2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 | トップページ | ツイッターを使ってみることに。 »

2012年1月15日 (日)

エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 ②

【すべて生きとし生けるものへの讃歌】

初日を聴いた時点では、確かに深く感動は感動したものの、『シンフォニエッタ』についてはほんの一部について書くに止め、エモーショナルに書くことでお茶を濁そうと決めていた。だが、2日目の演奏を聴いては、そうも行かないのである。

今回の演奏会のテーマは、見慣れたものがある日、突然になにか美しいものに変容するときの感動である。正に、『シンフォニエッタ』とはそのような曲だ。それまでは目を惹くようなものではなかった市庁舎やら、街路といったものが、急に輝きを取り戻す。革命によって! 晩年の愛人、カミラ・ステースロヴァとともにソコルという愛国的なイベントに出る軍楽隊を眺めていたときに、ヤナーチェクは有名な冒頭のファンファーレの着想を得たという。ただし、そこはヤナーチェクのこと。実際のソコルには参加の足跡もみえず、きっと、その手の「愛国」には見向きもしなかったであろう。チェコが革命に成功したと言っても、ヤナーチェクの愛するモラヴィアはその中に包み込まれていたし、なにより、それを成し遂げた「愛国者」連中にも信頼を置けなかったであろう。彼が祝ったのは、あくまでも架空の・・・ヤナーチェクの想像力のなかに蘇った理想郷の「独立」である。

そのなかには、明らかに人間的なものでないものも含まれている。私たちは幸い、『利口な女狐の物語』というオペラを知っているが、正に、そのような世界なのである。確かに、人間もいる。だが、その人間よりは、キツネやカエル、クマ、フクロウなどのほうが、生き生きと描かれている。しかし、『シンフォニエッタ』では人間を含むすべての生きとし生けるもの、森や植物、それらを包む空気にさえ、讃歌が向けられている。

【ヤナーチェクの思い描いたクニ】

最初のファンファーレは、初日の演奏に味わいがあった。若干のばらつきはあっても、最初の音からエリシュカの吹き込んだ響きが、繊細に空間を伝わってくる。迫力はない。だが、じんと来た。その繊細さと比べると、2日目の演奏は整然としているが、その分、味わいは若干、落ちたように思える。さて、その響きがフィナーレで生まれ変わる。決定的なちがいは、瀟洒な弦が下支えについて響きを盛り上げていることだ。私の趣味は、言うまでもなく耽美的である。リンクのような演奏(ハインツ・レーグナー&ベルリン放送響)こそが、作品の味わいを高めると信じてきた。しかし、21012年1月14日、明らかに私は目覚めたようだ。このような演奏は誇大的であり、明らかに革命のロマンティシズムに浸りきったものにすぎない。

エリシュカは、こうした「叫び」を真のヤナーチェクのメッセージとは捉えないのだ。終楽章のアンダンテから始まる曲想は次第に緊張感とテンポを高め、正に、鳥たちはざわめき、風が立つ場面。その風が強まって、金管のファンファーレが回帰する。その響きを、下の弦楽器が必死に支える構造になっているのは周知のとおりだ。レーグナーは途中まで抑えているが、ある部分からは徹底的に響きを開放する。そのとき、風は歌謡ショーに吹く紙吹雪のように「豪奢」な雪嵐である。ところが、エリシュカの演奏においてはこの雪嵐はいつまでたっても訪れない。代わりに彼は、ひとつずつ丁寧にエピソードを展開し、じっくりと響きを煮詰めていくだけなのである。

だが、そうすることでしか、このフィナーレのコーダは正しく理解できない。中心となる金管の響きと、弦の素晴らしいバランス。極端なテンポ設定だが、1928年に早くもこの曲を演奏したホーレンシュタインの演奏は、若干、参考になるかもしれない(リンク参照)。ファンファーレの再現が華々しく来たあと、弦の支え(風雪)が木管による鳥獣的な響きに変わって、これが金管と対比される場面。さらに、打楽器がアクセントとなり、このような響きがより立体的に組み立てられ、もっともスイートな調性ラインに移って美しくメロディが輝き、人間と動物たち、植物、自然がハッキリ一体となりつつ、作品の響きを構成する場面。これこそが、ヤナーチェクの思い描く真の「革命」(それは現実にはあり得ない)を象徴する重要なポイントなのである。

エリシュカのつくる適度なスペースが、こうしたものすべてを受け容れるのに必要なのである。初日の演奏では、このメッセージはまだ、完全には生かしきられていなかった。そのため、私はとても引き締まった気持ちで、厳粛に演奏を受け止めることはできたが、その正体がどこにあるのか、ハッキリと断言することができなかった。恐らくは、金管のバランスに腐心するあまり、集中力が縮こまって、作品全体の放つメッセージに対する関心がやや薄れかけていた結果であろう。また、札響の演奏においても、エリシュカがあまり弦のベースを厚くしないことに僅かな疑問を感じ、それは多分、オーケストラの技量による欠乏であると信じてきた(無論、これらのどちらもが良い演奏であることに変わりはないのだが)。

しかし、そうではなかったのだ!

エリシュカは本当に、誇大的ではないまっさらのキャンバスの上に、モラヴィアを成り立たしめるすべての響きを、そのままに載せてみたかっただけなのである。そのためには、いかなる華やかな虚飾も、作品のもつメッセージからみれば醜い障壁である。その代わり、例のもっともスイートな部分で、私たちはすべてを知る。そこでは、正に人間と、それを取り巻くすべてが、神さえも・・・否、小さな動物たちや虫たちさえもが生きているのだ。その生命感が、革命における行動に一人一人が立ち上がっていく(ちょうどベートーベンの交響曲第5番のフィナーレのような)イメージとどこか重なってくるのだが、面白いことに、ベートーベンでは集団(群衆)による団結というテーゼがはりついているのに比べて、ヤナーチェクにおいては、あくまで1つ1つの個が重くみられているようなのだ。

エリシュカとN響は、正に、そのようなメッセージを完璧に拾い起こした点で、圧倒的な成功を収めたといえる。正に、1人のひと、狐1匹、鳥1羽、風の一吹き、土の1かけら、すべてに生命(いのち)が宿っている。この場合、生命とは、響きの謂いであるのは言うまでもないが、正にバラバラであって、それが不思議と凝縮している。ヤナーチェクにとってのクニとは、実にこのようなものでなければならなかったのだ。そうだとすれば、ソヴィエトにおけるピオニール組織と同じで、愛国心の画一化をめざすソコルのような集団にヤナーチェクが関心を示すはずがないだろう。

それはともかく、その1人1人の目覚めを歌うヤナーチェクの響きは、正に凄絶である。エリシュカとN響においては、それが急にやってくるのだ。これはもう、受け止めきれないほどの重い響きとなる。ガツンと来た。それゆえ、私は久しぶりに号泣したのである。それも演奏がおわり、アプローズがおわったあと、私のなかで激しくこみ上げてくるものがあった。これは、1月14日の演奏会に立ち会った者だけの特権である。なんという幸運だろう! 私はこの週のアタマまでは、13日の演奏のみが聴けることになっていたからだ。「運命の導き」というには、あまりにも軽い。中プロのアプローズは通常、3回でおわるのだが、もう1回足されたところにこの類稀なる成功の証拠がある。エリシュカはその1回で、管楽器の奏者たちとの握手を求めに歩いたものだ。

【ワレンシュタインの陣営】

最後、スメタナの交響詩『ワレンシュタインの陣営』についても、ツッコミどころはたくさんある。だが、これほど長く書いて、さらに後をつづけるほど面白かったわけでもない。作品の素材は変わっていて、戦陣で英雄たちが酒盛りして、眠って、いざ出陣というところでおわってしまう。

昔のトロイものの戦記などは、大抵、実際の戦闘のところよりは、どちらかといえば、戦陣における英雄たちのやりとりのほうが面白いところはあるし(例えば、そのために大アイアースはオデュッセウスと対立し、恥を雪ぐために壮絶な死を選ぶ。そのオデュッセウスは嫌われ役で、戦後、苦難に満ちた航海の末にようやく英雄となる)、そういう中世的な発想に基づいているのは言うまでもない。また、平安末期の武士の戦いでは、戦場でも雅がまだまだ罷り通っており、歌を詠みあい、酒宴を盛大にしてから、音曲を響かせ、煌びやかに名乗りを挙げて戦った。正に、『平清盛』の時代と、この『陣営』ではイメージが似通ったところがある。そこに、放送局の密かな意図があったのかどうかは定かでない。

演奏は2日目のほうが音の示すポエジーが凝縮して、スッキリした演奏になっていた。ただし、初日の演奏も、以前にやった『わが祖国』の残り香を感じさせるなどして、不器用は不器用なりの面白さがあった。

【まとめ、エリシュカの今後】

2プログラム=3公演、とても聴きどころが多かった。健康でさえあれば、次回の登場も期待できそうな演奏成果である。そして、実際にそうなるものと確信している。しかし、それはそれとして、次回の登場は4月の札響だ。東京フィルやN響で素晴らしい演奏を披露した『新世界より』、そして、都響や大阪センチュリー響(当時)で披露した交響詩『野鳩』というプログラムが眩しい。特に、『野鳩』はエリシュカのスぺシャリティが堪能できるらしい、ドヴォルザーク晩年の傑作。札響の音で、是非とも聴いておきたい1曲である。

なお、今秋から今冬は、エリシュカは札響でドイツものを指揮する。ハイドンの「V字」シンフォニー、モーツァルトの「ジュピタ」シンフォニー、ベートーベンの『第九』などというものもあり、どうしても札幌行きを迫られるようなプログラムが並んでいる。私のふくらまない財布のためには、LCCの活躍に期待したいと思う。

【プログラム】 2011年1月13/14日

 1、スメタナ 交響詩『ワレンシュタインの陣営』
 2、ヤナーチェク シンフォニエッタ
 3、ドヴォルザーク 交響曲第6番

 コンサートマスター:篠崎 史紀

 於:NHKホール

« エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 | トップページ | ツイッターを使ってみることに。 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/53746602

この記事へのトラックバック一覧です: エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 ②:

« エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14 | トップページ | ツイッターを使ってみることに。 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント