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2012年2月 6日 (月)

須藤慎吾 & 光岡暁恵 & 小山陽一郎 ヴェルディ リゴレット 小空間オペラ @はなみがわ風の丘ホール 2/5

【特殊な空間での奇異なる体験】

とても、奇異なる体験だった。オペラというのは所詮、箱庭の出来事にすぎないと思う。東京文化会館の5Fから見下ろしてみたまえ、あそこは良いホールだが、正に箱庭で人形が踊っているにすぎないように見える。ところが、はなみがわ風の丘ホールでは、それが原寸大になる。正に、リゴレットやジルダ、マントヴァ公が私たちの隣にいるのだ。レトリック抜きに、隣にいる!

要は、小さいということだ。このホールはホールといっても、自治体がカネをかけ、ゼネコンが作り上げたものではない。民家の2Fをぶち抜いて、スタジオにしたというだけのことだ。金持ちの道楽か。しかし、それだけではできない施設のようにも思う。私の狭い経験のなかでも、こういう体験は何度かあった。例えば、千駄ヶ谷にある二期会の練習スタジオや、ピアニストの山田康弘氏が民家を改装して「バッハ・アカデミー」と称している場所で音楽を聴いたこともある。こちらは公営だが、日暮里のサニーホールというのも狭い。しかし、ハードは似たようなものでも、ソフト面でこのホールは確かに「オペラハウス」と自称しても嘲笑できない実質がある。運営はアマチュアでも、それがなんだろう。この「劇場」は、なにか奇異なる体験を観客に与えることができるのだ。

オペラとは箱庭の出来ごとに、私たちが人生を重ねるドラマだ。イタリア人たちはベルカントという技術を発展させることによって、その箱庭のキャラクターたちを観客の隣に座らせる素晴らしい方法を思いついた。この技術によって、私たちはオペラのうえで考え、嘆き悲しみ、そして喜び、ときには彼らの君主や支配者たちを嘲笑うという自由を得たのだ。しかし、その間の距離は、時代を経るごとに遠くなっていった。ベルカントが廃れ、劇場でのコミュニケーションは、表面上の社交にすり替わっていったからである。このような事態に、ブーレーズは荒っぽくも「劇場を爆破せよ」とアジテートしたが、その真の意味は大抵の人には理解されなかった。現代作品を扱えば、彼の批判がかわせるわけではないのである。

風の丘ホールの提起するものは、もっと深いコミュニケーションだ。そこでは正に、キャラクターが等身大で声を出すだけではなく、普通であれば、せいぜい箱庭のキャラクターを隣に感じることぐらいしかできないオペラの、その内側から作品をみるような鑑賞ができる。響きは超のつくデッドであり、そのため、アジリタ自慢には向いていないだろう。だが、そういう面ではないところで、私たちはヴェルディを感じることができた。イタリア・オペラの虚飾をすべて取っ払ったときに、この作品になにが残るのかということである。

このような「劇場」で歌うことは、歌手にとっては大きな喜びであると同時に、底知れない恐怖と不安を感じさせるであろう。そして、技術もこころもない歌い手はもちろんとして、技術ばかりあってこころのない歌い手も、多分、観客の称賛を得られない。むしろ、こころばかりあって技術の伴わぬ人のほうが、ずっとマシである。この場では、こころこそがすべてなのだ。

【マントヴァ公への見方が焦点に】

まして演出など問題ではないが、この公演を監修した岩田達宗の演出は、そのこころに焦点を当てたものであるようだ。むしろ、それ以外はなにもしなかったというのが正解ではなかろうか。そして、この演出家のことをよく知るわけではないが、この公演から見える限りのことを述べるならば、岩田の演出というのは彼のみが高い見地に立って、歌手を「指導」するというわけではなく、歌手が思っているイメージを無理なく引き伸ばし、もっと自由に羽ばたかせるという手法によっているように思えた。もしも、そうでなければ、あれほど見事に女性の視点を組み入れることはできないはずだから。

この『リゴレット』というオペラは、私のような論じ手にとっては実に突っ込みどころの多い、つまり、論点の豊富な作品である。例えば、ヴェルディ作品を常に支える運命論について、あるいは、この作品が常に1対1の関係のなかで進んでいくこと、あるいは、愛をめぐるイメージの多様さや齟齬についての問題、リゴレットの過ちがどこにあったのかという問題、それに関する宗教倫理的な視点などがそれである。また、この作品の裏に隠れている様々な問題について、例えば、リゴレットが(道化になる前に)もともとどういう男であったのかという問題や、ジルダ誕生の秘密などについて、私たちはいくらでも話を盛り上げることができる。マントヴァ公にしても、ただの好色漢というには奥行きがありすぎるのではなかろうか。

しかし、今回の上演に関しては、あまり動きのとれない演出的制約のなかでも、マントヴァ公に対する見方が最大のテーマになっているのは疑いもないことだ。結論からいえば、私たちは女たちの意見を入れて、「このワガママな領主も、意外に見どころがあるのかもしれない」というところに行き着くはずである。

男性的な視点でみれば、公爵がジルダを裏切り、女たちを裏切り、ワガモノ顔で領民をクイモノにする姿は、明らかに醜い。リゴレットはその姿を見せて、ほれ見たことかと、ジルダに現実を理解させようとするのだ。ところが、ジルダはそれでも公爵の真実の愛を疑いきれずに、ついには、彼のために死のうと思い立つ。また、手練手管に染まったマッダレーナでさえ、公爵に何らかの高貴な人間的価値を見出している。殺しの報酬よりも、ずっと高い値打ちがあるといって、あくまで仕事の対象でしかないと主張する兄に抗弁するのだ。普通、我々男性は、そうした意見を男の魅力にほだされた愚かなオンナの性としてみるものであろう。

ところが、今回の演出ではそうではない。なにか目につく象徴が、そう指示しているわけではないのだが、むしろ、そのことが我々の実感に自然と息吹きを与えるのである。特に女性「2人」の証言と、マントヴァ公の歌唱に秘密があるのかもしれない。私は明らかに、リゴレットによるあからさまな指摘にもかかわらず、公爵に対する共感を抱いた。象徴的には、第2幕冒頭の公爵のレチタティーボとアリアに、ハッキリと真実を感じる。小山陽一郎の歌が、冴えに冴えたのはここである。ここが引き立たねば、すべては成り立たなかったろう。もちろん、これは舞台全体で作り上げた結論なのだ。リゴレットは一貫して、その意見に与しないし、直後の公爵にとって楽天的な展開は彼の真実を奪いかねない。リゴレットは公爵に対してもっとも懐疑的であり、その人間性を根本的に信用していないようだし、公爵の真実は危機にさらされるだろう。しかし、我々は憶えている。そのときの印象を。リゴレットと同じ意見にはならない。決してならない! そう仕向けられているのである、見えざる手が、私たちをその場所に導くからだ。こうして私たちは、演出家の思うとおりに考えるというわけである。

【2つの真実の愛がぶつかりあう運命】

だが、もちろん、リゴレットに対してもつよい共感を抱く。確かに、彼はいくつかの過ちを犯す。その代償は、彼自身が引き受けねばならぬし、皮肉なことに、何の罪もない娘こそが最大の代償を払う。しかし、彼の思い描く真実には、それ相応の値打ちがあるのも事実だ。男性的にみて、リゴレットの判断はまったく誤ってはいない。公爵は最悪で、相手が相手ならば殺しという手段も非難はできない。だが、そればかりが正しいという証拠もない。岩田は結局、このような値打ちにすべて耳を貸す。こちらが正しいから、あちらは退けるという「判断」がないのだ。オンナたちの見方も、決して退けることはない。

演出家はしかし、「判断」を誰かに委ねたのではないのだ。むしろ、判断ができないというところに、この劇の焦点があると言っているのだ。リゴレットが犯した一番まずい罪といえば、公爵への判断を早まったことである。そして、娘の判断をまるで子どもじみたものと決めつけて、不確かな証拠を確かな証拠として見定めてしまったことだ。ここに、岩田はさりげなく1つのテーマを入れている。恐らく、それはリゴレットの嫉妬である。途中から・・・具体的には、モンテローネが刑場に引かれていくのを見たときからだ(実際にはモンテローネが裏から歌うだけだった)。リゴレットは娘を守るという大義名分から離れ、ここで「復讐」が自己目的化する。演じる須藤の顔には、彼こそが子どもじみた熱狂を浮かべているような表情として、それが浮かぶ。さりげないが、効果的な演出である。

この作品において、どこからどうみても、リゴレットこそがあやしい存在だ。父娘といっても、実際にどんな関係かはわからぬ。3ヶ月前に、ジルダは彼の傍に来たらしいが、それ以前はどうしていたのか。それだけではなく、エルザに禁問するローエングリン(この作品の1年前に初演された)のように、リゴレットは娘から尋ねられた当たり前の質問を封じている。もちろん、彼がローエングリンのように神々しい存在でないことだけは確かだ。そして、娘の外出を禁止し、自宅内に押し込めておこうとする。阿呆の職分とはいえモンテローネを笑いものにし、殺し屋を雇う。そのくせ、極度に呪いを畏れる。このような人物を立派な狂人に見立てて、演出するのはもはや当たり前である。しかし、岩田はそれさえも退ける。

やはり、彼はオンナの証言を信じようとするからだ。たとえリゴレットの行為に異常性が認められるとしても、ジルダはふかく父親を信用しているではないか。岩田は、そのことにも真実があるとみているのだろう。

つまり、彼の見方を突き詰めていけば、ジルダの問題は、マントヴァ公とリゴレットによる2つの真実の愛がぶつかりあったことの帰結なのである。公爵の愛は清らかなジルダに接しても未だ幼く、また、リゴレットにいかなる下心があったにしても、各々の愛が真実であると認めることによってのみ生じる抜き差しならない関係こそ、岩田の見つけ出した歌劇『リゴレット』の本質であるという事実は動かない。このイメージを、全員で作り上げようとする舞台だったと結論づける。

【感情の爆発は最後に凝縮】

もうひとつ、今回の舞台を特徴づける大きな特徴となるのは、終結に向かって、ドラマが段々に凝縮していくというドラマトゥルギーのつくり方である。西洋人は最初に結論を述べてから語り出すのに対して、日本人の論述は、序論から段々にロジックを積み上げて最後に主張が来ると言われている。然りであろう。ましてやイタリア・オペラともなれば、結論は次々に襲い掛かり、クライマックスは何度も、ゆたかに表れるのが普通である。この作品でも序曲のあと、楽天的な公爵の華やかな登場、モンテローネの呪い、リゴレットによる「2人は同じ」、ジルダによる「お慕わしき方の名は」、公爵の熱い口説き文句、愛の二重唱・・・とひっきりなしにクライマックスが来るのである。

ところが、今回の上演では確かに各人のパフォーマンスは優れている。リゴレット=須藤慎吾、ジルダ=光岡暁恵、マントヴァ公=小山陽一郎を中心に、良い歌手ばかりが揃って最高の出来栄えだ。しかし、多焦点でマルチ・クライマックスを盛り上げるという手段は、敢えて採っていないように思われた。つまり、ブラーヴォ、ブラーヴァ、ブラヴィで、声の饗宴を楽天的に楽しめばいいという舞台ではない。それはやっぱり、箱庭の楽しみなのだ。後半はすこしフロアからの掛け声も増えたが、それはそれとして、私たちは依然として、この作品に内側から参加する権利を放棄しなかった。須藤慎吾が名立たるアリア『悪魔め、鬼め』を腹の底から響くこころの声で歌っても、それに対する称賛よりは、むしろ、その内側に客席の関心は注がれる、という感じだったのである。

もちろん、そうして引き延ばされた劇の焦点は明らかに、リゴレットが娘の死を確認し、須藤が物凄い形相をつくるフィナーレに来ている。ここで、私たちは最初で最後の、ガツンとした感情の動きを感じた。少なくとも、私はそうだったのだ! そして、これもまた、岩田と歌手たちが周到に仕組んだことなのにちがいないと思える。リゴレットは、ここで「運命」という言葉を叫ぶ。ヴェルディ作品に、いつも横たわる神の意志だ。しかし、既に述べたように、それは2つの真実の愛がぶつかったときに生じる、悲しい必然である。リゴレットが、須藤があそこで背負ったものは、正にそのすべてなのであった。

【歌手たち】

歌手たちは、この舞台のために、相当の集中力を割いた。第2幕の最後、復讐を固く誓って階段を下りていくリゴレットを、必死の形相で追う光岡の演技など、只事とも思えなかったものだ。藤原の本公演においては『ルチア』で大成功を収めた歌手だが、すべての瞬間で素晴らしいとは言わない。高音のテクニカルな部分で、ホールの響きが使えないせいか、感情がなくなってやや表現が硬くなったのは割り引くとしよう。しかしながら、役にぐっと没入し、しかも、かなり冷静なコントロールで表現をつくっていくセンスには感心する。第1幕の清純さと、第2幕以降の姿はまるでちがうし、その変容(声と表現)のあり方も見事だ。この舞台にもっと慣れれば、適切な歌い方を見つけて、表現がぎっしりと凝縮していくはずだ。

その点、小山はここの監修もしているだけあって、よく心得たものだ。風の丘ホールで何回、歌ったのかは定かでないが、この舞台の生かし方をよく心得ているように思えた。公爵のもつ余裕が、彼の歌のなかにすっかり表れているのだ。ただし、いわゆる「女心の歌」だけはストレートすぎて、公爵の持ち味が立体性を帯びない。

声にまったく隙のない須藤は、どんな舞台であろうと決してアラをみせない安定感のある歌い手だ。今回の上演でも、須藤のパフォーマンスは実に逞しかった。なお、須藤と光岡は『ルチア』において、エンリーコとルチアの兄妹役で共演済みだったことも付け加えておく。

端役のほうは、ひとりで2役、3役をこなす工夫をしているが、それは全然、違和感がないようにしていた。マッダレーナ=ジョバンナ=チェプラーノ伯爵夫人の3役をこなした向野由美子はともかく、スパラフチーレ&チェプラーノ伯爵を演じた小田桐貴樹、モンテローネ伯爵&マルッロを演じた大川博、さらに、ボルサの笹岡慎一郎あたりは知らない歌手だったが、穴のない歌唱と演技で脇を固めている。向野は以前に聴いたときと比べて、格段に声が熟し、素晴らしくなっていた。

瀧田亮子のピアノ伴奏も、まず不満を抱かせるようなものではなく、歌手たちのパフォーマンスをしっかりと支える。

【まとめ】

最後、この「劇場」のマダムが涙ながらにコメントしたのには、私としてはすこし可笑しかった。これは、微笑ましいという意味である。キリスト教では重要な「12」という数字。さらに、このような公演を始めるきっかけになった岩田達宗の演出による上演にも漕ぎつけ、「今回のリゴレットは集大成」と述べるなど、まるで「これが最後!」という雰囲気の演説でもあったが、すべてのコメントを総合的に判断すると、そういうことではなかったようだ。明らかにアマチュア的な運営であり、手伝ってくれるスタッフもあんまりいないようにみえたので、苦労は推して知るべしだが、これだけのものをつくれるバイタリティには敬服する。マダム! どうぞ、プロのカンパニーに負けない良いものをつくりつづけてください!

つよいアイデンティティと、鋭いセンスを感じる舞台、たった85席で見るにはもったいないと思われた。新検見川は東京から近くはないが、幕張と千葉の間で、自動車の便は良さそうだ(ただし、民家なので駐車場がない)。あと2日間、10日と12日にそれぞれ公演があるので、これはつよく推薦したいと思う。というよりも、やっている本人たちこそが、次の本番を楽しみにしているのではなかろうか。そういう舞台こそが、面白いのだ!

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