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2012年2月 1日 (水)

ジョン・リル ベートーベン ピアノ・ソナタ第23番 ほか 1/31

【しわ刻むリルの演奏】

ジョン・リルの東京文化会館における演奏会を聴いてきたが、想像を絶する素晴らしさであった。これまで、チッコリーニをはじめ、レーゼル、プレスラー、バドゥラ=スコダ、オピッツなどの演奏を聴いてきた私としても、それらに勝るとも劣らない優れたパフォーマンスに接することができた幸運を噛みしめている。つまり、私の場合、そういうときには、いままで知っていたはずの楽曲を改めて発見するような、あるいは、楽器の使い方そのものに対する新たなインスピレイションを得たということを意味している。

今回、彼が取り上げたのはベートーベンのソナタのうち、8番(ハ短調)、14番(嬰ハ短調)、23番(ヘ短調)といった人口に膾炙したプログラムである。しかし、そうでありながらも、彼の弾く「月光」にしても、「悲愴」にしても、もちろん、「熱情」にしたところで、私の知っているタイプの演奏とはかけ離れていた。多くのピアニストがこの楽譜をみれば、多かれ少なかれやりたくなってしまうであろうことを、リルは見事に排除して、その代わり、それよりもずっしり来るイメージを嵌め込んでしまう。すべての部分が「新しく」、「独特」である。きっと書き込みだらけで音符がみえないぐらいになっているであろう、リル愛用の研究スコアを私は想像した。鍵盤への重みのかけ具合、強拍と弱拍の使い分け、音符の保持やフェルマータの長さ、テンポ設定、アーティキュレーション、すべての面でリルの音楽には深い説得力がある。

言ってみれば、人間の顔に残ったしわのようなものだ。それは容易にとることもできないし、その人物の生きてきた歴史を否応なく物語る。それは一種の醜さであるともとれるが、リルの母国の英雄的な詩人、ホイットマンは言っている。若い女は美しいが、老いた女はもっと美しいと! 正に、巨匠は老女のしわをこそ愛したのだろう。絵に描いたような美人など、3秒もみつめていれば飽きるものだ(そんな女をつかまえてから言え!)。それよりも、老女のしわの意味をつらつらと考えていれば、経つ時の流れも速くなるというものではなかろうか。リルの演奏には、確かにそのようなしわがいくつも刻まれていたのだ。

【自然で頑丈な響き】

さて、リルのベートーベンは、無論、力づよいものである。しかし、絵に描いたような力づよさではない。ゲルバーのような、そういう全面的な力強さではない。表現でき得るダイナミック・レンジは広いが、リルが強打を用いるのはほんの僅かなときでしかない。例えば、第23番の第1楽章のはじめで、旋律の合間に凶暴に割り込んでくる厚い和音のところなども、響きの強め方はあまり極端でないのだ。こうした部分でのわかりやすいイロニーに、リルは作品のもつ詩情を安易に託さないのである。

彼はもっと大事に素材を育て、リズムとアーティキュレーションに柔らかく包んで、慎重に音楽を進めるのである。そのためか、テンポは全体的にゆったりしている。絵に描いたような「巨匠風」ではないものの、悠々と時間を刻んでいる。もちろん、たるい感じはしない。むしろ、彼の音楽は爽やかで、透明に聴こえる点が面白いのだ。こうした演奏でリルが明らかにするのは、耳に届く音響的な太さよりも、繊細な構造に基づいた・・・自然と身体に響いてくるような響きの頑丈さなのである。

【1つのテンポ・ベースで奏でられた第23番】

ついでに、第23番の演奏について述べるならば、1つ逸してはならない特徴がある。それは、3つの楽章が実はワン・テンポで弾かれていたという事実である。3つの楽章は楽想表記によって、順にアレグロ・アッサイ(非常に速く)、アンダンテ・コン・モート(気楽にのんびりと)、アレグロ・マ・ノン・トロッポ(速く、然れども速すぎず)という風になっており、急・緩・急の構造になっていることは言うまでもない。ところが、リルはこれらのちがいはしっかり踏まえているものの、そのベースにある音楽の流れは一貫させている。平たくいえば、基本的なペースを変えないで、その雰囲気のみを切り替えているにすぎないのだ。

もしも、先程、申し述べたようなスタイルではなく、一般的なこぶしを効かせるようなやり方で大袈裟な表現をしたときには、このようなマジックは多分、まるで通用しないのではなかろうか。作品全体のテンポは大胆に揺さぶられ、もっとどぎついフォルムを抉らなくてはならない。例えば、リルのあとで次のような演奏(リンク参照/リーリャ・ジルベルシュテイン)を聴いてしまうと、思わず吹き出してしまう。このような苦労を払っても、ベートーベンの音楽の真影はすこしも姿を現さない。リルはもっと紳士的に、この作品のなかに徐々に出現する素材を、はじめての客をもてなすように接することで、自分の手もとに丁寧に集めていくようにしている。すると、「運命の動機」も恭しくともをしてくれるし、それを支える構造が全体に浮き上がってくるというわけだ。

最初の楽章と緩徐楽章の断絶は、まったく感じられない。主題は十分に堂々として、ヴァリュエーションはすこし素朴である。古くはバロック時代にも遡れるこの形式はベートーベン以後、多くの形式的な作曲家が好むところとなるが、リルはあくまで、その原形となる朴訥な味わいに注目している。それゆえ、最終変奏の自由さが際立つのだともいえる。この最後の変奏に合わせて、全体的なテンポは実のところ速めにとられていて、前述のように、ベースにおいては最初の楽章とさほど変わらないほどだ。むしろ、そうすることで、3つの楽章のテンポは特徴的に響くともいえようか。要するに、こういうことだ。

当然なことながら、F1カーの速さと、一般車の速さを比べるには、それぞれが別々の道を走るよりも、同じトラックを走ったほうが実感がわかりやすいはずである。これと同じことで、ベースとしてのテンポがあっているほうが、3つの速さはより比較しやすいにちがいない。ただ、そのちがいを示すには、よく煮詰められた音楽の造形、アーティキュレーション、強さへの繊細な配慮が不可欠である。だが、もしもこれを実現すれば、そのピアニストは作品の味わいをいかなる無駄な苦労にもよらず、自然な呼吸で引き出すことができるであろう。

その当時の楽器の進歩に応じた技巧的な、ダイナミックな音楽の広がりさえ、すこしも大袈裟なものとはならず、きわめて上品な歌いくちで弾き上げることが可能となる。正にさまざまな可能性を我が手にしたリルにとっては、目のまえに広がる壮大なる海も決して広すぎはしない。それはプレストにおける輝かしく、豊饒な響きを湛えた打鍵によって、きわめて明瞭に確かめられるはずだ。

【8番にみられる徹底した懐疑】

第23番については、このような解説によって演奏を読み解くだけで良い。だが、私にとってより大きなインスピレイションがあったのは、前半の3曲だ。特に、第8番と第14番は衝撃的である。

まず、第8番の演奏に感じられるのは、ベートーベンのもつ徹底した懐疑の精神であった。この作品はバロック的な感興を十分に残しており、モーツァルトからの影響も少なからず感じられる。しかし、そうした素材をベートーベンは自分で導入しておきながら、同時に自ら否定することで進めていこうとする。例えば、第1楽章の序奏のあと、リルの演奏では、まず宗教的なオラトリオやオペラのイメージから、交響曲(ソナタ第8番の作曲年には彼自身の交響曲は1つも完成していないことは承知のうえだ)のイメージが導入されるのが明らかであり、こうしたもののハイブリッドによって、響きが盛り立てられていくのもよくわかる。しかし、こうした素材の積み上げは、この楽章でほとんど唯一といってもよい強調で、展開部にグラーヴェの序奏部分が再帰する直前で見事にぶった切られる。

周知のように、この構造はきれいに2度あらわれるのだ。つまり、ベートーベンのこの作品には、明らかにはっきりした解決がなく、疑問形でおわっている。このような問題に集約される、ベートーベンの懐疑はリルの示すようなハッキリした筆致によって、改めて厳しく示されるのである。

著名な旋律によって知られる緩徐楽章も、ちょっと聴いたことがない味わいだ。すこし暗めに響くが、かといってメランコリックではなく、印象としては十分に爽やかである。アーティキュレーションや音色の推移はこの上もなく繊細に考えられ、また、粘りづよくフォルムを支える。半音を移動して解決的な和音をつくるだけで、こんなにも厳しく打鍵しなければならぬのかというほどに、彼は慎重に弾いていく。そして、それだけのことで、一見して柔和な旋律しか見つからないこの楽章が、鮮やかな構造のうえに悠々と筋立っていく。その筋は終楽章と密接に関連し、ロンドーの骨組みを為していくのである。

【第1楽章の重苦しさに支配された14番】

第14番も、まるでいちども聴いたことがない作品のように新鮮な味わいであった。特に、アダージョ・ソステヌートの第1楽章の重苦しさが、全体を支配している。多くのピアニストは、こうした重苦しさから作品を救い出すために、さまざまな苦労をしているし、また、それが人間的で、良いことだと信じ込んでもいるようだが、リルの演奏を聴けば、そのような希求は、ベートーベンの作品を絶望的に歪めることでしかないことに気づくのである。リルの演奏にはどこにも逃げ場がなく、しかし、死などは夢にも思い描きようのないような健全な精神があるばかりだ。我々は、その沈痛なスピーチに俯いて聴き入るしかない。

アレグレットの、明らかにスケルッツォという形式の活き活きとした表情を利用した軽快さも、このような重みの支配から逃れるための鍵とはならない。そうさせないというべきだろうか。ゆったりしたテンポ設定の節々に、私たちはいま聴いたものの印象を知らず、すり流していることに気づく。そして、もちろん、その延長線上にプレスト・アジタートは来ているのである。リルらしく、このプレストの速さ自体はさほど強調的ではない。アジタートは、もっとオブラートに包まれている。いわばこうした楽想を捨てることで、リルは作品の奥底に潜む感情の厳しさに光を当てようとしているかのようにもみえた。

リルはこの作品の、最初の楽章の重みによって全体が決まってしまうことに、作品のもつ運命論的な位置づけをみているのであろう。

【至芸が表れた第13番の演奏】

もう1曲、8番と14番の間に、リルは変ホ長調の第13番を挟み込んだ。この作品は同じ「クアジ・ウナ・ファンタジア」で、第14番とともに、(op.27)の2曲を構成するので自然なプログラムであろう。リヒテンシュタイン公爵夫人に献呈されたという故事を思い出させるように、第3楽章の途中までは平易な書法で書かれ、技巧的な部分も隣りあった音符を順に弾いていけばよいので、見かけほど困難ではない。こうした作品は退屈で聴いていられないものだが、実は非常に味わいぶかい展開がぎっしり書き込まれており、それを巧みに引き出せるピアニストは多くない(数少ない成功例:例Ⅰ=D.チアーニ/例Ⅱ=C.アラウ)。

特に、この曲の第1楽章のアンダンテ-アレグロ-テンポ・プリモをいかに味わいぶかく弾くかによって、演奏の出来も大方はきまってくる。この部分における呼吸の柔らかさと、表現の多彩さが、結局は、全体のフォルムのなかに位置づいていくのである。リルの場合は、これまで書いてきた作品と同じように、たっぷりとした呼吸感と、そのなかに息づく響きのクオリティがきわめて高く、それだけでこの序盤の演奏を一気に凝縮してしまう魔法が素晴らしかった。第13番ではどの曲よりもハッキリと、リルの身につけた至芸が表れていた。

【まとめ】

もっと書きたいこともあるが、このあたりで中締めとしたい。ジョン・リルというピアニストを聴いて、なにか受け止めきれないぐらい強い刺激というものはなかった。しかし、それはリルの表現に甘いところがあって、感動的な演奏でなかったからではなくて、もともと、そうした刺激とは無縁のピアニズムをもった音楽家なのだということを意味するのであろう。シンフォニックなセンスをもつ演奏家は、大抵、相手に思いも寄らぬ打撃を与えて打ちのめすことが成功であると考えるような人もいる。一方で、音楽を聴き手との間で共有可能な、コミュニケーションとして考える人たちも少なくない。そうしたセンスによる音楽では、大きすぎる刺激はむしろ、すべてをぶち壊しにする。リルの音楽は重く、腹に来る。実際、私は腹が痛くなったものだ。しかし、その刺激は快く、私のこころのなかに位置を占める。リルの演奏は大凡、そういうものであった。

彼の演奏で、「皇帝」が聴ける札幌の人たちのことをうらやましく思う!

とても素晴らしい・・・下品にも、言い触らしたくなるような体験であった。なお、すべてを出しきったということなのか、アンコールはなかったが、名古屋を皮切りに4日連続の公演であるから、無理もあるまい。チッコリーニよりもずっと若いとはいえ、リルは1944年生まれだ。60代の後半である。とはいえ、トリルに若干、キレのない部分があったりしたものの、まだまだガタは来ていないようであった。

以前はよく来日もしたそうだが、その記憶も十分に浸透しているとは言いがたい。武蔵野文化事業団による「民業圧迫」のせいか、客足も分断されたというべきか、この日の客席には空席も目立った(単に火曜ソワレの集客の難しさが原因だろう)。それに、この日のようなポピュラー路線よりは、後期のソナタのほうに魅力を感じるファンも多かったかもしれない。現に、私もそう思っていたクチだ。しかし、結果的には、こちらの公演こそが、私にとっては魅力的だったと思えるようなコンサートだった。いずれにせよ、今後、粘りづよく浸透を図れば、チッコリーニのような成功が見えてくる日もちかいのではなかろうか。それだけのものをもった、本当の巨匠であるのだから。

【プログラム】 2012年1月31日

1、ベートーベン ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
2、ベートーベン ピアノ・ソナタ第13番「クアジ・ウナ・ファンタジア」
3、ベートーベン ピアノ・ソナタ第14番「月光」
4、ベートーベン ピアノ・ソナタ第23番「熱情」

 於:東京文化会館(小ホール)

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コメント

私も1/31のコンサートに行きました。
とても幸せな時間を過ごしました。
今でも時折、頭の中で、リルさんの悲愴の2楽章が鳴っています。
そのたびに、コンサートの感動がよみがえってきます。

カズさん、ご感想ありがとうございました。

悲愴の緩徐楽章は、リルさん以外にはあり得ない演奏だと思いますね。ほかの人がどれだけ尊敬して、真似したとしても、うまくいくとは思えない。

あのときの会場の雰囲気も含めて、私としても、いまでもハッキリ思い出すことができるような印象がありました。

初めまして。先々週、NHKのBS3でリル氏のリサイタルの放送を見ました。ベートーヴェンのピアノソナタ29番と31番です。まず、容姿が素敵ですねぇ。重ねた歳が少しも老いという哀しいものになっていないところも、それが経験と品格になっているところも…演奏にも同じ事が言えました。若さで力強くばかりが良いわけではありませんものね。こちらの記事を読ませて頂いて、我が意を得たりという気持ちになりました。アリスさま、ありがとうございました。

mikiさん、ご投稿ありがとうございます。私は奇しくも音を顔に譬えましたが、まず容姿が素敵というテレビ的な発想を面白く感じました。自分には、そうした面での感性が著しく欠けております。もちろん、結構なご感想でありましょう。ご指摘に感謝します。若さで力づよく・・・は、もう最近はついていけない。自分はまだ30代ですが、振り返ると、ここのところ、聴いてきたピアニストは爺ちゃんばっかりです。

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