2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

« あけまして、おめでございます ~サントリーホール/ジルベスター・コンサート with ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団 のこと | トップページ | エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第9番 ほか N響 オーチャード定期 1/8 »

2012年1月 2日 (月)

ベートーヴェン弦楽四重奏曲〔8曲〕演奏会 クァルテット・エクセルシオ&古典四重奏団&ルートヴィヒ四重奏団 12/31

【ベートーベンの弦楽四重奏曲=8曲演奏会】

東京文化会館の大ホールでおこなわれるベートーベンの交響曲全曲演奏会に対抗するように、お隣の小ホールで始まったベートーベンの室内楽、ラズモフスキー・セット+後期の6曲を演奏する企画(ミリオンコンサート協会主催)も恒例化している。近年はメンバーも固定し、クァルテット・エクセルシオ(エク)、古典四重奏団(クラシコ)と、この企画のために結成されたルートヴィヒ弦楽四重奏団(ルートヴィヒ)が、ローテーションで3曲ずつを演奏している。今年は、エク、クラシコ、ルートヴィヒの順になり、後述のように、クラシコは『大フーガ』を13番の第6楽章として演奏したため、「9曲」(究極)→「8曲」演奏会となっている。

【客観性を高めたエク】

トップ・バッターは、ご贔屓のクァルテット・エクセルシオである。ラズモフスキー第2番は定期で取り上げたばかりなので、気になるのは1番と3番の出来になる。しかし、エクの演奏もとうとう、ここまで来たかという見事な演奏になった。エクのここのところの充実ぶりは目を惹くものがあり、彼らの活動のひとつひとつが演奏のなかに溶け込んできているように思う。その活動とは、世界でも稀にみる弦楽四重奏団のNPO化、地域での教育活動などのアウトリーチというような社会的観点から、ハイドンやベートーベンの楽曲をまとめて取り上げてきたこと。現代音楽等へも相変わらず、活動のウェイトをかけてきたこと。そして、サントリーホールでのチェンバー・ミュージック・アカデミーの指導体験などである。

特に、いちばん最後の活動を通しては、エクの4人が自分自身をみるときの客観性というのが非常に高くなっているように思われるのだ。その結果、彼らがもっていた音楽性のうち、若さの輝きの裏にあった一種の粗さや、詰めの甘さのようなものが、徐々に少なくなっていく傾向にある。特に、近年の活動で特に力を入れてきたベートーベンにおいては、もはや私が、ここでクドクドと批評を申し述べる必要もなくなってきたほどだ。きっと彼らは、私が指摘できるくらいのレヴェルでの達成は十分に自覚しているであろうし、反対に、私が述べる得るような批判点はもっとよく認識しているであろう。

【真面目な音楽家がキャッチーなものを生かしきることの困難】

例えば、ラズモフスキー第1番は3曲のなかで、彼らにとってもっとも困難な1曲である。この曲は、非常にキャッチーで、わかりやすい作品だ。それだけに、そのキャッチーな部分を分厚く、魅力的に歌う必要がある。オーケストラでもそうだが、単純な旋律を単純に歌うということほど、厳しく実力を試されることはないのだ。例えば、先刻みていたウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート(低調な内容!)で演奏された、ポルカ・フランセーズ『鍛冶屋』などは、その例として相応しい。2つ例を挙げる(リンク:例Ⅰ例Ⅱ)が、これとヤンソンスの演奏がいかにちがうかをご賞味いただきたいと思う。

例Ⅰのノイホルトの録音(以前、ここの定期演奏会にも選んだもの)では、豪華なサウンドを終始保ち、カンタービレが肉厚で作品のもつイロニーに真正面から取り組んでいる。金槌の響きのファニーさに頼りきらず、一種の厳しさがある。一方、例Ⅱのスイトナーの録音では、金槌のアイロニーが本当に可笑しく歌われている。表面的なサウンドのユーモアに比して、アーティキュレーションの緊張感が高く構築され、その落差がとびきりに面白く感じられるのであろう。ヤンソンスの場合、こうした味わいはどこにも感じられず、しかも、少年合唱をつけ、自分が金槌を叩けばならないことでドンドン不自由な演奏にしてしまったのである。真面目な音楽家ほど、こういう問題に結構、真剣に悩むものだ。つまり、彼らはそうしたキャッチーな要素を、なにかより洗練された工夫でより上手に響かせたいと願うものだからである。

ヤンソンスはTV的な要素もうまく活用し、ウィーンの音楽界がもっているリソースを全部、無駄なく利用することで、この国の「音楽力」の凄まじさというようなものを感じさせたかったにちがいない。それが彼の用意した、ニューイヤー・コンサートに対するオマージュだ。だが、仮にそうだとしても、それは構想倒れになっている。

エクも、マリスと同じく真面目なアーティストたちである。ラズモフスキー第1番のキャッチーな味わいを、ダイレクトに聴衆に届けるというのでは、あまりにも芸がないと思ってしまう人たちなのだ。そのためというわけでもなかろうが、彼らが注目したのは特に第2ヴァイオリンの活発な動きについてであった。この演奏では明らかに、第2ヴァイオリンの山田百子にフォーカスが合わされている。第2楽章や第3楽章の弾きだしなどで、彼女のもつ鋭利で、透明感のある響きをリードに、全体の響きが構築されていく。第3楽章からフィナーレへのブリッジもそうだ。この演奏ではいつも、第2ヴァイオリンがすべての扉の鍵を開くのだ。

だが、私はこの作品においては、もっと素直で純粋な解釈だけが、響きを引き立たせるように思う。今回の演奏のなかでも、そういうやり方でうまくできている部分もあった。トゥッティを解放し、旋律の中心を輝かしく4人で持ち上げたクライマックスの部分の大迫力などがそれである。こういうベタな要素を、この曲では避けるべきではない。そのためには、いますこしの馬力も必要になるが、そこに頼らない見事な演奏も存在する。例えば、リンクのバルトーク四重奏団の録音などはそのひとつである。だが、彼らもまた、このベタな要素をいかに生かすべきかという発想から始まっているにちがいない。

ただ、エクの今回の演奏も多彩なニュアンスが織り込まれ、それなりに見事なものであったのは一言しておかなければならないだろう。ニュアンス・・・今回の演奏会はこの言葉に尽きるのかもしれない。ルートヴィヒが駄目なのは、1本1本の楽器のもつ圧倒的に華やかな響きにも関わらず、それを著しく欠くからであるし、のちに述べるクラシコの名演は、ニュアンスの豊かさこそが全てとなるのだから。

【楽器の響きに注目した第3番】

ラズモフスキー第2番については、第1番と比べると、圧倒的にニュアンスがゆたかなのがわかる。1ヶ月前の演奏とそれほど演奏が変わるわけはなく、その大筋は前回の記事を参照ねがいたい。だが、終盤の3楽章の演奏はさらにドッシリ堂々として、アーティキュレーションの筋書きもより整然となっている。4本の楽器のシンメトリカルな構造は、より分厚く強調されるに至った。

前2曲の前提を踏まえて、もっとも示唆的な演奏になったのはラズモフスキー第3番の演奏だ。エクは2008年のこの企画でも同曲を演奏したが、具体的なメッセージが立体的に構築され、明らかに前回よりも飛躍的な成長がみられるのではなかろうか。今回は音色というものにフォーカスした表現で、私は次のような物語を想像した。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
あるとき、とあるサロンの一室で、ベートーベンは
3人の楽士が言い争いをしているのを聞いた
彼らは自らの楽器をそれぞれに誇り、
自分は誰よりもその響きを引きだしている
と主張しあっていた

ベートーベンはそこに割って入った
あなたたち全員が優れている、と私は思う!
ひとつ、私が作品をしたためてみよう
その作品を弾いてみるといい
私がチェロを弾いてあげるから

後日、3人は楽譜を手にするとサロンに集まり、
彼の言うとおりにしてみた
演奏が終わるや、、口々に申し述べた
やっぱり、私がいちばんだよ!
ベートーベンは言った
然り、そう思うように私が書いたのだから!
 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

3つの楽器はいまのコントのように、1人1人の楽士のことを表しているのかもしれない。だが、より現実的には、これら3つの楽器はただ1人、作曲家のスポンサーであったラズモフスキー伯爵を称賛するために用意されたとみるほうが自然である。第2番でハッキリと感じられた北国のモティーフと、第1番でみられた平易で、親しみやすい響き(旋律)の構築。これらを巧みに組み合わせ、ついにベートーベンはラズモフスキーへの究極の贈り物を思いついた。それは終楽章の対位法的な部分であることは、多言を要さないであろう。勇ましいギャロップを構築する4つの楽器の分厚いトゥッティ(第1番でみられたもの)と、構造の柱となるシンメトリカルな構造(第2番でみられたもの)は、ここで見事にハイブリッドした。

ところで、いったんクライマックスを形成したあと、再び同じ構造が表れるが、これらの2つの構造はそれぞれ向けられた相手が異なる、第一のものは伯爵に対してであるが、第2のものはより緻密で上品に響きが組み立てられ、明らかに天に向けられているようだ。ここで弓の動きに注目すると、アップ/ダウンには繊細なちがいがみられず、その点で現代的な演奏であることが指摘できる。その合理性はプレストの揺るぎない流れのなかで、当然、そうあるべきものであるかもしれない。だが、クラシコのようなガット弦を張った場合に、同じようにできるのかは疑問である。全体の響きは古典的なメッセージ性から遠くなり、機能的で、優美な響きのみに吸収されるという欠点があり、より味わいのあるボウイングやアーティキュレーションが模索できる可能性は残った。

とはいえ、3曲を通じて、これほどのパフォーマンスを披露してくれたのであれば、私は十分に称賛に値することだと思うのだ。積み残しの課題は、彼らにとって今後の糧となるべき部分である。特に、よく似た2つの構造を明確に、ちがいのあるものとして弾き分け、しかも、それを音色やアーティキュレーションの微妙な調整によって示すというアイディアは卓抜している。構想だけに止まらず、実際にそれとわかる形でオーディエンスに主張を示し得ている点も評価せねばならない。

【クラシコの名演】

ところが、今回、クラシコは第13番の演奏において、これらの演奏を束にしても敵わないほどの良い演奏をした。これに比べると、第12番の演奏については言及を控えたい。ガット弦のクァルテットにもかかわらず、その味わいを十分に生かしきっておらず、アーティキュレーションやボウイングをめぐるアイディアにも曖昧さが散見される。正直に言って、眠たい演奏であった。やはりエクのファンは、クラシコとは分かり合えないのかと懸念した。ところが、次の第13番においては目覚めているよりほかなかった。これがあるから、クラシコというアンサンブルは人気があるのだろう。

先程も述べたように、古典四重奏団の特徴のひとつはガット弦を張っていることだ。その効果はスティール弦よりも柔らかく、温かみのある響きにあり、欠点は、スティールと比べると音量を得にくく、ダイナミズムや響きの保持に制限がある点、さらに、弦が脆く、ちょっとしたことで切れやすい点にあるとされている。後者の弱点は、チェロが全体のバスで響きを支える部分で、若干、響きが足りないような印象を与える問題点につながっている。この作品ではしばしば、チェロが低音を支えるために奮闘させられる構造になっており、田崎が苦労しているのがわかるが、敢えて弱点を挙げれば、このような部分に対する明確な解決が見出せていないことがある。

しかし、それ以上に、ガット弦ならではの表現というのが見事に決まっていた演奏であった。例えば、第2楽章のプレスト。ガット弦の負の特性を消すために、自然、響きは速めに構築される。そのことで、この楽章がもつコンパクトなカンタービレが生かしきれないようでは話にならない。ところが、クラシコはもう一方のポジティヴな特色を生かして、非常に柔らかく、人の声のような音色による対話で独特のカンタービレを構築した。さらにアンダンテ・コンモートの第3楽章がつづくが、この楽章まではさしあたってヴァリュエーションのような深い関係性を示している。

このことは、ベートーベンの構想どおりに「大フーガ」を第6楽章に置き、あとから書きなおされた部分を思いきって排する演奏姿勢と無関係ではないようだ。つまり、クラシコはこの作品において、多楽章に及んだ形式の拡大ではなく、全体の構造が凝縮した結果としての多楽章化のメリットを明確にイメージしているからである。

ただし、第3楽章ではトリオの性格がこころもち堅固に捉えられ、それを通して、単なるヴァリュエーションから脱して、新しい流れに移っていく雰囲気がハッキリしている。その「序曲」として、次のレントラー楽章が置かれている。チェロはぐっと後方に引き、他の3本の楽器の対話を即興的に支えるばかりだ。例えば、ダンスで跳ね上がるときに、無意識にバランスをとろうとする身体の機能がこうした楽器によって表現されているのだが、不満を言うとすれば、このあたりにより有機的な重みを感じたいところである。

チェロの機能が切り替わることで、第5楽章の雰囲気はハッキリと入れ替わった。クラシコはこの楽章の甘みを、敢えてサッパリと表現することで、つまり、「モルト・エスプレッシーヴォ」の指示を考え得る限り上品にとることで、次の「大フーガ」との対比をより自然なものにしている。その響きは第2楽章と同様、ガット弦特有の温かいサウンドによって構築され、特に最弱奏部においてはその響きの柔らかさがとりわけ印象的に、聴き手の胸に届く。そう、耳ではなく、胸に届く・・・。このような表現は、スティール弦ではどうしても難しく、より明晰で、きっちりとした表現になってしまうところだ。

その曖昧なものが、より神秘的な雰囲気を感じさせる。この楽章の最後で、私たちは文字どおり「天国」の響きを知った。

それに対して、「大フーガ」が直接すると、私たちは異様な感じを受ける。いま知ったばかりの天国の響きがたちどころに失われ、地獄の響きがしてくるからである。一瞬の静けさのあとに、再び攻撃的なフーガが構築されると、聴き手はまたぞろ地獄の響きに引き戻される。そして、段々に、そのイロニーに気づいていくであろう。クラシコの演奏を聴いて、私はハッキリとベートーベンの仕込んだイロニーについて思いを馳せることになった。そこでは「大フーガ」とは言いながら、単に対位法的な響きの典型ばかりがあるわけではなく、ずっとスケールの大きな、つまりは、多種多様の音楽が鳴り響いているように感じられる。

正に、「会議は踊っている」という時代背景の下、ウィンナー・ワルツが誕生しようかという時代の帝都にベートーベンは立っていた。クラシコはその技術的な至芸に「大フーガ」を閉じ込めることなく、たっぷりと、その内面から表現するという姿勢に徹していた。フーガの部分を含め、様々に現れる舞曲や音楽の形式がフーガ部分の激しい響きのユーモアによって、アイロニカルな様相を示すことをクラシコは明らかに意識していた。そこでは解決的に語られる躍動的な旋律さえもが、ある種のデモーニッシュな意図に支えられているのである。実際、響きは前後の強烈な否定的なメッセージによって歪められる。ただし、重要なことはクラシコのメンバーが、こうしたイロニーを熟知しているわりには、実際には、力まず、とても上品に響きをつくっていたことだ。

この毒気と、表現のクールさのバランスが、この作品の表現を決める鍵であろう。しかし、実際には、そこまで至り得ない演奏のほうが大多数である。クラシコはいきなり、その最低限のレヴェルを達成し、さらに力強く天に昇った。地獄のような音楽は、最終的に再び天上に帰っていく。結局、ベートーベンは「大フーガでも、カヴァティーナと同じ結論に達するわけである。

このような演奏を聴いて、私が幸福そのものになったのは言うまでもないことだ。

【会場を去るまで】

このような真打の演奏のあとに、「二つ目」のようなアンサンブルが出てきても、何を感じることができるだろうか。トリを飾ったルートヴィヒについては、よく頑張ってはいるものと認めよう。しかし、真打のあとに出すにはあまりにもかわいそうな芸しか持っていない。彼らは1本1本の楽器をみれば、確かに高度なテクニックをもっている。それぞれに他の室内楽分野、ソロでも活動しており、その気になれば、なんでもできる器用な人たちばかりである。しかし、既に東響を退団した山本祐ノ介を含め、全員のベースがオーケストラ的な美学に置かれていることは明らかだ。それも、悪くはないだろう。だが、せめて見本にするべきゲヴァントハウス四重奏団の境地には遠い。

オーケストラであれば、このあたりで十分だろうというような美学も、室内楽においては決定的な誤りとなる。アーティキュレーション、音色やリズム、構造を表出するセンスが、絶望的に甘い。私はそのことにいつか、彼らが気づいてくれることを期待して、席についている。しかし、今年も・・・。

今回、ルートヴィヒが弾いた3曲は、ラズモフスキー・セットや、「大フーガ」ほどは人口に膾炙していない。しかし、第14番などはラズモフスキー第1番ほどにもキャッチーであるし、第15番は長大な第3楽章に明確な聴かせどころがある。決して、割りを食うような曲目ではない。しかし、なぜ、あれほどたるんだ、退屈なパフォーマンスにならざるを得ないのか。これだから、室内楽というのは怖いのである。彼らの演奏を私はでき得るかぎり一生懸命に聴いたが、なにも報われることはなかった。私のなかではいつまでも、先にクラシコが提示した同時代、ウィーンの情勢がアタマのなかに鳴り響いていた。

第15番の第3楽章でも、「病癒えし者より神への神聖なる感謝の歌」にさえ、まったく感じるものがなかったのを契機に、私は形ばかりの拍手を送ると、ゆっくりと会場を後にした。そして、次に向かったサントリーホールでの体験については、別の記事に書いたとおりである。素晴らしかった。あれを思えば、マリス・ヤンソンスの退屈な演奏などには、なにひとつ感じるところもなかった。映像と生演奏のちがいはあるが、生だから点が甘くなるということもない。むしろ、その逆である。

【まとめ】

しかし、まあ、それはまた別のはなし・・・。

大変に、楽しませていただいた。来年のライン・ナップにもよるが、2012年末のジルベスターはそろそろ交響曲のほうに復帰してもよいかという感じもしてきた。なにはともあれ、こうしてジルベスター・コンサートを自由に選べるような環境に戻ってきたことが、とりあえず、日本がまだ曲がりなりにも健全な社会を形作っていることの証拠でもある。この日本をどのように守っていくかは、私たち全体に課せられた崇高な使命だ。

2012年のコンサート・ライフは、幸いなことにエリシュカのN響への再登場に始まる。さらに、英国の巨匠、ジョン・リルの来日があり、フォン・デア・ゴルツ率いるフライブルク・バロック・オーケストラの来日も重なるなど、なかなかに忙しい正月の音楽事情である。このような幸福が味わえるうちは、私はそんなに遠慮するつもりもない。なにしろ、この芸術は私をもっとも効果的に育ててくれるようだから!

【プログラム】 2011年12月31日

 1、ベートーベン 弦楽四重奏曲第7-9番
  (クァルテット・エクセルシオ)
 2、ベートーベン 弦楽四重奏曲第12-13番(大フーガ付)
  (古典四重奏団)
 3、ベートーベン 弦楽四重奏曲第14-16番
  (ルートヴィヒ弦楽四重奏団)

 * 第16番は聴かずに退出

 於:東京文化会館(小ホール)

« あけまして、おめでございます ~サントリーホール/ジルベスター・コンサート with ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団 のこと | トップページ | エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第9番 ほか N響 オーチャード定期 1/8 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/53631049

この記事へのトラックバック一覧です: ベートーヴェン弦楽四重奏曲〔8曲〕演奏会 クァルテット・エクセルシオ&古典四重奏団&ルートヴィヒ四重奏団 12/31:

« あけまして、おめでございます ~サントリーホール/ジルベスター・コンサート with ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団 のこと | トップページ | エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第9番 ほか N響 オーチャード定期 1/8 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント