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2012年1月15日 (日)

エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 & ヤナーチェク シンフォニエッタ N響 A定期 1/13-14

【エリシュカのもつ2つの顔を担当する2つのオケ】

エリシュカにとって、この場所(渋谷)はとてもエキサイティングではあるが、終着駅ではあり得ない。N響での3公演を聴いた、素直な感想である。特に、ドヴォルザークの交響曲第6番とヤナーチェクの『シンフォニエッタ』は札響でも演奏を披露しているため、そことの比較が重要な意味をもってくるはずだ。そのことにも触れながら、慎重にレヴューをつくっていきたい。

ドヴォルザークには、2つの異なった顔がある。ひとつはもちろんスラヴ人としてのハッキリしたアイデンティティに基づく顔で、そのヒーローは言うまでもなくスメタナである。一方で、ワーグナーをはじめとするドイツ音楽の伝統に傾倒し、それを生真面目に追っていくドイツ的な気風も重要だ。このうち、札響との共演では前者の面が「労せずに」表出されるのに対し、N響においては後者の面が強調されて現れる。これはエリシュカが、自分が受け継ぎ育ててきた知見やアイディアを堅固に守りながらも、それぞれのオーケストラの良さをそれに合わせてどのように引き出すかという「道」行きのちがいから導かれる結果であろう。

つまり、札響においては細々と指示せずとも、いつも不思議と現れてくるスラヴ的な音色をベースに、エリシュカを信じきって素直に流れに乗り、心胆から紡ぎだされるかのような音楽を発揮する相手の良さを、自由で奔放なカンタービレの手法で導いていく。それに対し、N響はオーケストラとして持っている力量が高く、特に弦の響きも分厚いことから、そうしたものを生かすために幾分、どっしりしたテンポをとり、細かな山谷を丁寧につけていくことで、音楽の立体性を増していくのである。

さしずめ札響での音楽はドヴォルザーク的で、N響での演奏はスメタナ的といったところであろう。どちらがいいというような比較ではなく、私はどちらのエリシュカを採るにしても、変わらず幸福である。しかし、そうはいっても、やはり札響におけるエリシュカのほうが、やはり彼らしい姿でいられるというのは事実であるように思われるのだ。

【平和のためのシンフォニー】

私はドヴォルザークの交響曲第6番をノイマンの全集で気に入り、しかし、ライヴにおける下野竜也&東響の演奏で、その愛情を確固たるものとした。ここで述べておくならば、エリシュカと下野と私には、おこがましい言い方になるが、ある共通点があるように思っている。それは、徹底した平和主義だ。サヨク的な「平和」ではない。それは単なる幻想であり、我々はより現実的である。音楽が好きな者は本来、争い合うことを好まない。大事なときには闘いもするが(ラヴェルなどは戦場で、命がけで弾薬を運んだほどである)、多くの場合、争いは音楽を奪ってしまうのであり、音楽家はそのことをもっとも悲しく思うであろう。私たち3人の共通点はもうひとつ、ドヴォルザークの交響曲第6番を愛することだ。

いま述べた2つのことは、密接に関連しあっている。なぜなら、ドヴォルザークの交響曲第6番は平和のためのシンフォニーだからである。『スラヴ舞曲集』で人気作曲家となったドヴォルザークにとって、当時のウィーンに流れた政治絡みのスラヴ系と独墺系民族の対立心は悩みの種であった。この交響曲で華々しくウィーンを彩るシンフォニストの仲間入りをするはずだった彼は、自らのルーツを語るスラヴの響きを、独墺系の形式に寄り添って書くということを、自らに命じた。ショスタコーヴィチの交響曲第5番とドヴォルザークの第6番はとても似通った位置にあることをアタマに入れて置こう。

だが、ドヴォルザークはそれを想いの問題だけではなく、形式のなかに、ハッキリわかるイメージ(パヴリック・メッセージ)として組み立てているところが面白い。つまり、それはオーケストラを構成する弦、管のバランスによって、スラヴ風とドイツ風の要素が代弁され、それらのバランスが崩れれば不穏となり、重なり合うときには幸福となるのである。

【繰り返しによる不穏と安寧の差】

N響における演奏では、このことがなおさら重要である。札響における演奏では形式に対する精巧な配慮が、即興的な音楽の弛まぬ流れによって、幾分、和らげて聴かれるのに対して、N響における演奏では、上に述べたような2つの要素はより明確に区別されて、また別の味わいを呈するからである。例えば、この作品においてドヴォルザークはすべての楽章で、旋律的には、ほぼ単純な繰り返しを入れている(トリオ形式を含むが、その話はここでは除外する)。しかし、その繰り返しは微妙にバランスを変えてつくられており、1回目は徐々に不穏に落ちるものが、後者では柔和に融けていくということで、わかりやすく平和のためのメッセージを提示しているわけである。

つまり、1回目の不穏(もしくは、響きの歪み)というのは、弦・管のどちらかが突出し、スラヴ的な旋律の太さか、ドイツ的な形式の強さのどちらかが、ハッキリ強調されたときに起こっている。もちろん、その響きは戦争に通じる激しさとして発展するであろう。ドヴォルザークはこの流れを停止し、天才的な発想で繰り返しに響きを導いていく。まず、このとき、何事もなかったかのように最初の響きを復元させるN響の技術(とこころ)には感服させられる。それは流れに沿った適当な厚みを備えながらも、響きのうえでは完全に鎮まっている、という地味に難しい作業であるわけだ。例えば、第1楽章で提示部の流れが一通りおわったあと、おもむろに最初の部分に戻ったときの、息を呑むような緊張感である(終楽章にも同じようなストリームがみられるが、最初の楽章ほどダイナミズムに開きがないので、それほどは目立たない)。

そこからのつくりなおしが、また見事だ。バランスの調整だけなら、札響のときにもうまくできていたが、N響においては、さらにうねりのつくり方が精巧で、エリシュカの思い描いた演奏意図をスコアで確認させるようにして、復元してくれるのだから凄い。こうしてできる構造は、旋律の上昇的な流れがA地点からB地点に向かって、音楽の流れに沿って上昇的に昂揚していくのだとすると、そのプロセスは次のように異なっている。

 〈1回目〉 A-(右肩上がりの比例的直線による昂揚)→B
   ↓(ダ・カーポによる鎮静)
 〈繰り返し〉 A-(フラットな推移と爆発的な垂直的昂揚)→B

つまり、1回目はA地点から弦・管のどちらかが突出し、長く、分厚い昂揚を経て、響きが荒々しくなり、もう、どうにもならない混乱のなかでクライマックス=B地点に到達する。しかし、それは先に述べたような抜群にスリリングな転換によって、最初の風景に回帰し、つづいて、ほぼ同じ道筋ながらも弦・管は優しく寄り添い、その自然な対話(対比)のなかで一瞬の爆発的な昂揚(歓喜)により、魔術的な押し上げでB地点に至るというわけである。今回の演奏を聴くかぎり、繰り返しにおける昂揚はきわめてなだらかで、1回目の極点を既に知っている聴き手からすると、このバランスで同じB地点に達することはなかなか難しいように思われるものだ。しかし、実際には、いちばん最後の踏ん張りがよく効き、響きは明確に最初の極点で感じられたのと同じ地点まで達していた。

このような細かい流れは、なるほど、札響のときには感じられなかったものだ。特に初日の演奏においては、繰り返しの流れのなかで、それぞれの突出に張りつく弦楽器、もしくは管楽器のバランスが奇跡的に決まっており、それは最後の第4楽章大詰めで、ほぼ奇跡の範疇に属する絶妙のバランスとして実を結ぶことになった。2日間のちがいについては追々述べていくが、この点に関しては、初日の演奏のほうが格段に素晴らしく思えた。14日の演奏は全体的にアンサンブルがのびのびと楽天的になった分、このような特徴が若干、失われてしまったのである。

上に述べたような後半戦の特徴に、ルバートがある。1回目の流れでは、基本的に音楽はイン・テンポで進む。しかし、繰り返しにおいてはより呼吸が大きくなり、アーティキュレーションの伸縮も激しくなるが、その動きをゆったりと装飾するのがルバートである。ドヴォルザークはこのルバートのなかに、ウィーンの形式と、自らのルーツをつなぐような鍵を見出しているのであり、この動きの雄大さにも私は舌を巻いてしまう。ただし、このような音楽の揺動は単に呼吸的なレヴェルに止まっており、見たところ大げさではないところがポイントだ。

【4つの楽章の細部論評】

第1楽章冒頭の長閑な旋律が、すべてのメッセージの文字どおりの出発点である。テーマが次々に提示されていき、そこから徐々に、既に述べたような工夫で音楽が分岐していく。経過区には、ベートーベンからの借用が頻繁にみえる。これは同時に、友人のブラームスへのオマージュでもあるようだ。このあたりの推移は、N響の演奏において特にわかりやすい。ただし、すこし癖のあるアーティキュレーションや音色の問題では、どうしても札響のことが懐かしくなる。一方、テーマの盛り上がりにみられる急速な上昇音型のずり上げなどには鋭くキレがあり、これなどは逆に、札響には真似ができないものだ。

緩徐楽章は、エリシュカの演奏で特に魅力的な部分のひとつである。楽聖の「田園」シンフォニーの形式にヤドカリして、繊細なバランスの構築により、はじめてドヴォルザークの託したメッセージが明瞭になる。どちらかというと初日の演奏がよいが、傾向は変わらず、各パーツごとの造型がくっきりと彫琢される点に、N響らしさを指摘できる。N響の木管アンサンブルは東京のオーケストラのなかで特に良いとは思わないが、この日の演奏は徹底的に生真面目で見どころがあった。だが、それを支える弦の響きが、なんといってもN響的な手厚い響きを決めるもとである。

中間、殊更に悲劇的な旋律が盛り上がるが、この不穏の旋律は初日、とにかく予定調和的でいけなかったが、その問題は翌日、ほんの僅かに溜めに余裕が出たせいか、スッキリ解決した。流れが落ち着き、やや響きが退屈になるところで出るヴィオラの濃厚な響きが、これまたエリシュカらしいポイントになっている(余談だが、エリシュカと下野と私の第3の共通点に、ヴィオラを重視するというものがある)。初日は特に効果的だが、響きが僅かにかさつく。2日目は、音色がずっと良くなった。

舞踊楽章は、2日間を通してさほど良いとは思わず、どうしても札響での活き活きとした演奏が忘れられない。これだけの演奏をされても、やはり札響&エリシュカのアイデンティティは厳然としてあるのだから、北のオーケストラも自信をもってほしいものだと思う(たとえN響がどんな演奏をしようが、録音にも残されている見事な演奏には到底、及ぶものではない)。N響はさほど力まずに、響きに区切りをつけられる。だが、その分だけ、アーティキュレーションはやや浅めに彫り込まれ、フリアントの躍動感は引っ込み、リズムにも面白みがなくなる。こうした部分では、あまり使わない言葉だが「外連味」をたっぷりと発揮して、大胆に振付をやることも重要だ。札響はそのあたりに照れがなく、思いきりやるから響きに力感とリアリティが生まれるのであろう。

終楽章は、確かにブラームスの交響曲第2番のフィナーレとほとんど同じ構造になっている。山谷のつけ方も似ているが、しかし、それだけではなく、ベートーベン(7番、9番)や、メンデルスゾーン的な要素も相当に入っている。特に、N響の演奏を聴いているとその感覚がつよく、なるほど、私がエリシュカのドイツ音楽を聴きたいと願う欲望は、こういうことで、密かに満たされているらしい。

ところで、終楽章の演奏は2日間を通じて、特に差の大きい楽章である。「奇跡のバランス」については既に述べたとおりであるが、全体的にとにかく全部を出しきろうということで、ノリノリでいった2日目は、残念ながら、作品そのものが持つ味わいも、エリシュカの指示がもつ面白さも、半ば押し潰してしまった印象を抱く。ただ、これで初日からぶっとばして練習していたら、一体、どういう(素晴らしい)ことになったのだろうという興味はあった。私は前向きな失敗として、2日目の演奏姿勢も十分に評価したい。だが、初日の演奏はブラームスの交響曲第2番フィナーレの有名なコーダに重ねて、スラヴの旋律が生き生きと再生し、弦・管・打のバランスが圧倒的に美しく、整然と凝縮し、私の期待を越える大きな成果が得られた。

 (②につづく)

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