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2011年12月24日 (土)

下野竜也 『第九』 読響 特別演奏会 @東京オペラシティ 12/20 ②

【劇的表現から会話的表現へ】
第4楽章については、快速なテンポが話題の中心になりそうだ。しかし、そのことは私にとっては予想のうちである。確かに大詰めの ’Freude,schöner Götterfunken...’ 以下の物凄い速さについては、私も意表をつかれた。これまでの演奏でも速いことは速かったが、ここまでではなく、言葉を噛んで含めるような表現(劇的な表現といっても差し支えない)が可能である範囲に止まっていた。それが今回は、完全に会話的な表現に変化していたのである。もちろん、このことは芸術的な歌の表現である「劇的表現」が生命を奪われて、芸術性のない「会話的表現」に陥ったという意味にはならないことに注意せよ。

会話的な表現といったときに、クラシック音楽では2つの意味を感じさせる。1つはバロック的ということ、もう1つはオペラ的であるということだ。今回の演奏に関しては、どちらを適用してもうまく話を進められるが、私は前者のスタンスを採用して評価を為してみようと思う。なぜならば、それは第3楽章で感じられたようなイタリア様式の感覚と、対応的な関係で考えられるからである。とはいっても、イタリアといえば、なんといってもオペラの国なのだから、結局のところ、同じ話になってくるのは目にみえているのだが。

【響きの明るさ】
このことを論じるにあたって、私はもうひとつ、大事な要素を指摘しておくことを忘れるべきではないと思う。それは、響きがとても明るいということである。低音弦のモノローグでさえ、例外ではない。すべてのカンタービレが、ハッキリ明るめにとられていた。この意味を、私はずっと探して求めていたものである。私はその答えに少しずつ接近していったが、先に述べた大詰めの部分で決定的なものを得た気がしている。つまり、下野の解釈はイタリア・バロックにみられるような会話的な表現を『第九』において実現し、劇的表現の仰々しさ(例えば、苦悩を突き抜け…というようなステロータイプ的な解釈)を取り払ったうえで、シラーが書き、ベートーベンが選び取った言葉の響きが、自然とステージから客席に広がっていくようにしたかったのではなかろうか。

【現代ドイツ語に照応する表現】
合唱指揮の三澤洋史は、小林研一郎のようにそれを執拗に要求する指揮者の場合を除き、巻き舌を使わないで現代ドイツ語にちかい発音を自然なものとみている。日本語もそうであるように、言葉は変化するのが普通なのだ。例えば、ドイツ語の ’er’ は古い時代には巻き舌で発音されたが、現代はもうそうではないという。ヴェルテル、ヴァグネルとはいわず、ヴェルター、ヴァーグナーというのが普通なのだ。言葉は生き物であり、伝わることにもっとも大きな意義がある。歌やオペラの場合でも、古い発音をそのまま残すことにも意義はあろうが、聴く側とのギャップはそれだけ開く。訳をわかりやすく変えただけで、ただただ難解だった『カラマーゾフの兄弟』が世間の大ベストセラーになったことを思い出してほしい。

下野の『第九』解釈も、正にその類なのだ。よっぽど、現代的、古典的を問わず、ドイツ語を話さないオーディエンスに対して、そのような解釈がどれほどの意味をもつのかという疑問はある。しかし、少なくともそのような演奏姿勢は、ベートーベンが目指したような全人類的な統合を目指すような歌詞のダイナミズムを考えたときには、十分に価値のあるものである。しかし、下野の場合は、それだけに止まらない。既に述べたように、彼は『第九』を究極的な全人類的言語として高めるために、イタリア・バロックという原点に響きを返したのである。

【ベートーベンとイタリア】
あまり指摘されないことだが、ベートーベンは常にイタリアに規範を置いていた。否、ベートーベンに限らず、多かれ少なかれ、独墺系の作曲家はイタリアに憧れ、それを自らのアイディアの源泉と捉えていたものである。モーツァルトも父親の英才教育のあとは、まずもってイタリアの伝統を学んだのだ。メンデルスゾーンは「イタリア」シンフォニーを書き、シューベルトも『イタリア風序曲』などを書いた。リストやワーグナーは、しばしばイタリアに遊んでいる。リストはイタリアの文化、特に古典的な人文の世界に憧れて、しばしば作品にも仕上げたし、その女婿、ワーグナーの初期オペラは明らかにイタリア・オペラの影響下において書かれている。ベートーベンはロッシーニのブッファを称揚し、サリエリにはイタリア歌曲の書法を習っている。その成果がある時代のベートーベンの作風に影響しているのはよく指摘されるところだが、これを『第九』の世界に適用するというのは奇抜な発想なのかもしれない。

イタリアの2つの特徴は、明るく庶民的で、屈託のない直線的な表現と、リストの曲名に譬えて言うならば、「詩的にして宗教的な」感じとなる。これら2つの感覚は、多分、通底しているのであろう。ベートーベンも、そのことをハッキリと見通していたのか、『第九』においてこれらの要素を徹底的に衝きあわせて、イタリアのバロック的な要素とオペラ的な要素を意識的に混合して、巨大な歌曲『歓喜の歌』として仕上げたとすれば、これは大変に素晴らしい解釈だ。しかし、そのような構想は構想として、それを説得力のある形でプレゼンテーションするのは、なかなか困難なことなのではなかったろうか。幸い、下野&読響&新国合唱団というパッケージによって、その困難は巧みに超越せられた。

【象徴になっていた各楽章】
思えば、この構想を生かすためにこそ、ほかの3つの楽章の演奏もデザインされていたのかもしれない。例えば、第2楽章のロシア趣味との対比は、時代を次第に彩り始めたロマン主義的な傾向に対する、ベートーベン的な結論を示唆するものとなる。もちろん、ベートーベンの結論はわかりきっており、どれほど甘美で重大なテーマであっても、ロマン主義的な演奏になってはならないのは言うまでもない。とはいっても、新即物主義ではないのだから、「詩的にして宗教的」という姿勢が重要なのだ。そのスタンスは第1楽章の厳格な演奏や、第3楽章の正に宗教的な・・・バロック時代風に宗教的な雰囲気によって、完全に象徴されている。私が前の記事で「否定ではない」と言ったのは、そのことがアタマにあるせいであった。

【合唱とオーケストラ】
細心の注意を払い、壮大な演奏意図によって貫かれたこの日のパフォーマンスが、陳腐なものにおわるはずはない。下野はこの時代を象徴するような、究極的な演奏により、彼にとって大事な『第九』の世界に一区切りをつけたと言えようか。私はもう、少なくとも、この路線においては、これ以上の演奏というのはあり得ないように思う。既にふれた最後の部分は、その象徴的な出来事である。ほかの部分は、私たちがカラオケで真似できないこともない。『第九』とは技術的にも難しいところがあるが、まあ、そのような曲だといって間違いではない。ところが、あの終結部分だけは、どうも私のようなものには歌えそうもない、正にプロの歌い方が必要である。単に技術的なものもそうであるが、表現に対する一貫した意図、言語に対する鋭い感覚や、ドイツ語会話に対する深い理解、そして、圧倒的な声量といった諸要素が、完璧に容易されていなくてはならない。

そして、それほど詳しく触れることができなかったが、オーケストラの各パートも、伴奏に下がる終楽章の合唱付き部分においても、変わらぬ集中力で響きを織り上げていたのも印象的だ。あの明るい響きを維持するに、声楽家だけの力に頼るのは無理である。例えば、コントラバスのパートには、首席として楽団を支え続けた星秀樹の顔がない(都響の演奏会に出ていたという情報あり)。19日付で退団されて、西澤首席の横には新入りの外国人奏者(ノーランは別にして、近年の読響では珍しい)が弾いていた。しかし、モノローグを聴いても、その穴が感じられることはない。下野の演奏意図を感じさせる、明朗な響きをハッキリと丁寧に演奏していた。

オケのなかで、特に活躍が目立ったのはファゴットだ。井上、吉田両首席のうち、いずれが吹かれていたのかは私の位置では確認できなかった。しかし、要所でふくよかで、伸びのある響きを聴かせており、随所に目立った活躍を見せている。ファゴットが貼りついた場合、その個所では響きがまろやかながらも強化され、全体の響きが柔らかく浮き上がっていくという特徴をもつが、これが特に効いているのである。目立たぬ楽器、ファゴットの健闘については一言しておきたかった。

【ソリストは男声優位】
なお、ソリストについては、意外なことに男声が優位であったと報告する。バリトンの与那城敬、テノールの高橋淳ともによかった。与那城は想像がついたが、高橋が意外に適任であったのは良い方向の驚きである。女声(ソプラノが木下美穂子、メゾが林美智子)はそれほど目立った見せ場もないし、強調する点はないが、敢えて言えば、ソプラノの木下美穂子のパフォーマンスからは彼女らしい伸びやかで、毅然とした歌声を感じなかった。短いパフォーマンスだけで断ずることはできないが、私は彼女の歌が聴く度に悪くなっていると感じている。次回、聴くときには、私の意見が根拠に乏しい論難にすぎなかったことを確信させてほしいと願うものだ。

【まとめ】
これが通常の演奏会であればもっと称賛されてしかるべきであるが、それでも多くのオーディエンスが一体となっていたかのような雰囲気を与えたのは、演奏が良かったことの証拠であり、今後、少なからず好評が聞こえてくることを楽しみにしたい。なお、NTVは年中に『第九』放送をおこなう慣例であるが、28日に、ことしも放映が予定されているようであるので、これもまた楽しみだ。幸い、尺に収まりやすいサイズの演奏でもあったのは偶然であろう。

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