2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ② | トップページ | アンサンブル・ノマド ジェフスキー カミング・トゥギャザー ほか 接触の様相 vol.3 「政治の季節~列伝風に~」 2/19 »

2012年2月12日 (日)

ルイス・クラレット (vc) カザルス 5つの作品 / リヒャルト・シュトラウス チェロ・ソナタ ほか with 岡田将 2/11

【カザルスへの尊敬】

ルイス・クラレットはカタルーニャ出身で、フランコ政権へ抵抗してアンドラに逃れた一家に生まれた。父親はカザルスと懇意で、ルイスの名付け親もカザルスだったという。チェロの直接の師ではないが、その弟から音楽の手ほどきを受け、彼の身近にあって多大な影響を受けてきたことは間違いない。そのクラレットが、浜離宮朝日ホールでリサイタルをおこなった。今回はおもに、日本チェロ協会による「チェロの日」のための来日と思われるが、その合間を縫って、日本の聴衆のためにリサイタルを用意してくれたのであろう。

終演後のコメントで、震災と津波の被害を常に気をかけていたというクラレット氏の言葉である。そして、このコンサートの副題には、’Respect for Casals’の標語が掲げられ、多分、日本初演というカザルス作の5つの小品が演奏されるのも注目であった。

【カザルス作品を聴いて】

そのカザルスの作品は、特に連作としてつくられたというわけではなく、このコンサートのために、クラレットが特に5曲を選んでまとめたものであるそうだ。最初の作品が1893年のものというから、カザルス(1876年生まれ)が17歳のときに書かれたものということになろう。そのあと、20代のときの作品が3つ並び、最後に1917年の作、つまり、カザルスが40代になったときの作品が置かれて、全5曲構成となった。

カザルスは、ラヴェル、クライスラー、シェーンベルクなどと同世代である。だが、ここで演奏された作品を聴くかぎりは、モダーニズムの影はなく、あくまで彼がプライヴェートな演奏者として感情を託しやすい作品が仕上げられている。演奏技巧的には非常に難しそうな面もありそうだが、相当に地味であり、クライスラー的なショーマン・シップにも基づいていない。極端ではない高音を中心に構成され、ときには低音のふかい呻きも使っている。しかし、どちらかというと、高音域をピアニッシモで優しく奏でることで、そこに自分の内面を託しやすいと考えていたようなフシがある。

第1曲’Pastoral’は、スペイン情緒を醸し出すマイナー・コードに始まり、ところどころピアソラ風(もちろん、ピアソラのほうが時代はあとになる)のメランコリックなカンタービレが効いていて、ハイ・ティーンにして既に深い内面性を伴った作品を書いていたことがわかる。途中、やや強引とも思える大胆な転調がみられ、そこからの明るく快活な展開もピアソラと共通点がある。後半、いったんチェロのカンタービレが途切れ、ピアノがこれをつなぐような場面が出る。ここからは終結に向かう雰囲気を醸しながらも、なかなか終わらないベートーベン的展開がみられた、

2-3曲目は、それと比べると、もうすこしコンパクトな作品だ。地味に難しく、微妙な高音を主体に、粘りづよく旋律が展開される。ところどころフランス音楽の影響が感じられ、当時の彼の勉強の様子が窺える。先に述べたように高音を優しく音にするところで、響きの内面にぐっとチェリストのこころがのっていく点は特徴的だ。第4曲’Romance’はこうした作風の初期作品のなかで、頂点を打つものと見做してもよさそうで、広い音域を自由に行き来しつつ、ダイナミックに世界を展開していく意図が明らかである。ただし、そうであっても、この時期のカザルスは作品をむやみに華々しく輝かせようという意識は希薄なようで、もっとシンプルに、自分のこころをギターのような親密な楽器に託す感じで、チェロの作品を生み出したかったのではなかろうか。

しかし、既に一級の演奏家とみなされていた1917年に書かれた最後の作品’Poem’は、名実ともに大作といってよい名品である。なにしろ、この作品を演奏するのを聴けば、もはや、そのチェリストの良し悪しはたちどころに判然とするぐらいに、この作品には演奏家としてのすべてが求められている。技巧的には、より若いときの作品と同じように、まだ地味なところがあるのも否定できない。しかし、本質的にパブロ・カザルスという「作曲家」は穏やかな音楽性をもっているようだし、その品格というものを形式的な華美や分厚さ、名技性の披瀝、深遠な思想といった諸々の、よりあからさまな象徴に対置しているようである。そうはいっても、この’Poem’においては、その控えめな部分がよりダイナミックな表現意図のなかに、高貴に輝くような発想がみられた。

【作曲家・カザルスとバッハ】

演奏技法上のことでいえば、この作品は、この日のようにバッハと並べることで、その特徴をハッキリと覚知することができるはずである。象徴的には、ボウイングのはなしになる。クラレットの演奏の著しい特徴のひとつは、あの弓さばきに求められる。正確には、この「弓さばき」という一般的な語彙は、クラレットのそれを表現するにはあまりにも不似合いである。なぜなら、クラレットは弓をもつとか、構えるというのでは誤解が多いと思えるほど、弓に軽く手を添えているにすぎないからである。彼の弓は真っ逆さまに落っこちない程度に、右手に引っかけられているだけのようにも見え、ダウンのときはもう、その自然落下にすこしばかり力を加えた程度で、弓が動いているに過ぎないようなのである。これは、特にロマン派や近代の作品では例外が多く、バッハの作品ではもっとも顕著に実感できる。

さて、カザルスの作品は明らかに、バッハのほうにちかく、彼がどういうものを手本にして作品を構想したのかは明らかである。ただし、バッハほど規則的ではなく、より自由な空間にチェリストが呼吸することまでは妨げていない。それにしても、このようなテクニックに基づくからこそ、クラレットが弾いたような淡い効果となるのであり、一見、地味ではあっても、腹にズシリと響くような音楽表現が楽しめるのだ。

嗚呼、まったく得がたい体験であった。ここに書いたようなことが感じられるのも、いつも書いているように、私が優れた批評家だからではなく、ましてや、良い耳の持ち主だからではあり得ない(聴音すら習っていない!)のであって、ひとえに、これを演奏した音楽家の「翻訳」が実に巧みであること、また、その演奏家の音楽理解がとてつもなく深かったことを示しているのである。実質的にはカザルスの「愛弟子」とも言ってよい、クラレットならではの仕事であった。

なお、幕間の主催者のマダムの舞台トークによれば、カザルスはこうした作曲活動にも生涯を通じて熱心であったが、生前はその出版を意識的に避けていたそうである。ここで演奏されたような作品を、カザルス未亡人のマルタさんは死後、出版するべきかについて大いに悩んだそうである。そして、それをクラレットへ内密に相談したうえで、結局、出版するべきだという結論に至った。そして、先ごろ、カザルスの記念館におけるアニヴァーサリー事業のなかで、カザルスの自作品がまとまって演奏される企画があり、これは録音されて、間もなく市場に出てくるとの次第だったので、楽しみになさってくださるとありがたい!

【リヒャルト・シュトラウスの名演】

思うに、これらの作品にカザルスは自信をもっていたであろう。確かに前衛的ではないし、歴史を動かすような新しさがあるかどうかはわからない。しかし、彼はこうした作品が後進のチェリストにとっても、広く愛着を抱かせるレパートリーになるであろうことを信じていたはずだ。ただし、彼の創作は常に、自分自身の内面と向きあったものであり、そのことが自分の生前、公になることには人間的な恥じらいがあったのであろう。その点、紳士面であるにもかかわらず厚顔で、夫婦喧嘩までオペラにしてしまうようなリヒャルト・シュトラウスのような度胸とは、まったくちがっていたのである。

そのシュトラウスのチェロ・ソナタこそが、この日のメインであった。先に示したような人間性のちがいを示すように、まったくもって、演奏は変わってしまった。動きはダイナミックで大胆、響きはゴージャスにして華美そのものというべきだ。ボウイングなどは合理的だが、それでもより力を加え、弓を入れる角度も様々に工夫して、近代的な大きなホールで弾いても栄えるようにと考えてつくられている。クラレットの演奏は、そうであってもコンパクトで、スタイリッシュに作品を大事に扱うことに主眼を置くものだ。高音はますます高貴に、低音は柔らかく。そして、もっとも重要な点は、人間的なカンタービレに基づいた呼吸の深さである。

これに一役買うのは、ピアノのサポートだ。今回は岡田将が相手を務めたが、私にとって決して好きなタイプの奏者ではないが、この日は黒子に徹し、クラレットの動きを丁寧にサポートすることに賭けていたのは感心である。それが演奏会全体でみたときには、若干、謙虚すぎるように思えたのだが、このシュトラウスの演奏においては得がたい印象を残した(最後に来て、アプローチもいささか積極的になった)。

とりわけ凄いのは、スケルッツォとフィナーレがくっついてしまったような第3楽章の演奏であった。まず、前半部分のアイロニカルな中にも、整然と筋を立てて進むときの圧倒的な迫力である。また、要所にさりげなく用いられるルバートの働きも、この楽章にとって命のようなものであった。中間、非常にヘルシーな響きのする飛び石的な響きを鮮やかな理知でつなぎ合わせると、終盤の凄絶なフィナーレに変わる。チェロの豪快な音楽の運びに反応し、徐々にピアノのアジテートも深まる。再び、一時の静寂と慎重な回帰を経て、爽やかなコーダに移行する。

全体の鮮やかなサウンドの煌びやかさにもかかわらず、クラレットの演奏は相変わらず上品で、響きにケバケバしたところがまったくない。それでいて、あれほど主張のある音楽を奏でられるのだから、これはもう感涙ものであった。

【その他の演目】

バッハも、素晴らしかった。BWV1028 は、原曲がヴィオラ・ダ・ガンバの曲だが、それに相応しいこだわりのみられるボウイングと、シンプルな伸縮による演奏がこころを惹いた。ガット弦によるボウイングとは若干、異なるように思うが、作品のもつメッセージ性は決して潰さずに、繊細な装飾やアーティキュレーションの運びが組み立てられている。アンコール・ステージの最後では、ファリャの「ナナ」につづけて、カザルスの『鳥の歌』が演奏され、その深い内面性と、それ自体が高貴に感じられるような故人への敬意に対して、改めて感動を味わった。

【まとめ】

なんといっても、中間のカザルスの作品に胸を打たれたリサイタルである。クラレットもこれがやりたくて、このリサイタルを開いたのだろう。そして、願わくは、こうした作品が後進のチェリストにも愛されるようにと願っているのだ。なお、翌12日、クラレットはそんな想いを抱きながらかどうかはわからぬが、マスタークラスとアンサンブル・コンサートに出演するそうである。先に紹介の、「チェロの日」である。最後にチェロ・オーケストラによる演奏というのもあるそうなので、この楽器が好きな人には、今更ながらオススメだ。

それにしても、ニッチなコンサートばかり選んでいる。私はいわゆる「コンサートゴーアー」というのに当たるのかもしれないが、仮に同じような趣味の人がいるとして、その友人と私が出会うことは意外に少ないだろう。多分、彼は「青いサカナ団」の公演に足を運んだりはしないだろうし、得体の知れないバレエ団主催のオペラ公演になど興味を示さない。私がいくコンサートは、「俺は満員のインバルの公演を聴いた」とか、「あの高名なサイモン・ラトルの演奏を聴いてきた」とかいうことでは、人に自慢ができないようなものばかりだ。しかし、確実に、公演の質は素晴らしい。本来、そういうものを私たちは見逃すべきではないのだ。たまにはハズレもあるが、私はいつも幸福である!

来週はまた、そういう幸福を得るためにアンサンブル・ノマドを聴く予定・・・。

« ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ② | トップページ | アンサンブル・ノマド ジェフスキー カミング・トゥギャザー ほか 接触の様相 vol.3 「政治の季節~列伝風に~」 2/19 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/53958618

この記事へのトラックバック一覧です: ルイス・クラレット (vc) カザルス 5つの作品 / リヒャルト・シュトラウス チェロ・ソナタ ほか with 岡田将 2/11:

« ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』 武井基治 題名役(主演) 2/9 ② | トップページ | アンサンブル・ノマド ジェフスキー カミング・トゥギャザー ほか 接触の様相 vol.3 「政治の季節~列伝風に~」 2/19 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント