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2011年12月18日 (日)

井上祐子 & 蓼沼恵美子 デイル 組曲 op.2 ほか 12/16

【英国から来たプログラム】
ヴィオリストの井上祐子は今井信子の高弟で、英国王立アカデミーの教授を務めている。この9月から、井上はアカデミーで、英国の作曲家によるヴィオラの知られざる曲目を紹介するコンサート・シリーズを企画し、実施してきているという。このような取り組みがあることは当然、彼女の母国(もちろん、日本)でも知られるべきであるし、にもかかわらず、どのメディアも全くと言ってよいほどに無関心であるのは嘆かわしいことだ。ただ、母国であるがゆえに、そのエッセンスをこうしたリサイタルの形で楽しむことができるのは、望外の喜びである。伴奏には、夫君、澤和樹とのデュオでも知られる蓼沼恵美子がついた。

【ボーエン再演】
最初のヨーク・ボーエンのプログラム(ラプソディ op.149)は、今年のヴィオラ・スペースでも披露したが、それぞれに面白さがある。ヴィオラ・スペースでは野平一郎がサポートにつき、薄味でしっかり素材の味わいを出す井上の語法を艶やかに投映したが、ドイツ音楽の得意な蓼沼が支えた今回のコンサートでは、より彫りのふかい表現も必要になってくる。すべてが、調和していたとは言い難い。しかし、両者のアンガージュマンが作品がもつ可能性を押し広げたことは間違いないであろう。前回に比べて、今度の演奏のほうがスケールの大きな演奏になっており、そのことによって構造的なデザインも際立っていた。

前半の組み立てに対する集中力が際立つ演奏であったのは前回と同様だが、ヴィオラの慎重な音選びに対して、ラプソディックな味わいはピアノの声部により顕著である。今回の演奏ではしかし、後半の技巧的な部分における歌い方の巧さというのが、ハッキリ強調された感じに思えた。これはパートナーの問題もあるが、一挙に作品のすべてを出しきるというよりは、その価値を試しながら、丁寧に完成していく井上というアーティストの本質を示す変化だと思う。少しずつ尾羽を伸ばし、成長していく井上の積み重ねに今後とも注目したい。

【音色こそがすべて】
この日のメインも、英国のプログラムからの逆輸入である。ベンジャミン・デイルは1885年、ロンドン生まれ。先のボーエンと同世代の作曲家で、友人同士でもあった2人はともに世紀の大ヴィオリスト、ライオネル・ターティスの傍近くにいた。しかし、完璧主義者のデイルは納得のいかない作品はすぐさま廃棄するという性格であり、人生の不運も重なって寡作となってしまった。悲劇とは第1次大戦の勃発に際して、ドイツにいたために敵国人として収容され、4年間も過ごさなければならなかったことを指す。

組曲 op.2 は、その作品名からも想像できるように3つの楽章からなるものの、1つずつの楽章が独立的に存在し得るような完結性をもっている。最初の1曲はスケールの大きな作品で、難技巧を含む多彩なイディオムを織り込んでいく。2曲目は深い音色をしぶとく煎じつめたような作品で、正しくヴィオラのヴィオラらしい声のロマンティシズムを抽出した名品の「ロマンス」。3曲目はもっとも規模は大きいが、凝縮した名技性が楽しめる急速楽章となっている。作品は時代柄からいえばボーエン同様に保守的で、どこからみても個性的な新味を見つけることは難しい。しかしながら、楽器のことをよく知り、その魂をいかに伝えるべきかに通じた書き手の作品であることは明らかだ。

ヴァイオリンやチェロの奏者にとって、それは表現の一部でしかないが、ヴィオラのソリストにとっては、音色こそが唯一、その表現を支える命にほかならない。周知のように、ヴィオラは、ヴァイオリンやチェロのような固定したフォルムをもたないものだ。例えば、キム・カシュカシアンはヴァイオリンにちかい小さい楽器をもって、ヴァイオリニストのような機動性を導入することで、ヴィオラの可能性を広げ続けている。一方、ヴィオラにはかなり大きいものも存在し、ライオネル・ターティスなどはそのような大きな楽器を好んだそうである。このような楽器は、小さいものほど機動性がなく、技巧的な作品ではフィンガーリングの指が届きにくいため、ミスも生まれやすくなる。そうした大きな楽器であっても、音域はチェロよりも狭く、抱えて弾くこともできないために、可能性はより小さいのである。

しかし、その制限のなかに響く穏和で、温かい音色は、ヴィオラのすべてであると言ってよい。優れたヴィオリストとは、技巧的に難しいものを難なくこなせる人、精緻で間違いなく楽器を奏でられる人のことではなく、深くて良い響きをどのような場面でも追及し、その歌い方にハッキリした個性をもつ人のことである。例えば、今井信子は手もそんなに大きいほうではないし、技巧的なレヴェルでいえばもっと上の人はたくさん存在する(例えば、カシュカシアンやガース・ノックスにはかなわない)。それなのに、彼女が世界的にみても稀なほどの尊敬を集め、オランダやスイスの音楽院で教授を務めたり、英国に自分の弟子を送り込んだりすることができるのも、このような秘密を世界中でもっともよく知る音楽家だからにほかならないのだ。

ターティスはそうした魅力を、作品のなかに織り込むことをボーエンやデイルに求めたにちがいない。全部の楽章で35分ばかりもある作品のなかで、デイルはこまめにその要求を満たそうと努力している。そして、そのなかでも傑作なのは中間の「ロマンス」である。この部分を聴けば、そのヴィオリストがどれほどのものなのか、はっきりするであろう。例えば、プリムローズはリンクのような感じだ。彼は音色云々というよりも、その言語的機能に注目したという感じがする。そういう意味では、バロック的な演奏であろう。

井上は非常に高邁な音色の作品として、この作品をイメージしたようだ。息の長いアーティキュレーションを採用し、どのフレーズでも響きが分厚く、ゆったりと発声できるようにデザインされている。かといって、甘ったるい響きが間延びするようなことにはならず、キビキビとしたカンタービレの精神はプリムローズと変わるものではない。遅い部分と速い部分での差は極力、抑え、しかも明確に区切られている。蓼沼は鋭く、深いパッセージをつくり、ここに座っていたはずの作曲者の面影を、きっちりと伝える働きだ。その上で、肩の張らないゆったりしたパフォーマンスで歌う井上のヴィオラが、大事に、あくまでも大事にいく。

両端楽章では特に、先に書いたような悲劇を思わせるだけの暗さはさほど感じなかった。それよりは、この楽器の魅力に対する素朴な感動と、その最良の弾き手、ターティスとの出会いを味わうかのようなサッパリした書法である。彼がどんな風に書こうとも、結局は、ターティスが良い作品にしてくれるという安心がもたらした作品のようにも思える。そういう意味では、いささか神経症的な後年の彼の姿を示唆する、いかなる気張りも感じられない作品に思えた。それはとりもなおさず、井上祐子という弾き手が、まったく気負わずに、いつの間にか作品の味わいを引き出しているという不思議な音楽の奏で手であることを仄めかす。

【個性的な解釈によるアルペッジョーネ・ソナタ】
中間に置かれたシューベルトの『アルペッジョーネ・ソナタ』は、ややミスの目立つ演奏であった。よっぽど、この作品をヴィオラで弾くというのは困難の多いことであり、しかも、井上はそれを少しでも弾きやすく演奏するという安易な道を選ばず、難しいアーティキュレーション、不安定で歪んだテンポのデザインというものを試み、つまり、既に博物館にさえオリジナルのものは見出せないこの珍しい楽器の奏者だった、昔のフィドラーがやったであろう(ただし、この作品を委嘱し、楽器の普及に熱心だったのはヴィンツェンツ・シュースターという紳士的な音楽家である)演奏を、さらに上品に織り上げてみせようとしたのであるから、多少の失敗に目くじらを立てることは間違いであった。つまり、彼女の演奏は2-3日であわせて、すぐに完成するような底の浅い演奏では決してないのである。

無論、意義ぶかい演奏だから、完成度は問わないというのではない。彼女の織り成した多彩で、アイディアに満ちたアーティキュレーションは、私たちを何度も驚かせたし、また、井上はその構想を相当の割合でしっかり形にしていた。考え得るかぎり、もっとも難しいヴィオラの歌い方を、彼女は高い完成度で実現したが、それにもかかわらず、作品の「完成」はまだ遠いところにあったのである。多くのヴィオリストは、もっと控えめで、質素な演奏を好むかもしれない。コンクールの年に聴いたトーマス・リーヴルの演奏などは、そういうものであった。しかし、井上はそうした美的センスを十分に理解しながらも、それをさらに楽曲の持ち味に即した形で高めるための方法を考えている。

ここで強調しておきたいのは、その個性的なコントロールは、いかにもそれらしい第1楽章だけに限らないということだ。特に、そのアーティキュレーションの広がりは、第1楽章をベースにしながらも、緩徐楽章から終楽章にかけてすこぶるロジカルにつながっており、井上の演奏は、こうした構造上の急所をハッキリとつくことも忘れていなかった。より正確にいえば、そこを焦点にとって、最初の楽章から聴きとおすべきなのである。そのため、終楽章のヴァリュエーションはきわめて理知的で、コントロールされた拡散として受け止められ、最終変奏ともいえるようなクライマックスでの音楽の昂揚は凄まじく、その先に来るピッチカートによる穏やかな弾きおわりは宗教的なまでに静穏であった。正に、しんと空間を包み込んだ短い静寂が、そのことをハッキリ教えてくれる。

聴衆は、彼女の表現に気圧されたのであった。

【まとめ】

実に示唆的で、得るものの多いコンサートであったと記録する。ヴィオラのリサイタル自体がきわめて貴重だが、日本には、井上のほか、今井信子、川崎雅夫、店村眞積、川本嘉子など、質の良いヴィオラ弾きが多いわけで、もっとヴィオラのコンサートがあるべきだと思う。そして、彼らの響きは、聴く者のこころをリラックスさせ、音楽のなかで優しく労わってくれるのだ。げにも、ヴィオラというのは不思議な楽器である。

【プログラム】 2011年12月16日

 1、ヨーク・ボーエン ラプソディ op.149
 2、シューベルト アルペッジョーネ・ソナタ
 3、ベンジャミン・デイル 組曲 op.2

 va:井上 祐子  pf:蓼沼 恵美子

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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