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2012年1月20日 (金)

ハーディング マーラー 交響曲第9番 新日本フィル トリフォニー定期 1/20

【労多くして功少なし】

私は、ハーディングの演奏に何度も感動を味わってきた。アンチでは、決してない。アーノンクールも言うように、音楽が言葉であることを思い知ったマーラー・チェンバー・オーケストラとのモーツァルトの39-41番の演奏では、正に涙とともに、手に汗握る演奏で、終演後にはスタンディングに至るほど感心した。相模大野の地で、「サンキュー、ダニー!」と叫んだ記憶も新しい。東京フィルを振ったマーラーの交響曲第2番「復活」、新日本フィル(NJP)を指揮したドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」(四川大地震のためのチャリティ)のいずれの公演も素晴らしく、いま思い出してもエキサイティングな気分になれる。録音でも、ドイツ・カンマーフィル・ブレーメンを指揮したブラームスの4番は特にお気に入りなのだ。

演奏家としてだけではなく、そのこころに感じ入っていた。ダニエルは日本を重視する数少ない指揮者のひとりであり、東日本大震災のときにも、尻尾を巻いて国を去るようなことはなかったし、その後も、積極的に来日をつづけている。

そんな愛しのダニーに、私は別れを告げなくてはならなくなったのだ。まるで、いよいよワーグナーに罵言をぶつけると決めたニーチェのような気もちだ。NJPと共演した、マーラーの交響曲第9番の演奏は、彼の評価をハッキリと貶めるような駄演である。35日間も継続した「乾燥」注意報が、朝方の厳雪でようやく解除されたこの日、ハーディングはもう一日、乾燥を付け加えた。ドライで、煮えきらない演奏だったうえに、オケが下手に聴こえる。確かに細かくボウイングやアーティキュレーションを指示、金管の響きの修飾なども多彩で、手数は多かったようだ。それなのに、やることなすこと、なにひとつ効果がない。労多くして、功少なし。こういう演奏を聴くと、本当にいたたまれなくなるのである。

【一体、何をしたの?】

良い部分など、ほとんどひとつもない。第3楽章は、オケ側の熱演はわからないでもなかった。しかし、それも全体のイメージを押し上げるほどではない。豊嶋コンマスの奮闘、第4楽章におけるコール・アングレ(森明子)の胸を打つ響き、随所に凛とした響きを聴かせる白尾彰のフルート。妙に頑張るパーカッションの活き活きとした響き。こうした細部は、もっさりした全体のなかで十分に輝かなかった。むしろ、それを除く全体の動きの鈍さは、オケが指揮者の意図を掴みかねている印象を抱かせるほどだ。もしくは、奏者と指揮者の「こころあわせ」が、中途半端になっていたのではないか。そうでなければ、名手の古部賢一(ob)や、重松希巳恵(cl)が、あんな響きを出すはずがない。

厚みに欠け、カサカサした響きに終始した弦楽器。第2楽章のアタマで、第2ヴァイオリンとヴィオラがハッスルしていたところだけが印象的だ。金管も、外しが多い。ミスするのはいいが、その内容が悪すぎる。NJPの金管群は日本一といってもよく、本当なら、もっと輝かしい響きを出せるはずなのに! 米国のドラマ『ケネディ家の人々』で、ロボトミー手術を受けて廃人になってしまったローズマリーをみて、母親のローズ・ケネディは夫のジョセフに詰め寄っていう。「一体、何をしたの?」。ジョセフは言葉もなく、普段の威厳を失って戸惑うばかりであった。私はダニーに対して、ローズ夫人と同じように問いかけたいと思う。

【マーラーにおける歌】

アダージョの冒頭に響く弦の響きを聴いて、私は失笑を堪えるのに必死だった。これでは、まるで演歌だ。

なるほど、マーラーの交響曲は、大体が歌曲の要素でできている。試しに、いくつかの旋律を自分で歌ってみるがいい。そうすると、この交響曲がいかに人間の歌と親密であるかがわかるはずだから。だが、その歌と、ハーディングのつくる「演歌」では、まったく意味がちがうのである。「歌」とは、人間の身体のなかから絞り出すように溢れ出てくるものである。それだけが真の歌であり、マーラーの頼りにしたものにちがいない。ハーディングはその歌をいったん、器楽の世界に回収して、再構成してみたつもりにちがいない。だが、その必要があったのだろうか。その結果、あんな気の抜けた炭酸水のような、声のかすれた歌になってしまったのではないか。このような惨めな失敗があるだろうか。あまりにも、あまりにも、惨めである。

なるほど、最後の「死に絶えるように」は、正にその作曲家の指示どおりに素晴らしかったかもしれぬ。だからといって、それが何だというのか。既に音楽すべてが死に絶えているときに、素晴らしい「死に絶えるように」が出たからといって、その音楽のどこにリアリティがあるだろう?

【ewig 音型にみるハーディングの甘さ】

第1楽章の終盤、あの『大地の歌』で繰り返される ’ewig’ の音型が出るところ。あそこを彩る木管の響きは、数少ない聴きものだった。だが、同時に、そのあたりの音楽にハーディングの甘さが潜んでいるようにも思われる。マーラーはこの音楽を、50歳のときに書いた。人間五十年とすれば、もはや酸いも甘いも知り尽くしたあとのことだ。実際、マーラーは天から51年の生涯しか与えられなかったのである。一方、マーラーは不器用そうな人柄にも思えるが、少なくとも指揮者としては花形として持ち上げられたわけだし、その点で、なかなか喰えない面もあるわけだ。まず、そのアクの強さが、ハーディングの音楽にはない。

それはともかく、多分、マーラーはもう死ぬつもりで、9つ目の交響曲(=大地の歌)の最後に ’ewig’ の音型を繰り返した。だが、予想外に、彼はいますこしは生き残ることができる運命のなかにいた。交響曲第9番は、その「奇跡」から始まっている。第9番では、’ewig’ は途中、諧謔的なテーマとして扱われ、昂揚と崩壊、そして回帰に結びついていくが、最後の部分で優しく元の輝きを取り戻し、ごく単純な解決として見出される。それゆえ、この響きはこの交響曲の始まりであり、おわりにもなり得るのだ。よく熟した演奏(リンクはバルビローリの指揮)では、ここに積み上げられたマーラーという人間の歴史が、響きのなかに重く圧し掛かってくる。

私は、そのことを故ガリー・ベルティーニ「先生」の演奏で教わった。全員が、そのように演奏すべきというつもりはない。しかし、ハーディングの解釈はあまりにも若く、ベルティーニが苦労して体得したような重み(響き)は一切ないし、ドライな構造とアイロニカルなアクションのみしか感じられなかった。しかも、若者に特有の爽快さや、鋭さがあったわけでもない。思えば、ハーディングはこれまでも、「スポーツ的で味わいがない」とか言われて、批判されてきたこともあったと思う。だが、スポーツに勝るようなロマンティシズムなど、少なくともオトコにとっては、そうそう他に見つかるものではないのだから、そのような批判は批判になっていない。例えば、サッカーの「なでしこジャパン」は、なぜ、あれほどまでに、人々に対してつよい共感を与えることができたのだろうか。それは彼女たちの動きのなかに、我々がいま理想としたいと思うような、こころ温まるメンタリティがあったからではなかろうか。

同じように、ダニエルの「スポーツ」にはかつて、明らかに、人々のこころ動かす何かがあったはずなのだ。それゆえ、人生の熟練が必要とされるブラームスの交響曲でさえ、あんなに素晴らしい演奏をできた。それが今回のマーラーからは、感じられなかったのである。チケット完売という2日目には、これが改善するのであろうか。それならばいいのだが、私には、その可能性は薄いように思われてならない。なぜなら、彼の演奏は歌を解体し、なにか新しく「まとまった形」に組み立てなおすという性質のものだからである。それは、正攻法ではない。マーラーがいかに新しい作曲家であったとしても、歌はやっぱり歌でなくてはならぬ。歌ならば、すべてのフレーズに意味を見出し、そこからメッセージが滲み出てくるものでなくてはならないだろう。

残念ながら、いまのハーディングはそのことを忘れている。もしも忘れていないなら、第4楽章の冒頭で、あんな軽はずみな響きをつくるわけがないから。

なお、今回もハーディングは、一時は流行、最近では再び珍しくなった対向両翼配置を採用している。第1ヴァイオリン、チェロ/コントラバス、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並んだ。金管、太鼓を含め、響きのつよいものはみんな下手にいっていた。これも、失敗の原因のひとつではないかと考えている。

よく言われるように、「昔のほうがよかった」音楽家というのはたくさんいるものだ。ダニエル・ハーディングもまた、その仲間のなかに入ってしまったのか。そう懸念しながら、もう、少なくとも数年の間は、彼の演奏に接したくはないという気持ちで会場をあとにした。なぜ、こんな厳しい記事を書くのか。それは、こういうことだ。ローズマリー・ケネディの受けたロボトミー手術なら、いちど犯した過ちに、もうやりなおす術はないのだが、ハーディングはまだ帰って来られる余地があるはずだから。

カムバック! ダニー! 愛すべきダニー!

【プログラム】 2012年1月20日

 マーラー 交響曲第9番

 コンサートマスター:豊嶋 泰嗣

 於:すみだトリフォニーホール

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コメント

はじめまして。私もコンサート聞いていました。マーラーの9番は大好物なので期待して聞いていたのですが、正にこちらのブログに書かれているような感想を持ちました。演奏後の盛大なブラボーに違和感を持っていたので、ブログを拝見して我が意を得たりと思いました。特に「オケが指揮者の意図を掴みかねている印象を抱かせるほどだ」という部分は、1楽章を聞き終えた時点で私も強く感じておりました。

素晴らしい曲と指揮者とオーケストラの組み合わせだと期待していただけにちょっと残念です。

アマチュアチェロ弾きさん、ありがとうございます。

あのような音楽に共感されるみなさんのことを批判はいたしませんが、なぜ、こんなにも絶賛ばかりなのかということには疑問を抱いております。そのなかで、チェロ弾きさんとお会いできたことは嬉しく思います。

私はマーラーの音楽が好きではないし、ブルックナーとともに、謎の多い人物であると考えています。そのことは後日、別に書くかもしれませんが。しかし、ハーディングの描くマーラー像が正しいものなら、彼は軽薄以外のなにものでもないように思えます。しかも、それを描くために苦労したオーケストラの働きを、正当に引き出すような指揮ではなかった。

チェロ弾きさんのマーラー観も伺えれば、参考になります。

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