2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 悲しみの2012年/初春~クラシック音楽家の訃報まとめ記事 | トップページ | ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ② »

2012年2月 9日 (木)

ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ①

【快挙!】

フランス最高の作曲家と問われたときに、ラヴェルやドビュッシー、フォーレに加えて、リュリやラモー、クープラン一族の名前が出ることは、欧州では、もはや当たり前のことだ。ラモーはバロック時代でも最高の華であり、音楽家や歌手にとって、その歌劇を上演することはとても楽しみなことだし、演出家の腕のみせどころでもある。同時に、観客が必ず喜ぶようなドル箱企画でもあるのだ。日本にも、パリ・シャトレ座で上演されたエルヴュー&モンタルヴォの振付・演出による歌劇『レ・パラダン』が持ち込まれ、ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリッサンの伴奏によって華々しく紹介されたのは記憶に新しいところだ。これがざっと5-6年程前のことだが、それ以後、ラモーの舞台作品が私たちの目に広く触れるような場所で上演されたことはなかった。

しかし、寡聞にして知らなかったが、2007年に、このジョイ・バレエストゥーディオ(以下、JBS)はバレエ公演として、カットを入れた特別エディションながらも歌劇『プラテー』を舞台にかけたことがあったそうだ。その後も新国立劇場はもとより、二期会、藤原歌劇団、古楽団体などにおいて、ラモーの舞台作品が上演されることはなく、今回、このやや唐突なオペラ公演が生まれるきっかけになった。チェンバロ奏者で古楽器製作家の武久源造を音楽監督に迎え、歴としたオペラの版に戻し、古楽器は初演のヴェルサイユ版にあわせた低いピッチで調律するというこだわりまでみせて、公演に適当な箱も見つけた。渋谷区文化総合センター大和田のなかに入っている「さくらホール」である。

このような魅力的な作品が、選りにも選って、そう大きい組織でもないプライヴェーターのバレエ教室の主催で上演されることは驚きであり、快挙でもあり、また一面では、音楽界にとっての恥であるのかもしれない。しかし、結論を先に申せば、一部に著名なプロ奏者や歌手を含むアンサンブルも含めて、公演は大成功した。ブラヴィーではすまない。ブラヴィッシモだ!

【シンプルで素朴な舞台、ユニヴァーサル・デザイン】

ラモーの魅力は欧州ではもっと誇大的に、派手に強調されている。政治と歴史の問題はあとで書くかもしれないが、この作品はルイⅩⅤの太子となるブルボン王家のルイ・フェルディナンと、スペイン王女のマリー・テレーズの婚姻に際して、その祝典のために、いわば余興としてつくられたものである。その後、パリのオペラ座に移って、より甘みのあるレパートリー作品として上演が重ねられた。今日、ミンコフスキあたりが元気いっぱいに観客を楽しませているのは、多分、そうした版である。一方、演奏や歌手のレヴェルの問題もあるにはあるが、今回の舞台はより上品で、シンプルだ。当時の人たちは笑い転げたにしても、現在の我々からみると、なかなかに苦みもある心理劇としての味わいがある。一方、表面的にカエルの歌や、動物たちの出現、あるいは、わかりやすいコケティッシュな劇に目を輝かせるのも悪くはない。

きっと、ラモーはそういう風にして、幾層もの楽しみ方があるミルフィーユをつくってみたのにちがいない。2人の結婚はルイ王太子が先にポーランド王の娘を選んだこともあって、冷えきっていたフランスとスペインの関係を取り戻す意味をもっていた。それに絡めて、ラモーは浮気者のジュピテルがジュノンと仲直りするテーマのリブレットを用意した。これは、いま書いた2人の図式にぴったり来る。だが、それにしては、あの愉快な沼の女王、カエルのプラテーは何なのであろう。彼女が自分を騙したギリシアの王を呪う場面が、最後である。確かに、お決まりのバレエ音楽を入れて、最後はシャンシャンと締めている。だが、カエルの女王の呪いは?

まあ、そのことについては、今回の上演ではまるで解釈していないので、これ以上、首を突っ込むことは避けたいと思う。

子どもたちもたくさん通うバレエ・スタジオの公演ということで、そのうち、コケティッシュな部分が強調されているのは当然であろう。しかし、ユニヴァーサル・デザインというべきか、これを徹底することによって、より知的レヴェルの高いところを要求する観客(私のことではないかもしれない)にも上演は十分に応えていた。プラテーは言ってみれば、夫婦関係修復のためのダシに使われるわけであるが、彼女が選ばれた理由は第一に容姿が悪く、ジュノンの誤解を受けないということ。第二に、そのくせ高慢な性格で、騙しても罪がないということによっている。その第二の理由が本当にそうなのかどうか、疑問をもった人も多いことだろう。そのことについては、追って、考えを巡らすべきだろう。

【2つの世界】

それにしても、観客はどうしたって、プラテーに共感するのは当然である。私はこのプラテーのはなしを聞くと、多少、ディテールでずれるところはあるにしても、『源氏物語』の末摘花のはなしを思い出してしまう。いちども愛されたことのない女が、世間も羨むようなときめく人(今回は神)に求められるのだから、有頂天になるのも当たり前。しかし、同時にそのようなウマい話はないのも当たり前である。彼女は神さまと人間たちの犠牲になって踏みつけられる。このような構図から、大抵、観客はプラテーの醜さのなかに可愛さを、その悲劇のなかには同情を感じるものである。だが、私はもうひとつ重要なテーマがあることに気づいた。

それは、2つの世界があるということである。ヘーゲルの登場(ラモーより後である)、そして、決定的にはマルクス主義の流布以降、「弁証法」という言葉は「濫用」といってもよいほどに、世間へと広まった。その哲学的意味は私の得意分野でなく、説明は不可能としておく。しかし、要するに物事には2つの対立的な側面があり、それらが同時に考えられる必要があるということだと理解している。このことは既に、この劇のプロローグで暗示されているが(それはメナードとサテュロスの裏事情を暴くテスピスの『狂歌』を思い起こせばよい)、より決定的には第1幕が重要だ。ここではもちろん、プラテーの登場が最重要事項となるわけであるが、この題名役こそが、この劇の二面性を象徴していることは言うまでもないだろう。

つまり、プラテーはシテロンやメルキュールの言葉によって、沼に住み着く醜悪な人物(カエル)で、そのくせ勘ちがいも甚だしい高慢なオンナであると印象づけられる。ところが、確かに面白い格好で登場するものの、実際に歌い出したプラテーの姿は、高慢で近寄りがたいというほどのトゲはない。多少、自分に甘く、都合よく考えがちなところもあるにはあるが、それはすこしも悪意的には聴こえない。まずは、このギャップを感じなければならないのである。沼の住人たちは概ね女王になついており、高慢ちきで手のつけようがなく、人々を苦しめる者だという感じはしないのだ。

それどころか、女装+カエル風の姿で登場する武井基治について、私は初めからすこしも醜いとは思わず、一目みたときから、愛らしさを感じてしまったほどである。念のために言っておくと、私は意外に保守的な人間であり、オネエ・ブームみたいなものには反吐が出るし、「性同一性障害」は疾患などではないと感じている。それはそれとして、実際、はなしが進めば進むほど、その愛らしさは観客の共感を呼ぶにちがいない。第2幕最後のグランド・コンチェルタートでは彼女が「新しいジュノン」に譬えられるところで、その歓喜が頂点に達する。本来は婚礼の誓いのところに来るはずであるが、これはジュノンに邪魔されるから、この部分のカエルの合唱がプラテーにとってのクライマックスなのである。合唱の可笑しみもあって、既にプラテーは舞台の嫌われ者どころか、人気者になっているであろう。

今回の舞台では、武井基治がこの奇妙な役を思いきり爽やかに、衒いもなく上手に演じていて、余計に愛情は高まるばかりである。

【イタリア・オペラへの風刺】

なお、この役については、ラモーはカストラートを使わず、テノールに歌わせている。この作品では、明らかにイタリア・オペラへの風刺が入っており、それはフォリーのアリアでアジリタをとりわけ不潔に用い、歌詞のアイロニーに当て嵌めているあたりに象徴的に感じられる。ラモーの音楽は典型的なフランスの伝統に基づいており、声楽のアジリタは控えめに、感情表現などに必要なだけ多すぎずに用いられ、管弦楽の装飾にもその傾向は顕著である。アリアはあるが、ナンバー形式ではなく、ドラマ全体を籐椅子に座って本を読むような雰囲気で感じられるようになっている。フランスの音楽家たちは、イタリアから来た者たちが自分たちの音楽を理解するのは難しいだろうと感じていたが、正に、そのような視点がラモーの作品には顕著である。

【演出家唯一の見落としについて】

すこしはなしが逸れたが、「2つの世界」についてのはなしである。いま見てきたように、ギリシア王やジュピテルの使者からみたプラテーの世界と、実際に、彼女と接している者たちや、彼女自身の思い描く世界では、まったく同一のものではない。ラモーはこのメッセージを、何度も繰り返して表現している。そのことは、例えば、愛をめぐるジュピテルとジュノンのちがいという問題も含んでいるし、突き詰めていけば、人それぞれにちがう世界があり、それが結びついていくところにこそ、この世界の面白さも怖さもあるということが、こうして生々しく表現されているわけである。

私がひとつ不快に思っている場面は、プラテーのヴェールを剥いだジュノンが、彼女の容姿をみて爆笑する場面である。この和解の鍵となる重要な場面は、実は、もっと深く慎重に解釈されなければならない。この部分は先に述べたような世界が、はじめてぶつかり合うときでもあるからだ。あそこに響くジュノンの声は、実にえげつない。だが、私はあのえげつなさのなかに、ラモーは我々が生きていくのに必要な、物事の本質を詰め込んでいるようにも思うのだ。うまく言えないが、嫉妬ふかい英雄の伴侶の笑いは、決してプラテー自身に向けられたものではない。むしろ、彼女を騙した者たちに向けられたもの、ひいては、自分自身に向けられたものだったのではなかろうか。

その点に関してのみ、演出の錦織佳子女史の見落としを指摘することもできるだろう。しかし、あとはとても良い舞台だった。詳細は、次の記事に書く。

 (②につづく)

« 悲しみの2012年/初春~クラシック音楽家の訃報まとめ記事 | トップページ | ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ② »

舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/53942494

この記事へのトラックバック一覧です: ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ①:

« 悲しみの2012年/初春~クラシック音楽家の訃報まとめ記事 | トップページ | ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ② »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント