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2011年12月21日 (水)

下野竜也 『第九』 読響 特別演奏会 @東京オペラシティ 12/20

【下野竜也の第九】
下野竜也の振る『第九』は多分、少なくとも関東圏では聴き逃したことがないはずだ。東響でドヴォルザークの交響曲第6番を振るのを聴いて以来、私は下野への一貫した信頼を置いてきたが、そのなかでも、彼の良さがもっとも発揮される楽曲は、なんといってもベートーベンの交響曲第9番=『第九』であった。しかも、彼の演奏は1回ごとにちがい、右肩上がりの成長をみせてきた。読響との1回目(ライナー・ホーネックの谷間の公演/この成果がのちのポスト獲得につながったという)、東京フィルとの公演、読響との2回目、そして今回だ。彼はベーレンライター新版などの最新の楽譜研究の成果も取り入れ、ブライトコップ旧版やそれによって培われてきた日本や世界の『第九』演奏の伝統も参照しつつ、常に新しい地平を切り開いてきたものである。

その結果、ヴァイオリンの対向配置や、バス楽器の両翼配置、終楽章をはじめとする速いテンポの設定など、新しいイディオムが次々にお馴染みのものとなり、合唱指揮の三澤洋史と組んでは、巻き舌を使わない現代ドイツ語のカンヴァッセーションからみて自然な歌詞発音にも取り組んできた。合唱付きの部分の、最初のクライマックス ’vor Gott’ のフェルマータ部分で、オケのみをディミヌエンドするというアイディアもよく知られるようになっている。これらは、「楽譜どおり」という言葉で説明できる。新しいイディオムを取り込むだけではなく、下野は楽器間のバランスの調整にも細かな配慮を払い、特に第2ヴァイオリンやヴィオラの織り成す弦の内声が活き活きと、作品を彩るように組み立てた。

2011年の『第九』は、また、それらとは趣を異にしていた。まず、配置の面で対向・両翼配置は採られず、読響では珍しいことに、ヴィオラとチェロでは、チェロが外側に来るように並んだのである。そして、これまでのシャープな演奏姿勢はそのままに、より分厚い響きのダイナミズムが膨らむように音楽が再構成された。特に第1楽章の堂々たる威容は、読響の『第九』ではスクロヴァチェフスキのそれにちかいものになったといえる。再現部の第1主題、ティンパニの連打を伴う豪快な場面では、スクロヴァチェフスキの場合、最強打のところでもう嵐に打たれるような衝撃があって、いまでも記憶に新しいのだが、下野はそれに次ぐ激しい響きを盛り上げた。

【こころを込めた丁寧な演奏】
そうはいっても、力づよくせんがための粗さのようなものは、まったくもって感じられない。それどころか、弾きだしの金管と、弦楽器による対話から丹念な音楽づくりで、その後の名演を予想させた。なんといっても、ことしは日本にとって最悪の年だが、その事件の直後の5月アタマ、彼らは尾高忠明を指揮台に迎え、その沈着するムードを押し上げるべく、マーラーの交響曲第5番をブルックナーの作品のような密度で演奏したことは記憶に新しい。その年の暮れに演奏される『第九』は、また格別の意味をもたなくてはならないはずであろう。下野もプログラムのなかで、震災のほか、台風などの自然災害で亡くなり、きっと年末恒例の『第九』を楽しみにしていたであろう御霊のために、この演奏を捧げるとコメントしている。

言うは易し!

そういう想いを如何に伝えるかということには、私も人生のすべてを賭けて考えていかなくてはならないと思っているところだが、言うは易く、為すは難しいのも現実である。私には未熟すぎてまだ十分にできないことが、このオーケストラにはできたということだ。マーラーのときもそうだったが、より周到な準備をして迎えた今回は、本当に素晴らしいコンサートになっていた。尻尾までアンコの詰まった鯛焼き・・・否、指先まで神経の張りつめたダンスのような響きが、5月以来、また、このオーケストラに帰ってきている。節々にまで意味の込められた第1楽章の演奏は、その誠実な演奏のゆえだけに涙を誘うほどであった。

しかし、最初のつよい感情の動きを通り過ぎると、そこに見えてきたのは、豊富なアイディアに包まれた豊かなカンタービレだ。第1楽章の提示部を締める部分では、リズムの詰まる部分に置かれたガッシリしたはねかえしの音型などをつよく強調。これに象徴されるように、すべての印象的な音型はくっきりと造型されるものの、それらは個別に取り出され、衒学的に扱われることはほとんどなく、あくまで厚い響きの雲のなかで一瞬、煌びやかに浮き上がるだけだ。それよりも彼が重視したのは構造全体がつくる図太いカンタービレで、これが、これまでの下野の発想と大きく異なっている部分に当たる。彼らしい細部への鋭いイメージは残しつつも、そうしたものを構造のなかに柔らかく戻すことで、もういちど、大きな構造を俯瞰で眺める姿勢を今回は重視した。

その結果、作品は幾分、ハイドン的なユーモアを示すようになり、また、バロック的な響きの味わいも少しだけ染みだしてきたが、もちろん、そうしたものはベートーベン的に歪み、膨張している。その象徴となるのは、この楽章の最後にみられる旋回的な構造である。しかし、その気持ち良い回転運動(これはコーダより前から、少しずつ加速度をつけて出現し発展する)を断絶して、上下動の激しい振動がこれに代わる。思えば、この2つの運動が、ベートーベンの作品を支配していたのは明らかであった。

【友よ、このような響きではない・・・の真意】
しばしば、この作品の構造は第1-3楽章で出た表現を自ら否定し、第4楽章の全人類的な讃歌に変容させる部分に醍醐味があるのだと解説される。ところが、こうした演奏を聴くと、このようなタイプの説明には明らかな欠陥があることに気づくのだ。ベートーベン氏は決して、前半3楽章を否定しているわけではない。むしろ、その堅固な造型のうえにしか、次の構造が来ないことを百も承知のはずなのである。言葉の遊びに、惑わされてはならない。なるほど、「友よ、このような響きではない」と巨匠は書き足したかもしれぬ。だが、「このような響きではない」ものも、「このような響き」のなかから生まれることは、巨匠にとっては常識中の常識だったはずだ。この点を、私の尊敬する渡辺和氏の解説(いまさっき読んだばかり)は、すこし軽く捉えすぎているのではなかろうか。

(自註:このくだりは加筆の可能性あり。)

【雪がつなぐ2つのイメージ】
第2楽章には、スケルッツォのなかに雪降る夜の感じが忍び込んだ。この前、クァルテット・エクセルシオの「ラズモフスキー第2番」を聴いたとき、ときのスポンサーの祖国、ロシアの雰囲気をうまく織り込んでいることに注目したが、この『第九』にもその雰囲気が溶け込んでいるのに気づいて、私は呆然としたものである。確かに、ベートーベンのパトロンにはロシア系の貴族が多かった。この作品ではハイドンの流儀を見習って、スケルッツォに「雪国」の風景があくまで楽しげに描かれている。しかしながら、下野&読響のメンバーのイメージのなかでは、この「雪国」とは、ロシアという以上に、東北のことを指していたように思えてならない。そこに気づいたゆえに、呆然とさせられたのである。

スケルッツォの響きは、ハイドン的な明るさが徐々に影を帯び、すこし激しくなっていき、繰り返されるという筋を辿る。私もはじめは、普通のスケルッツォのイメージで聴いていたが、木管を弦楽器が覆うようなバランスのつくり方に違和感があり、響きが少しずつ暗みを帯びていくのを聴いて、「どうもおかしい」と思い始めたのが最初であった。繰り返しにかけて響きがすこし深くなったと感じたとき、私にパッとある発想が浮かんだのである。それを証明するように、そこから先、響きの緊張感は高まり、トリオの頂点で津波が人をさらっていくようなイメージを現出させると、私はハッとした。だが、そのモティーフは下手をすれば気づかないほど、慎重に扱われているうえに、その回復も早いことから、むしろ、そのあとに来る響きの明るさのほうが際立つぐらいであろう。

しかし、この部分にはよくよく注意を払って聴くように勧めたい。下野と楽団の伝えたいメッセージは、実は、こういうところにも潜んでいたのである。

【イタリア・バロックの様式で奏でる第3楽章】
第3楽章の出来には、若干の不満がある。演奏は、あらゆる意味でイタリア・バロックの形式を意識したものであることは論を待たない。声の導入こそ、次の楽章に譲られているものの、この楽章では既にオペラの時代の幕開けが近づいていることを、私たちに告げているかのように、豊富なカンタービレが聴かれる。ここにいう「カンタービレ」とは、イタリア・バロックにおけるそれを指している。それだけではなく、全体的な構造やバランス、それを示すのに適切なアーティキュレーションも、すべてイタリアの様式が相応しいようにできている。

その気になれば、第2楽章のロシア様式を継続することも可能だろうし、もっと素朴なドイツ音楽の形式で表現を試みることもできるはずだ。しかし、下野は弦の動きを非常に活動的に構築し、木管の響きはすこし落として、金管の神々しい響きを宗教と結びつけた。例えば、印象的な輝かしい金管の咆哮に始まる変奏の前で、ホルンの短いソロが入るところでは、下野はそれ以前に書かれた金管の響きを思いきって押し上げ、金管とそれを模すフルートの響きを主体にして、不思議なアンサンブルを組み込んでいる。このような形式は、もちろん金管楽器のもつ聖性をより強く引き出すことになる。この楽章の最後では、そのか細い響きに導かれて、密やかな上昇音型を辿りつつ、私たちは天に目を向けることができるように導かれる。下手な知識は不要だ。響きに対して真摯に耳を傾けておれば、自然とそうなるであろう。

とはいえ、その雰囲気が・・・つまりはイタリア様式のつくる聖なる雰囲気が、次の楽章に上手に適用されるのは、この時点では、まだ予想のつかないことだった。

この間、なんとしても継続させたい響きの緊張感が、少しずつ弛む瞬間があったことが、不満の種である。しかし、この問題は回数を重ねることで、多分、解消されていくにちがいない。

(②につづく)

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