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2011年12月 9日 (金)

ミハイル・ヴォスクレセンスキー ベートーベン ピアノ・ソナタ 30-32番 12/7

【最近の流行であるベートーベンの後期ソナタ】
ベートーベンの後期の作品も、随分と演奏機会が増えた。28番以降最後のナンバーまで、ベートーベンの最後期のピアノ・ソナタは名品揃いだが、以前は29番が圧倒的な人気を誇り、最後のソナタということで32番がしばしば演奏されるぐらいであった。28番、30番、31番は、なかなか演奏機会に恵まれず、30-32番を通奏する場合や、ソナタ全曲ツィクルスなど、特別な機会だけに演奏された。ところが、近年、30番、31番もよく演奏される曲目になり、かえって、「ハンマークラヴィア」ソナタのほうが少ないくらいになってきたのは、どういう質の変化なのであろうか。

自分がわざわざそういうコンサートを選ぶからというのもあるにはあるが、今年だけでも(しかも、私が耳にしたものに限ったとしても)、ネルセシアンが32番、プレスラーが31番、レーゼルは31番と32番、チョッコリーニは31番、そして、今回、ヴォスクレセンスキーが30-32番と、5人のピアニストが取り上げているのだ。さすがにこれだけ聴いてくると、私のような深きを穿つ(笑)聴き方でさえ、つまり、楽曲を通じてその弾き手の意図と対話するというやり方でさえも、ネタ切れを起こしそうな感じがしないでもない。ところが、実際にはそうでもないのがベートーベンの凄いところであり、また、この日、聴いてきたピアニスト、ミハイル・ヴォスクレセンスキーの凄さというものだ。

【ヴォスクレセンスキーのなかのジーキルとハイド】
ヴォスクレセンスキーには、ジーキルとハイドのような2つ(正確には3つ)の顔がある。穏やかなときには・・・つまり、ベースにおいてはネイガウスのような上品な演奏をする。そこから最初のギアが入ると、社会主義リアリズム的な几帳面なフォルムが表立って現れる。音色や拍の徹底したコントロールが、それを感じさせる。KGBへの協力を拒み、ソヴィエト国内に留め置かれたという経験をもつピアニストにとっては、まことに皮肉なことだ。そして、もうひとつ悪魔のような野性味をもったハイドの顔が存在する。この顔が出現したときは、もう、ピアノが壊れそうなぐらいの強打も辞さない。彼の演奏を語る場合、これらの顔がどのような場面で使われたのかを語るだけで、もう、かなりのイメージを掴むことができるだろう。

私は、これらのうちの3つ目の顔は正直、あまり歓迎ではない。それは例えば、31番のフィナーレ終盤の強烈な盛り上げで爆発する。並みのピアニストが真似すれば、ただ雑なパフォーマンスにしか聴こえない。それをヴォスクレセンスキーがやると、もう止むに止まれぬ表現のように思えてくる。それは認めるが、やはり、表現として、それが唯一、しかも最善の道であるとは思えないのだ。これにはもちろん、私の好みの問題もあるが、そうしたものを越えて、やや粗雑さが聴こえてくるのも事実であった。リスト(アンコール)では、その表現はぴったりと嵌っている。だが、ベートーベンではしっくりこない。

【左手の自由な歌いまわし】
ヴォスクレセンスキーのもつスキルのなかで、私がもっとも感嘆したのは、30番のフィナーレや、31番の複数の楽章で頻繁にみられるフーガの歌い方の美しさである。その見事さは特に左手の描き出す、低音部の自由な発想において顕著である。その歌い方は古典派の故郷と目されるバッハの領域をはるかに越えて、より自由な歌いまわしが謳歌されたバロック盛期を思わせる柔らかさをもっている。歌い方に自由が感じられるからといって、その響きの配置はきわめて厳格、かつ、緻密である。私たちは必要ならば、ヴォスクレセンスキーの弾いたピアノの響きから、実際に音符の置かれるスコアの座標軸をとって正確に並べることさえ可能だろう。ところが、その配置をみると、再び私たちはソドムとゴモラの世界に引き戻されてしまう。

これが、ベートーベンの仕込んだマジックであることは言うまでもない。

外形的にハッキリ浮かび上がっているのは、典型的な整然としたフーガの姿である。もしも、その表面的な外形だけに注目するならば、ベートーベンの後期ピアノ・ソナタは、ただの先祖がえりにすぎない。私は従来、そこにこそ、これらのソナタのもついかにも「古典的」な魅力を見出してもいたのだが、ヴォスクレセンスキーの解釈では、それはあくまでの表面的な態度にすぎないのである。彼はむしろ、その背後で踊るフィドル(フィドラー/トルバドゥール)の姿にこそ、ベートーベンの本質をみるのである。つまりは、リュートやキタローネを手にして、自由に歌い踊るあの庶民たちのヒーローのことだ。

30番や31番では、ヴォスクレセンスキーはそのような自由さに表現を傾け、型通りのフーガでは目いっぱいに歌うということを重視していた。それは響きはもちろん、顔の表情をみるだけでも明らかなことであろう。商業的な作り笑いではなく、そういうふうにして真に表現を楽しむことなしには、作品の良さなど、チットモ描き出すことはできないのだ、とでも言いたげなパフォーマンスである。

【まったく別物の32番】
しかし、32番に関しては、まったく別物の表現である。途中までは、いつものベートーベンであった。しかし、第2楽章は徐々に眠りについていくような表現で、それまでウリモノにしてきたような男根的な強さというものが、まるで感じられないのである。かといって「宗教的」という感じでもなく、「死」や「絶望」と結びつけることはあまりにも安易だ。あそこには私がまだ理解できないような、人生の秘密が語られていたように思えてならない。人工的なものがなにひとつない、まっさらな空。バッハとはまたちがうところに、ベートーベンがみつけだしたチッポケな宇宙であろうか。

【まとめ】
アンコールに弾いたシューマンとリストを聴いて、ヴォスクレセンスキーの奥深さは強調されて印象づけられた。ベートーベンの後期ソナタ3曲で、こういう大先生の実力を知るには良いプログラムと思っていたが、小品や抜粋を使って、もっと精緻なプログラムを織り込んでも面白かったなあと思う。シューマンとリストはもちろん、これらの演奏からは、より現代にちかい音楽や、ショパン、バロック、もちろん、ラフマニノフなどのロシア音楽など、様々な可能性を思い浮かべることができたからだ。

既に相当の高齢ではあるが、まだまだチッコリーニほどではない。次回の来日に期待したいものである。

【プログラム】 2011年12月7日

1、ベートーベン ピアノ・ソナタ第30番
2、ベートーベン ピアノ・ソナタ第31番
3、ベートーベン ピアノ・ソナタ第32番

 於:東京文化会館(小ホール)

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