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2012年2月10日 (金)

ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ②

【錦織佳子の奇特な才能】

すべての音楽家と演出家と舞台関係者は、そのプロダクションが良いものになるようにと最善の努力をして、オペラをつくる。それなのに、残念なことだけれども、その成果が正当に実を結ぶのは数少ない公演だけだ。良い歌手をたくさん集めて、名のある演出家に舞台づくりを頼めば、素晴らしい公演になるというわけでもない。しかし、センスの良いつくり手によって、丹念につくられたものはそう簡単に揺るがないのも確かだ。そういう意味で、このJBSの振付家であり、舞踊指導家でもある錦織佳子は、実に奇特な才能をもっているようであった。

ラモーのつくり方と同じように、錦織もいくつかのミルフィーユ構造で舞台を組み上げている。メルヘンティックで、幾分、子どもじみた幻想性がベースにあるが、その一方で、とても冷徹な澄みきった視線がいつもどこかに働いている。バレエのコリオグラファーとはそういったものなのか、新国のビントレーにも同じようなことを感じる。彼はよりプロフェッショナルなセンスをもち、明らかにインテリジェンスが高いが、錦織の場合はより鋭い感性で、良いものをきっちりとつかみ取っていく感じがある。そして、深く作品にのめり込んで、その内側から作品を解剖していく繊細さは変わらない。

2人に共通するのは、作品が語るどのような面にも、同じような厚みを感じることができるということである。この面は下らないが、ここは意義深いというような差がないのである。例えば、ペンギンをみて単純に愛らしさを感じることと、その生存が脅かされていることへの視点は、まったく同価値に扱われる。そして、それらの異なる視点を同時的に、ミルフィーユを噛みしめるような「構造」、もしくは「歯ごたえ」で感じさせることにより、作品のもつ深いテーマ性を親密な実感として受け止めさせることこそ、彼らの真骨頂なのである。

【歌手たち】

錦織はこの作品の演出・振付では、ラモーが仕組んだ風刺性や政治的な配慮、作品のもつ文学性といったものについては、表向き、なにも関心を示していないようにみえる(あくまで表向きのことだ)。観客は大体、武井の演じるカエルの女王の愛らしさや、健気さに、感動していればよいのであって、さしあたって、それ以上のことを考える必要はない。実際、この作品の音楽もそういうものであって、動物や鳥たちの声がきれいに模され、大昔、娯楽のない農村で教会のオルガニストが担ったような役割が非常に効果的に用いられていた。また、性格描写を豊富にして、等身大のキャラクターを感じさせることに腐心したこともよくわかる。具体的には、レチタティーボの歌い方がきわめて活発で、ポップである点が特徴的であり、その方法が特に嵌まっていたのは題名役の武井であるのは言うまでもないだろう。

だが、ほぼ全幕を通じて登場する新津耕平や加藤宏隆も、その点では決して負けていない。特に新津はハイ・テノールの高音発声に特長があるが、私はそれよりも、言葉のアーティキュレーションというようなものに感心すること頻りであった。彼の発する言葉には不思議と要所に引っ掛かりがあって、そのことで、言葉がスッキリと身体のなかに入ってくる。しかも、彼の役回りはプロローグとそれ以後で変わっており、プロローグではその当時のロック歌手のようなものであるテスピス役として、朗々と歌っていればそれでよいが、第1幕以降はジュピテルの使者、メルキュール役となるので、今度はレチタティーボが主体となり、役割はストーリー・テリング(狂言まわし)が主になるという感じである。このような変化をつけながら、常に声の魅力を保ったのは立派で、歌唱についてはこの日、いちばん印象的であった。

題名役は常に出続けているが、こういう脇役に乗せられて輝くという感じのキャラクターでもある。

第1幕では彼女の侍女、クラリーヌのアリアが単独でわりに有名なのであるが、だからというわけではなく、女王と周りのものの関係を探る上でも、これはとても重要なナンバーだと思っている。これを小倉麻矢というソプラノが、正にみずみずしく歌っていた。こういうのが細かく、上手に決まっていくこと頻りの舞台であった。フォリー役の唐澤まゆ子はレザール・フロリッサンの公演に出演し、アン・デア・ウィーン劇場の舞台にも立ったような歌手であるとはいえ、決して彼女だけが目立つということもなかった(ディクションはやはりもっとも自然だが)。ソプラノというけれども、中音域の厚い声質に特徴あって、メゾにちかい声質も有していた。歌手陣はなべて素晴らしく、個々よりはアンサンブルに拍手を送るべきだろう。

【フォリーにみるラモーの風刺】

それにしても、唐澤の演じたフォリーという役は、この劇における風刺の神であり、ラモーの分身でもある。筋の流れにはほとんど関係なく、主要なキャラクターを茶化したり、そのなかで、内側から作品の提示を試みる役割を演じている。この作品の面白さのひとつは、ラモーが作品をつくりつつ、その先からタネや仕掛けをさりげなくばらしていくところに求められるのではなかろうか。

フォリーのところ以外では、後半、音階を順番に上昇していくような部分があり、ここでラモーが自らの用いた音楽の基本的な構成要素を示しているのは間違いない。また、さりげない台詞のなかには、この作品の隠されたテーマである平和や和解、それに、ラモーの創作美学のようなものが随所に散らされている。そのなかでも、フォリーは自ら歌い、あるいは、音楽(管弦楽)を動かすことで、その役割を象徴的にこなしているのだ。今回の舞台ではダンサーが上手について、フォリーの役割を補足するような形にして気が利いていた。

ちなみに、フォリーという言葉は、愚か者とか戯れ言といったような意味であるようだが、ここで道化まわし=阿呆の役割を演じているのはみたとおりである。シェイクスピアでは悲劇的な暗いユーモアを示すところだが、ラモーの道化は明るく、芯がつよい。このような役回りを颯爽と歌ってしまっては、味わいも半減だ。唐澤はその点で、役柄をうまく崩して、かつ、クールに演じきったという感じがする。

【ピースの組み立て】

ところで、これは「青いサカナ団」の公演などについても言えることだが、良い公演では、歌手の技量の凸凹というのはそれほど気にならないものだし、それよりはよく役柄が理解され、そのキャラクターに愛情(=実感)をもって演じられているかという点で印象が決まる。バレエにしても、彼女のスタジオのいろいろなレヴェルの子が出ていたが、その技量は技量として、その場で自分が果たさなければならない役割というのが、大抵、よく果たされていたのである。こういうピースを上手に組み立てたのは、無論、錦織のプロデュース力のなせる業であったし、よく相手を知っている(把握している)ということでもあったろう。

【演出的機動性の高い美術】

美術的にも、錦織のセンスは非常に良い。オペラということを強調しているが、舞台装置等は、やはりバレエのテイストがつよい。ただし、これは肯定的にいっている。このメリットは空間が広く、フレキシブルに使えるということである。それを利用してのテンポの良い演出が可能であり、歌の部分とバレエの部分とが切れ目なくつながって、ラモーの音楽に相応しい印象を与える。キビキビとした人の動かし方は、コール・ド・バレエの指導などで培ったものであろうか。

第1幕は背景に丘の連なる秋の田園風景。前面はさほど装置をおかないが、登場人物は人間というよりはニンフであり、半数は角をもっていて牧歌的な感じがすることで、装置なしでも背景にうまく対応している。沼の場は薄暗くじめじめしているが、不気味さはなく、ぎりぎりアーティスティックに感じられることで、プラテーの親しみやすさを増している。女王の赤いマントを侍女たちが何人かでもち、開けたり閉めたりして音楽の伸縮と合わせ、コミカルにプラテーの魅力をアピールするのもポイント。カエルたちがもつ蓮の葉は、見かけの愛らしさもさることながら、さわさわとした響きが素朴で、とても魅力的。プラテーの傘もチャーム・ポイントで、女王の威厳ある姿から、普段着風の親しみやすい姿への早変わりなどは、いかにもバレエ的な発想だが効果的だった。

薄幕をおろして、ステージ中央に丸いスポットを当てつつ、さらに、さざ波のような映像を薄く投射すると、2Fからはまるで緑色の水が舞台上に湛えられているように見えて幻想的である。ジュピテルの雲は思いきって大きくし、なんとなく歌舞伎の装置のようなデフォルメが面白い。終幕は、プロローグで用いた荷車が花で飾られ、祭壇となっている。最後、プラテーが王を呪うところでは赤いライティングが用いられた。すべてセンスよく嵌り、見るものを飽きさせず、しかも無駄がない。新国のオペラの演出より、はるかに気が利いていた。

【衣裳】

衣裳、ステップなども自由な発想に基づいており、例えば、骨組みを減らしたフープ・スカートを足もとまで垂らし、中途半端な動きで回し踊るようなコケティッシュなダンスは印象的である。こうした選択は結局のところ、コリオグラファーと観客の間に、そのセンスをめぐる対話を生じさせるものだが(クラシック・チュチュを着せていれば、そのような議論も起こり得ない)、大体においては錦織のアイディアは、観客のもつアイディアを良い方向に刺激するであろう。

【管弦楽】

さて、武久源造のもとに集ったメンバーは、バロック・チェロの懸田貴嗣など9名である。名フィルにも所属するバロック・オーボエのジル・ヴァソンなどはいくつかの仕事を断って、この公演を優先したというはなしだ。この演目でオーボエは大事な楽器なので、貴重な戦力だったはずである。武久はコンティヌオではなく、専門外のパーカッションを担当したが、いくらマルチな彼であっても、さすがに打楽器は難しかったようだ。しかし、アンサンブルは急造にもかかわらずまとまっており、大体において申し分なかった。

【まとめ】

こうして見たきたように、すべての要素で及第点以上に達しながら、しかも、それぞれが狙い通りに嵌っている奇跡的な舞台であった点を特筆したいのである。

前の記事で述べたような先陣をきる素晴らしさだけではなく、こうして高いレヴェルで公演を成功させたことこそが、彼らにとって真の誉れなのだ。この舞台をみた人たちは、次にラモーの作品が舞台にかかるのを楽しみに待つだろう。残念なことに、その機会は待っても待っても現れることなく、再びこのバレエ団に期待するよりほかにないのかもしれぬ。だが、少なくとも人々は学んだ。オペラとしても、バレエとしても、これほど活き活きとして、こころ躍るようなドラマは、ラモー以外にはなかなかあり得ないではないか! そのことを実感させる舞台をつくったことが、この舞台が成功したことの何よりの証拠なのだ。

素晴らしい公演に、惜しみない賛辞を贈りたい。

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