ・ダウンの差を感じていないようだが、ラヴェルはまだ、そこに意味を見出しているように思うということを書いたつもりでいます。2つのことを混ぜて理解されるのは、私の本意とするところではなく、おかしな印象を招くことになります。

なお、繰り返し投稿される場合はハンドル名でも結構ですので、一応の名乗りをすべきであり、「とおりすがり」というのは止めてほしいと既にお願いしているところです。次回、「とおりすがり」名による投稿は内容の如何によらず削除することを明言しておきます。

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