2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« ベートーヴェン弦楽四重奏曲〔8曲〕演奏会 クァルテット・エクセルシオ&古典四重奏団&ルートヴィヒ四重奏団 12/31 | トップページ | エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 »

2012年1月 9日 (月)

エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第9番 ほか N響 オーチャード定期 1/8

【エリシュカについて】

近年、よく知られるようになってきた指揮者、ラドミル・エリシュカについては、これまで多くのことを語ってきた。氏は本場・チェコにおけるドヴォルザーク協会の会長、そして、優秀なアカデミシャンにして教育者。ヤナーチェクの直弟子で、その信頼も厚かったブチェティスラフ・バカラの弟子として、自身、有能な指揮者としても活動したが、その成果は社会的な動乱やチェコ人のもつという独特な気質によって遮られ、思うようには進まなかった。氏はドヴォルザークやヤナーチェクを中心として、チェコ音楽のコンサート・プログラム(つまり、オペラ以外のプログラム)における権威であると見做されている。

しかし、これまでの体験から、私はエリシュカが演目によらず、ユニヴァーサルに卓越した指揮能力の持ち主であることも実感してきた。例えば、彼の振るブラームスとか、ルーセルなどのフランス近代の音楽も、きっと素晴らしいにちがいない。シューベルトやベートーベンでさえ、ちょっと懐かしい味のする良い音楽をつくってくれるだろう。エリシュカが20歳くらい若くて、もっと指揮機会が多ければ、私は例えば、次のようなプログラムも組んでみたいところだ。

《空想のエリシュカ・コンサート・プログラム》
 1、ベートーベン 劇付随音楽『コリオラン』序曲
 2、ドヴォルザーク ヴァイオリン協奏曲
 3、ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
 4、ルーセル バレエ音楽『蜘蛛の饗宴』

つまり、エリシュカはどのような演目においても、かつての社会主義圏でその才能を謳歌したような指揮者、例えば、ヤーノシュ・フェレンチクとか、もっと大物の名前を出せば、エフゲニー・ムラヴィンスキーのような音楽をつくることも可能かもしれない。とはいえ、かくも大袈裟な名前を出す必要もなくて、私はエリシュカがチェコ・プログラム以外のいかなる分野でも、氏の積み上げてきたものを万全に引き出すことができるはずだということを理解してもらえれば、十分に満足なのである。

しかし、実際には既に80歳を超える高齢。札響をはじめ、N響、大フィル、九響などを定期的に指揮できるようになってきたとはいっても、それでも限られた公演数であることを踏まえれば、彼がもっとも後世に伝えたい分野で能力を引き出していくのが、もちろん、正攻法であることは当然だ。先日、ウィーン音楽の伝統は今日まで、はっきりした形で伝承されているという話をしたが、エリシュカという一人の人間を通じて、チェコの音楽もまだ、その伝統を十分に現代へと繋ぐことができているように思う。氏だけが正統だと言っているのではないが、この人ほど、自国の音楽を誠実に愛し、過去から現代へと時代をつなごうとしている人は他にいないし、それがインターナショナルな名声や卓越した指揮技能は獲得しても、母国の音楽に対する敬意は日に日に忘れつつあるような感じのビエロフラーヴェクなどとの違いになるわけだ。

【予想のできない名匠】

さて、前回はN響の定期会員等に対するアンケート調査で、1年間でもっともこころに残る演奏会をつくったと評価されたエリシュカであるが、2度目の登場となる今回のN響では、2プログラム=3公演を指揮する。今週(オーチャード定期)はスークの『おとぎ話』とドヴォルザークの交響曲第9番で、これは2010年の12月に東京フィルで演奏したのと同じようなプログラムだ(前プロのみがちがう)。一方、本拠地でのC定期には、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』とドヴォルザークの交響曲第6番が組まれ、これらは既に札響で披露してきたプログラムである。特に、第6番は、私がエリシュカの演奏に初めて接したときのプログラムであって、個人的には思い出ぶかい作品といえる。

これらすべてを聴いてきた私にとっては、エリシュカの手腕を通じて、楽曲の新しい見方とか、演奏の独自性を探るという段階ではあり得ない。そうではなく、かつて自らの組み上げた見方を反省し、エリシュカの伝えたいメッセージをもういちど、新たに考えなおす機会としたかった。しかし、N響という駿馬を手にして、エリシュカはもうひとつ、私たちの知らなかった鞭の入れ方をしたのだから、この人もまた予想のつかない名匠である。

【徹底的に新しかったドヴォルザーク】

東京フィルの演奏では、特に組曲『おとぎばなし』の演奏に妙味があったが、この日の白眉は、ドヴォルザークのほうだった。東京フィルのときも、交響曲第9番の演奏は無論、個性的な真打のみができる独特のはなしくちで多くの人たちに好評であったのは事実である。しかし、この日の演奏を聴くと、N響の凄さというものを感じざるを得なかった。ひとつひとつのパーツの精確な造型は、音楽をよりシャッキリと引き立たせ、エリシュカのつくりたい構造を明晰に定めたうえで、より豊かなアイディアで一杯にするのに役立つ。そのレヴェルが、N響は一段上なのである。

同じアーティキュレーションを組み立てるのにも、ダイナミズムを使うにも、N響のもつ柔らかさはエリシュカにとってひとつの驚異であり得るし、もちろん、氏の驚異は私たちの驚嘆を誘うような果実を生み出すもとであろう。こうしてN響を指揮していると、エリシュカは自分が稽古をつけているのに、何だか知らぬうちにタイム・スリップして、自分の知らない音楽を奏でているような幻想に駆られたのではなかろうか。

N響が演奏したドヴォルザークには、徹底的な新しさが感じられる。その新しさに、例えば、ボヘミアのなかにある小さなドイツ、古都市のイフラヴァで生まれたマーラーはどれだけ多くのものを学んだのであろうか。例えば、スケルッツォで鳴り響くトライアングルは、どこかしら電話のベルのように聴こえるが、その種のけたたましい響きが作曲家(指揮者)の忙しさを感じさせるアイディアは、マーラーの交響曲第4番に転用されている。しかし、ドヴォルザークはそこから逃れて天に昇る幻想は抱かず、そんなやかましい響きからも活き活きとした音楽を作り上げられることを楽天的に考えた。

こんな発想も含みながら、形式的にというよりは、アーティキュレーションやバランスのうえで、ドヴォルザークは多分、当時の作曲家たちがとても考えつかないような独特のアイディアで作品を縫い合わせた。そのことは、スラヴ的な響きや舞曲のリズムを無邪気に用いて、明朗な喜劇を組み立てたスメタナの作品との比較で、よくわかるのだ。ドヴォルザークはもはや、そうした個性に止まっていることはできず、その要素をもっと工夫して生かしきる必要に迫られていたのだろう。彼はスメタナの手法を、もう一段、鋭い編み込みでじっくりと煮込みなおして、その偉業を発展的に継承した。さらに、それを独特の手法で前に推し進めたのがヤナーチェクであるが、そのことはまた別の機会に譲ろう。

とにかく、私は今回の演奏で、何度、当時の人々の立場に戻って、嗚呼、なんと思いきった発想なのだろうと驚嘆したことであろうか。もちろん、私はそのピリオドの状況を正確に知る者ではないが、我々からみても、やっぱりドヴォルザークは驚くべき作曲家なのである。

一方、ドヴォルザークは要所ごとに伝統的な対位法の手法も忘れずに、さりげなく配置し、その最大の見せ場として緩徐楽章の室内楽の部分を準備した。また、ベートーベンをはじめとするドイツ音楽への敬意にヤドカリするテクニックも生かしきり、とりわけ、自分がつくった9つ目の交響曲、あるいは、歴として完成作としては5番目のものであることを踏まえて、ベートーベンの『第九』と交響曲第5番を下地に選ぶ。東京フィルに関する記事では前者のみ詳説したが、5番の要素も特にフィナーレにおいては随所に散見されるものである。

【細かく、ニュアンスゆたかな動きで聴かせる緩徐楽章】
N響の演奏では、特に後半の3楽章が超絶的に素晴らしかった。中間2楽章には通常、ある種のくどさもつきまとうが、今回の演奏では、目も眩むようなニュアンスのゆたかさでアタマガが休む暇もないほどだ。ラルゴは、コール・アングレを池田昭子が吹いたが、並の奏者(この楽器はオーボエ・パートのプリンシパルではない人が吹くことが多い)が一生懸命に吹くのがいい場面で、さても見事な演奏をするので、ベルリン・フィルでドヴォルザークを聴いているような感じがしたものだ。その分、それを支える声部との関係が気になるところであり、エリシュカの微に入り細を穿つ表現がわかりやすいというメリットがある。

トリオが滋味ゆたかであるが、木管の響きそのものは新日本フィル、都響、東響などのほうが味わいがありそうだ。とはいえ、全体的にアンサンブルは非常に温かく、誠実である点が特筆に値する(特筆に値するほど誠実だ)。それに対して、弦の響きの拾い方が実に素晴らしく、これで音楽がぐっと引き締まるようであった。特に整然とした響きの揃い方が太いカンタービレを織り上げるのに役立っているが、これはトリオのおわりで、木管の楽しげな響きが出る直前の厚い雲のようなアンサンブルを印象的に構成することになる。

この楽章に関しては細部云々というよりは、アーティキュレーションや軽いルバートによる流れ、あるいは、構造がきわめて周到にデザインされている印象をもった。しかし、こうしたテクニックは単に、作品が呼吸するためだけに用いられ、ごく僅かであって、その動きも柔らかい。こうした細々とした動きが、音楽を構成するニュアンスを少しずつ豊かにしていく(塵も積もれば山となる)。響きはこの上もなく優しく滋味に満ち、そのためか、前半で、コール・アングレの旋律が繰り返しに入る前に、ヴァイオリンに何度も表れる音型(邦訳の愛唱歌『遠き山に陽は落ちて』で言うと、『やすらえば』の歌詞が当てられるメロディ)はさしずめ「抱き寄せて」と聞こえてきた。それは、薄いアンサンブルが身を寄せ合い、ハートフルな雰囲気をつくっていたせいであろうか。その中心部にいた「女性」(コール・アングレのこと/奇しくも吹き手もまた女性であったことは前述のとおり)が、すこぶる堂々としているのは時代柄というものだろう。

【白眉のスケルッツォと、第1楽章】

白眉は、スケルッツォとなる。主題の演奏は一見、イン・テンポが貫かれており、響きに高い緊張感が見出せるのだが、舞踊的な跳躍感や意識の高揚にしたがって、ごく僅かにアッチェルしている。それは、くり返しのときにみられる小さなルバートによって確認されるだろう。また、ダイナミズムはこの速度増加の概ね2乗に比例するような形で、膨らんでいく。この2つの要素の柔らかい推移が、N響ならではのものである。主部からトリオへの推移をたっぷりとって、チャーミングに陽気な響きをつくる手法は、どの指揮者にも真似してほしいぐらい、作品の味わいを増してくれる。この部分をしっかり保持することの重要さは、主部におけるA-B部の関係を親密にし、その推移を柔らかくすることにあり、それにより作品全体の詩情はコンパクトに凝縮する。

牧歌的なトリオには、既に述べた「電話のベル」を解体する役割がある。主部とトリオのトライアングルの響きは、まったく別ものであってはならないが、同時に、正反対の性格を示していなくてはならない。マーラーであれば、もう逃げ出してしまいたいと願うところで、ドヴォルザークの場合は、こうして冷淡なイロニーまでも作品のなかに、楽天的に生かしきるというわけだ。終盤も舞踊的な動きを失わず、最後の一撃も響きの厚みを十分にとり、適度に保持しておわるのが小憎い発想となる。

フィナーレは最初のホルンのテーマからして強烈に吹かせ、ある種の必死さを感じさせる演奏であり、こういう部分では、やはり震災というものとの対話が、どうやら、彼らのなかにも息づいていることを教えてくれるのだ。その内側を支える弦の動きもゴージャスであり、このあたりもN響ならではのものであろう。ただ、響きの強さばかりに頼っていたわけではなく、バランス等はきわめて精緻でもあり、全体の響きはよくよく考え抜かれたものである印象は相変わらずだ。

展開部は『第九』の影響も感じやすい部分だが、エリシュカはそれほど拘泥しない。だが、その後の展開は、徐々にマイナーに落ちていく以外は、「歓喜の歌」と同じような構造であり、本質的には厚みのあるカンタービレが響く。小結尾に至ると金管が物凄い響きで咆哮し、圧倒される。ここにおけるトロンボーンの凄烈な響きなどが、きわめて印象的である。コーダは型通りではあるものの、ガッシリして堂々たるものであった。終盤は舞踊的な動きが強まり、締め括りのフェルマータもディミヌエンドを自然な減衰のみに頼り、爽やかな感じにしているのが気に入る。まあ、どうでもよいことだが、音が切れてから最初のオーディエンスの拍手はすこしばかり早いのが、僅かに不満であるぐらいだった。

これらと比べると、若干、ブレはあるものの、第1楽章も決して優れていないというわけではない。息づかいのように自然なルバートを頻繁に差し挟みながら、作品を生きものとして扱うエリシュカの姿勢を、N響のメンバーはよく理解している。このルバートの感覚を、今回、篠崎コンマス率いるN響のメンバーは完全にものにしてしまったような印象があった。それは、緩徐楽章でもきわめて重要な要素であったことは前述のとおりだ。テンポの動きは、東京フィルのときよりは激しくなく、それよりも、重みや動きの質の変化によって、巧みにニュアンスをつけていく。

エリシュカはもちろん、自分の受け継いできている明確なヴィジョンに基づいて、オーケストラを導いているわけだし、そのやり方に妥協はなく、プローベはとても厳しいということだ。しかし、完全に相手を締めつけるわけではなく、この第1楽章でも結構、アンサンブルを自由に遊ばせていて、思いがけないところでぐっと引き締めたりするのが面白い。その指示に瞬時に応えるオケも、その反応力が凄まじい。これだけ動いてくれれば、エリシュカ翁もさぞかし喜んだにちがいない。

【若干、アプローチの異なるスーク】

ヨーゼフ・スークの組曲『おとぎばなし』は、東京フィルの演奏のときのほうが印象的だ。かといって、この日の演奏が駄目だったわけではなく、篠崎コンマスのソロを除いて、特に目だって悪かった場面は見受けられない。しかし、東京フィルが細部につけられたカンタービレを内側から、甘く歌い上げたのに比べると、N響はより外面の響きをしっかりと固めるような演奏であり、全部がおわったときに、本当の表現意図がわかるというような演奏であったという違いがあるだけだ。

第1楽章(今回は敢えて4楽章構成の交響曲として見ることにする)は、篠崎コンマスが不甲斐なかった。音程がとれず、それをごまかすために響きを震わせるしかなかった。そのため、全体の響きは半ば押し潰され、音楽を楽しむどころではなかったのだ。その点、舞踊楽章はよくまとまっている。エリシュカらしい生気のある舞踊の躍動感があるが、全体的にアンサンブルはまだ硬い。緩徐楽章は、N響らしいアンサンブルの堅固さが特徴となる。ただし、柔らかい響きの推移は夢のような響きを形作る。その対照としての、クライマックスの劇的な深い慟哭は、正に父王の死を強烈に悼むものだ。

フィナーレは、冒頭および終盤のテーマの威容が凄まじい。この部分は総じて、全体のなかでも出来がよく、詩情も豊富である。中間に女性的な響きが対置され、N響の演奏では、これら男女(ジェンダー)の対比がくっきりしているのが特徴的である。終盤にいくにしたがって響きは凝結し、詩情もゆたかに集約され、最終的に、既に申し述べたようなガツンとしたイメージを残す。篠崎のソロも、最後にはうまくいった。エリシュカはきっと、ヴァイオリン・ソロには自由な発想を求め、篠崎は数種類のアプローチを用意していたにちがいない。だが、それらのすべてがうまく嵌ったわけではなく、最後のもっともシンプルなアプローチだけがこころに残ったものである。

東京フィルのときほど、強い衝撃はなかったものの、エリシュカの演奏する同曲にハズレはないようだ。この曲にはエリシュカも思い入れがあるようだし、市場には良い録音も少ないので、もしも札響で録音されたら最高の喜びだろう。

この日の演奏にみられるもうひとつの特徴は、スークが参照した過去のお手本が透けて見えるような演奏であったことだ。もちろん、義父のドヴォルザーク、そして、彼の傾倒したワーグナー、スメタナの影響は濃厚だが、この日、ドヴォルザークの演奏に感じられたような新しさと比べると、スークはずっと保守的な姿勢である。特に、ワーグナーへの傾倒は、義父譲りのものであり、この作品には『トリスタン』の幻影が何度も現れる。ドイツ音楽に対するあらゆるオマージュが散在し、それらの密林をボヘミアの楽想が切り開くという構図になっている。

例えば、第1楽章は「トリスタン」前奏曲の雰囲気で始まり、ややボヘミア的なイメージが加わったあと、シューベルト風の味わいも付け加えられたヴァイオリン・ソロが出て、その感興は、ドヴォルザークが書きそうな緩徐的な部分に回収されていくという前半の流れである。第2楽章では、『わが祖国』の印象が僅かによみがえってくる。第3楽章はこうした要素がもっとも顕著であり、ドヴォルザーク、ベートーベン、ウェーバー、ワーグナー、ブラームスといった要素が上手に混合されているのがわかるし、また、一世代上のマーラーとも様々な共通点を指摘できそうだが、ここでは深入りしない。

こうして聴くと、当時のスークにとって、『トリスタン』がどれほど凄い音楽と思えたのかがよくわかる。終曲の最後の音楽の流れなど、完全にイゾルデの「愛の死」と同じだ。そして、それに対置されるように現れるスラヴ的な素朴な旋律の面白さ。エリシュカの指揮でワーグナーが聴ける機会があるのかわからないが、こうしてスメタナ、ドヴォルザーク、スークなどを通じて聴くワーグナーの響きは、本当に素晴らしいものだ。

【スメタナによる前プロとアンコール】

最初のスメタナの歌劇『売られた花嫁』の序曲は、N響のメンバーにはあまりにも簡単すぎる感じであったが、その可能性を完全に使い尽くした演奏で、6-7分の短い曲ではあるが、その凝縮した響きの味わい、ドラマ性と、そこからはみ出ていく素朴な舞踊性が自由に扱われていた。ダイナミズムは堂々として、奔放なカンタービレに満ち、この作品としてはこれ以上はないという名演奏だ。見事!

このような小品を数限りなく並べて、30分くらいの前半戦にしても十分に楽しめたろうと思う。

この日はアンコール演奏もあり、定番の『スラヴ舞曲』の第10番(第Ⅱ集の2曲目/op.72-2)が演奏された。「新世界より」のつけあわせとしては、きわめて頻繁に演奏される曲だが、エリシュカにとっては多分、日本で初披露となる曲目だと思うので、ファンとしてはとても嬉しかった。師匠のターリヒの録音よりも、よりズッシリした詩情を感じさせるエリシュカの演奏に酔いしれているうちに演奏会がはねた!

さてもエリシュカは80歳を過ぎたが、まったく衰える気配はない。むしろ、年々若返っているように見えるほどで、ずっと若いはずのマロ氏が露骨に老け込んでみえたのとは対照的であった。これならば、まだまだ末永く、私たちはエリュカの演奏を楽しむことができそうである。

カーテン・コールでは、コントラバスの首席のところまで歩いていって、握手をかわす。これはコバケンなどもよくやる手だが、彼のように嘘くさいところがなく、エリシュカの人柄をよく表している行為だ。アンコールの前には、オケを立たせるのを忘れて、引き返してきてしまう。それに対しては思わず、「笑わない」と評判のオケからも笑みがこぼれていた。最後、もう1回、エリシュカが出てくるのに気づかず、コンマスが挨拶を促して引き上げてしまったのはご愛嬌。都響のときとは意味がちがうだろう。ステージの端で、可愛らしく手を振るマエストロの愛嬌が、演奏中の彼とはまったく対照的であった。

こんな愛すべきエリシュカ翁に、来週もまた会えるという喜び!

【プログラム】 2012年1月8日

 1、スメタナ 歌劇『売られた花嫁』序曲
 2、スーク 組曲『おとぎばなし』
 3、ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

 コンサートマスター:篠崎 史紀

 於:オーチャードホール

« ベートーヴェン弦楽四重奏曲〔8曲〕演奏会 クァルテット・エクセルシオ&古典四重奏団&ルートヴィヒ四重奏団 12/31 | トップページ | エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/53685136

この記事へのトラックバック一覧です: エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第9番 ほか N響 オーチャード定期 1/8:

« ベートーヴェン弦楽四重奏曲〔8曲〕演奏会 クァルテット・エクセルシオ&古典四重奏団&ルートヴィヒ四重奏団 12/31 | トップページ | エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント