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2012年2月20日 (月)

アンサンブル・ノマド ジェフスキー カミング・トゥギャザー ほか 接触の様相 vol.3 「政治の季節~列伝風に~」 2/19

【ノマド?】

アンサンブル・ノマドは現代音楽(現代、もしくは、それにちかい時代を生きた作曲家たちによって書かれたレパートリー)を中心に、演奏とパフォーマンスを披露しているアンサンブルである。

「ノマド」という言葉は最近、結構、流行りの語彙のようで、Twitterのキーワード検索を使ってみてもジャンジャンとツイートが見つかるほどだが、世間に疎い私には違和感がある用法だ。これはフランス語で「遊牧」「漂流」といった意味になるそうだが、彼らはどうも組織や共同体からインディペンデントに、自分の能力だけを頼りに生きている人たちのことをそう言っているようである。ただ、そういうことなら、「アンサンブル・ノマド」にも相応しい言葉のように思えるが、それが1997年の設立時点で用いられていた語彙のイメージと一致しているのかどうかはわからない。

どことなくエリート意識に立脚した「自由人」のイメージを伴った現在の語彙は、単に「遊牧」「漂流」という状態に夢をみていたようなアンサンブル・ノマドの活動、クラシック音楽という農耕、あるいは工業的な分野から、より人間の五感に基づいた表現を探り出そうとする彼らの活動からみると、似て非なるものという印象を抱く。どちらでもよいが、アンサンブル・ノマドの取り上げる音楽ならば、私は大抵、退屈したことがないし、演奏と作品を通じて豊富な知的刺激を受けられることは請け合いである。

最初に言っておくが、私はそうした音楽を「理解する」というほど、音楽的な教養もなく、いつも書くように、私は高校の音楽の時間、ゲンシチだのナンだのということは全然、理解ができなかった人間だ。知的水準も、決して高くはない。言語は現代日本語のみをよくし、よって、楽天やユニクロには入社できないであろう。まあ、そんな会社には入りたくもないが、この日、使われたテクストもが完璧には理解し得ないというのは残念かもしれない。私はアーノンクール氏のいうパリ・コンセルヴァトワール的な音楽美学と、その作用に毒された怠惰な若者である。つまり、音楽の専門的修養に目を開かず、音楽を聴けば誰にでもわかるというものしか理解できない愚か者だ。しかしながら、愚者の見解にはすぎないが、以下の文章は結構、苦労して書かれたものである。

【古典から来た発想】

今回のノマドのコンサートは、「政治の季節~列伝風に~」と副題がつき、近現代史において、重要な政治的問題のなかで生き、あるいは、死んでいった「民衆のなかの英雄をたたえる」プログラム構成となった。そのなかでは、毛沢東(主義)。隠れ切支丹。東南アジアや中南米で大国・アメリカと向きあった民衆たち。イタリアのアナーキストで、反ファッショ運動を展開したフランコ・セランティーニ。キング牧師。そして、アッティカ刑務所の処遇改善に立ち上がった囚人たちといった人々が、音楽家の創造力の源泉となっている。また、前半はオマージュ的な内容がつよいのに対して、後者はそれらの英雄たちの悲劇から出発していることも注目に値するだろう。

演奏会は、ピアニストの中川賢一の弾き語りによるクリスティアン・ウルフ Christian Wolff の作品『アカンパニメンツ』(Accompaniments)から始まった。テクストは毛沢東主義に基づくヤン・ミルダールとグン・ゲスレルの著書によるということだ。まず、毛沢東主義への理解が低く、それに対する世界のインテリゲンチャのもつ見方もよく知らないので、この作曲家が何を言いたいのかはよく理解できなかったことを率直に申し述べておくべきだ。しかし、次のようなことは明白であろう。この作品はきわめて、古い時代からあった発想に基づいている。

突然だが、ニコラウス・アーノンクール氏がフランス革命以後の音楽を厳しく批判し、および、それを享受する聴き手のことをも批判するのは、一体、なぜであろうか。それはバロック期までに醸成された音楽的な教養をすべてうっちゃり、画一的な音楽美学に基づいた、画一的な音楽形式が発展したせいであり、それに無批判な人々が、音楽家の安易な発想を助長しているとみたからである。彼によれば音楽とは言葉であり、その修辞法が形式や定型的な(クラシックな)素材としてあるわけだ。音楽家はそれらを任意に選択して、文章を組み立てるようにして音楽を表現し、実際のパフォーマンスは演説とほぼ同じ効果をもつ。音楽とはその形式や規模に関わらず、パヴリック・メッセージであり、それを共有した音楽家と高度な知識を有する聴き手との対話にほかならないのであった。

今回、取り上げられた音楽はよく聴くと、どれもそうした発想に返ったものばかりではなかったろうか。だが、そうではあっても、これらの作品に、私はルイジ・ノーノの表現するようなあからさまな政治性は感じなかった。もっと素朴なのである。皆が当たり前に知っているような言葉が載るような音楽的フレーズでは、次第に言葉を省いてもそれがわかるようになり、それに対応した固有の音型がフィグーラとして共有された・・・というような穏やかさで、私には感じられた。最初の曲は特に、その典型的な例である。例えば、私でも知っている語彙 ’important’ という言葉に対してユニゾンにされたピアノが、p の部分で最高音を迎え、そのあとは言葉を真似るように響きが減衰していくのを聴いたとき、私はハッと思ったものである。

ウルフの音楽は多少、ブルースっぽいスタンスもあり、独特の雰囲気をつくっているが、クラスタ的な素材が複雑に組み合わされることで、ピアノの音型をテクストのもつ意味内容に当て嵌めていくという古典的な方法を採っているのも事実である。ただし、結果的にはアーノンクール氏の理想とは反対に、言葉は自殺する(アポトーシス)細胞のように自ら解体し、音楽のなかにすり流されていくのであった。テクストを読み上げて、それに音楽がつくというだけではつまらないと思っていたが、ウルフは見事に、私の懸念を乗り越えた。これならば、テクストの理解はちょっぴりで結構だ。それ以上に、音楽が語ってくれる。

なお、この作品は最後に演奏された作品を書いたフレデリック・ジェフスキー、マルクス主義や毛沢東主義に傾倒した作曲家(優れたピアニストでもある)のために書かれたもので、演奏会のプログラムは全体で、きれいなシンメトリカル構造になっている。

【ギリギリの状況のなかで】

そのジェフスキー Frederic Rzewski の作品『カミング・トゥギャザー』(Comming Together)は、この日、演奏された作品のなかでも特に強烈である。リンクの録音を聴いて、これを生で聴けるのは実に楽しみだと思ってはいたが、その期待を大いに超え、ノマドにとって、数年来でもっとも芯のつよい成功に至った演奏だったといっても過言ではない。上の録音も特別エディションだが、この日の演奏もノマド・スペシャル・ヴァージョンというべきものだろう。まず、ナレーションに起用されたのがヒップホップの世界でラッパーとして活躍する「ダースレイダー」こと和田礼氏で、エレキ・ベースを厚くしたこともあって、音楽は完全にロック調に変異。さらに、たしか3度目のシーケンスから英語のナレーションが日本語の訳詩に変わり、最終的にはそれらがミックスされていく。

ところで、作品は1971年、米国ニューヨーク州のアッティカ刑務所で、処遇の改善をめぐって占拠事件を起こした囚人たちのうちのひとり、サム・メルヴィルの手紙のなかにある言葉をテクストに、エレキを含む多様な伴奏で、ミニマル的に増幅されていくものだった。スコアはフレキシビリティが高く、演奏者の幅広い解釈を前提している。その詳細は、この曲について異様に細かく、専門的な記載のある wikipedia の記事を参照されたい。音楽的素材はきわめてシンプルで、私としては同じミニマルのライヒというよりも、ウェーベルンを思い出すほどであった。その薄い音楽的背景を後ろにおいて、ナレーターは否応なく背水の陣を布くように求められる。その緊張感が、正に囚人たちの立場を代弁するのであるが、同時に、音楽的な緊張感を途方もなく高めてくれるというわけであった。

しかし、こんな環境で言葉を発するナレーターをやることになったら、私は普通の精神状態でいることはできないだろう。今回は特に、エレキ・ベースとギター、ピアノを使って、ベースを強化したヴァージョンであり、ホールもさほど広くはないので、オン・マイクとはいえ、相当のプレッシャー(音圧)がかかることは想像に難くない。しかも、原典にはない日本語の訳詩が挟まり、和田には多分、クラシック音楽の専門的素養もないはずだ。しかし、作品のなかに潜む強烈なビートを深いところで直感的に捉え、見事に作品世界をサーフィンした和田の能力・・・というよりは、勇気に驚嘆した。作品本来の味わいからみれば、若干、シャウトが強すぎるという問題もなくはないが、あのテンションのなかで、それを批判するのはあまりにも非現実的というものだろう。

バックはベース楽器のほか、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、クラリネット、フルート、サクソフォン、ヴィブラフォン、アコーディオンで構成。今回はどうしてもベースとナレーションが目立つ演奏スタイルであるが、それらを追いつめるべく冷徹にポジションを守り、同時に、力の限りに演奏して響きを盛り立てる。ウェーベルンほどの節約したリソースしかないことが、彼らをかえって厳しい事態に追いやっている。感動的なのは、これら個々の奏者がアンサンブルとして、非常に力強い連携をみせたことである。そうしなければ、和田のほうから来る死に物狂いの声をはね返すことはできなかったであろう。

こうして、2つの必死さがぶつかり合った。

【アナーキズム】

4曲目のフランチェスコ・フィリデイ Francesco Filidei は、1人のアナーキストの死を題材にとるが、ジェフスキーの作品においても、正に、彼らは「アナーキスト」として演奏した。アナーキストとは何か。それは組織や国家に依存せず、自分たちの自由意思に基づいて協力しあい、理想的な社会を形成しようとする個人のことである。私の解釈では、アナーキストは自らの理想のためなら、生死も厭わず完全燃焼しなくてはならない。確かに、大杉栄はそうして死んだ。

一方、こういうイメージもある。アナーキズムとは、明るい思想である。勘ちがいしてはならない。ソヴィエトの「アナボル」対決は、アナーキズムでも社会主義でもない何ものかの対立であろう。私のアナーキズムの手本は、例えば、私が通っていた頃の法政大学で、野宿同好会のリーダーを務めたA氏である。彼らは幾分、世を怨みすぎているきらいもあったが、我が世の青春を精一杯に謳歌し、当時、大学に残っていた僅かな自由の風を大うちわで煽ぎながら、いつも下らぬ行動に明け暮れていた。よく酒を飲み、笑いあっていた。彼らの姿は大学再開発の波のなかで、もはや末期症状に属していたが、私はそうした人々の姿にアナーキズムの原点を見ていた。先の大杉にしても、多くの社会・共産主義者がそうであったような、不健康な暗さというものがない。

ジェフスキーの音楽を奏でるメンバーは、誰もが完全燃焼であった。ところが、そこには作品の来歴からいっても、当然あるべき悲壮さというものが全然なく、代わりに感じられるのは、囚人、メルヴィルのもっていた明るいエネルギーであり、それに対する冷徹な共感であったのだ。この風変わりな極左テロリストへの評価はともかく、彼の身に起こった恐怖や惨憺たる扱い、非人間的な体験といったものが、音楽のなかにすべて溶け込んでいる。そして、それは野田の爆発的なナレーションによって強烈に発現するが、それと対応するように、バックの人々がいっそう熱く、なおかつ冷静に歩調を合わせていなければならない。それはさしずめ、カンカンに怒った民衆たちのデモ行進と同じだと思えばよいのであろう。彼らは熱く怒ってはいても、隊列に加わり、腕を組んでともに後進する同志のことを、勢いに任せて吹っ飛ばしたりはしないし、むしろ、同志が警官隊に隙をつかれて連れ去られないように、守りあうものだ。ノマドのアンサンブルは、それをやっていた!

このようなパフォーマンスをみせられて、もはや冷静でいられるほうが不思議である。先に紹介したリンクの録音は、この日、体験した強烈な響きと比べれば、はるかに穏健で、オペラ的だ。私は、そういう作品を聴けると思ってきたのであるが、ノマドの演奏は「オペラ」などという生易しいものではなく、紛れもないひとつの現実であった。そして、その現実に向き合うフデレリック・ジェフスキーという作曲家の声を、私たちは聴いたのである。

【おらしょに基づく現代のメルヒェン】

これと双璧になるのが、我らが松平頼暁の『反射係数』であろう。作品は長崎県平戸の生月島に生き残った切支丹信仰の「おらしょ」に基づいたものである。作品は5つのパートに分かれ、最初の部分はグレゴリオ聖歌が原型になっているという。単純な打楽器のリズムで、ソプラノが何語ともつかない言葉で歌い出し、やがてピアノとヴァイオリンの伴奏に変わる。第2パートは平板なアーティキュレーションにより、ミサ典礼文らしきものを読む。第3パートはプリペアド・ピアノの技法が用いられ、アジア風の響きに変容させられたピアノの伴奏に、ソプラノの高度なテクニックに基づく技巧的な祈りの言葉が響く。第4パートはヴァイオリンの伴奏に基づく、もの悲しい祈りの風景。厳しい抑圧下での貧しい生活の風景もが物語られる。第5パートは再びプリペアド・ピアノとヴァイオリンによる伴奏で、今度は反転的に明るく、内面世界の充実を歌うかのようにして全曲が閉じられる。

特に、第3パートからの意外な曲想の変容が私たちを大いに戸惑わせるし、同時に楽しませるであろう。プリペアド・ピアノが初めて導入されるこのパートは、外部と切断された隠れ切支丹村の変容を、音楽で如実に物語るものとなる。第4パートは晩課に用いられる Nunc dimitttis を原形とする「ナジョー」であるが、特にリリカルに聴こえ、秘密を抱えた村に寂しく吹きわたる北風のようなヴァイオリンの響きに、うっすら上品にアジリタをかけた声楽の祈りの声が重なると、思わず涙がこぼれそうになる。

しかし、終曲になると、第3パートでは重々しく響いた南国的なピアノの響きが反転し、すべては上昇的に向きが変わる。抑圧の厳しさはまだ残っているが、その恐怖よりは、信仰に支えられることによってますます豊富となった、内面の分厚い輝きが端的に表現されている。ソプラノの吉川真澄は幕切れに向かって強く、高貴な声を絞り出し、圧倒的な迫力で作品は祈りを止めた。

この日、同じ敷地にある新国の中劇場では、松村禎三の歌劇『沈黙』が上演されていたはずだ。あの作品も凄いのだが、同様のテーマを松平の作品はもっとシンプルに伝えている。こういうパフォーマンスに接すると、遠藤周作がやっぱり二流の作家にすぎないということがよくわかるのではなかろうか。彼の作品は、一口にいってくどいのである。そのくどさがなければ、彼は自分がいかに純粋な信仰者であるか、表現できないから、そうするのだろう。彼もまた、「純文学」(念のためいえば、それはワタクシ小説のことである)の不幸な継承者であるのは間違いない。

一方、松平はこの作品を、現代の童話(メルヒェン)として描いている。遠藤の作品には、自分が純潔だという訴えしかないのに、松平の作品には豊富なポエジーが流れている。純潔はどこまでいっても純潔以外のなにものでもないが、ポエジーの素晴らしさは変容の可能性とともにあるからだ。音楽とは、正に変容である。松村禎三の音楽は圧倒的な誠実のみによって完成し、ワン・パターンな誠実と忍耐によって人々を苦しがらせる。こんなオペラは他にはないが、孤高の傑作であるのも確かであろう。だが、音楽と呼ぶには、いささか柔軟性に欠けるかもしれない。松平の作品には、彼の捨てた音楽が豊富に残っている。繰り返すが、音楽とは変容のことだ。そして、変容とは、そこに人々(=音楽家)がこころを託すことを意味している。

今回の演奏では、正にメルヒェンとしての特徴をよく捉えていた。この世界観は私たちの社会のなかに、確かに存在したはずのものだし、言葉の一部には日本語らしきものも聴き取れる。しかしながら、それらの言葉はすこしも私たちの言葉と連動してはおらず、言うなれば、ヤナーチェクの発話旋律がまったく異化された市場の会話であるのと同じように、似ているというそのことによって、かえって私たちを畏怖させるであろう。吉川真澄の透明な声のなかに、自分たちの知っている日本語にせよ、ラテン語にせよ、既知の言葉を見つける度に、私たちはゾクッとさせられたものだ。

【6人のアナーキスト】

最後に、前出のフィリデイの『アナーキスト・セランティーニの葬儀』について述べる。この作品は、1972年、ピサにおける反ファッショのデモに参加したアナーキスト学生、フランコ・セランティーニが、ファシスト組織と激突の末、警官隊に非人道的な扱いを受けて死亡した事件を扱っている。日本でいう、樺美智子さんのようなものだろうか。しかし、2006年の作。事件をそのまま描写したり、怒りをぶつけるようなスタイルではない。真っ暗ななかに浮かび上がった6人の黒服の「パーカッショニスト」たちが卓に横並びし、沈痛な表情で黙りこくっている。

場面はスースーと寝息を立てるような息づかいのアクションから、少しずつ動き出し、各人が交互に首を動かして振り向いたりして、パフォーマンス的な要素が現れる。次いで、肉体を打楽器のように使った様々なリズム展開がおこなわれ、口笛やフィンガー・クラップなども交えて、これらが激しく複合していくという感じで発展する。珍妙なパフォーマンスで、「葬儀」というにはいささかおどけた雰囲気であるが、そのくせ、非常に高い緊張感は最後まで保つ。途中、表情にも笑顔が出たり、それがすこしずつ衰えて悲哀に沈んでいくようなものもあり、エピソードは意外に豊富で語りきれないほどだ。

正直、意味は分からない。これが、なぜ、「葬儀」と呼び得るのであろうか。わかるはずもない。しかし、作曲者が人間のほぼ半身をフルに使い、ごく限定的なリズムだけを用いることで、先の『カミング・トゥギャザー』と同質の背水陣的な厳しさを、作品にもたらしているのは自明である。決して笑うことはできないが、そこにはある種のユーモアも浮き立ってくる。先にも述べたように、アナーキストのひとつの特徴は明るさである。例えば、『罪と罰』のラズミーヒンなどは、多分にスケベで、底なしに明るく、押しつけがましいほどにエネルギッシュで、アナーキストの才能がありそうだ。この音楽を通してみるセランティーニの本質は、こうした明るさのなかに求めるよりほかにない。

6人のアナーキストを演じたのは、アンサンブルの創設者で、リーダーである佐藤紀雄のほか、甲斐史子、宮本典子、木之脇道元、佐藤洋嗣、菊地秀夫の各氏。確かに、見紛うことなきアナーキストであった。そして、見事なパーカッショニストでもあったろう。

【まとめ】

このような作品を読み解くのは、とても難しいことだ。しかし、アーノンクール氏の指摘のとおり、フランス革命以後は、高度な教養の共有がなくとも、音楽が楽しめるようにと作品が変容した。嘆くべきであろう! 氏の言うとおり、その刹那的効果は得られたとしても、こうして21世紀に至って結果を検証すれば、私たちは、音楽を人生を切り開くための大切な手段とは見做さなくなった。もはや、タリバーンが大仏を壊したように、政治家が何らかの手段で劇場を爆破しても、誰も文句は言わないと思う。劇場で、メシは食えないからである。

ただし、その陰では、確かにこのような作品も生まれていたわけだ。ここで取り上げられた作品は社会、もしくは、それを動かす機能としての政治を取り扱っている。しかし、ノマドによる厳しい選抜を切り抜けただけあって、政治的なアジテーションのための音楽などひとつもなく、そのテーマ性が、すべて音楽に鋭く立脚しているのは明らかだ。アーノンクール氏の批判は、ときには正しくないことがあると証明された。革命以後の音楽でも、こうして高度なメッセージを伝えることは可能だったからである。

ここにはうまく書けなかったが、実のところ、私は演奏会の間中、政治のことなどあまり考える暇はなかった。それよりも、音楽的なメッセージがずっと濃厚だったからである。本当は、そこをもっと強調して書きたかったが、能力があまりにも拙い。書いてしまったものは書いてしまったものとして、公開する。それを憚るほど、立派な身分でもないからだ。しかし、次のようなことは、いくら強調してもしすぎるということはないだろう。この演奏会は、真に音楽的なものであった! そして、知的な喜びと、ふかい情念に満ち溢れていた。まるで、オペラの公演のように!

【プログラム】 2012年2月19日

1、C.ウルフ(ウォルフ) アカンパニメンツ
2、松平頼暁 反射係数
3、高橋悠治 この歌を君たちに
4、F.フィリデイ アナーキスト・セランティーニの葬儀
5、ベリオ オー・キング
6、ジェフスキー カミング・トゥギャザー

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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